第102話 サイフォンの決意…アルバン平野の戦い

「おお、ダイエンか」


 待っていた大柄な若者を見て、サイフォンは懐かしそうな顔で言った。


 ダイエン・シャーホウ。

 このハンウェイ人青年は、新皇帝バルタザールの少年時代の学友であり、かつてサイフォンがバルタザールに武術を指導していた時、バルタザールと共にサイフォンについて武術を学んでいた。

 ダイエンは体格と才能に恵まれており、サイフォンの教えをどんどん吸収して行くと、わずか十二歳の時には大人と対等に闘えるほどの腕になった。また、武芸だけでなく学問にも優れたものがあった為、今はバルタザールの護衛役を兼ねる側近となっている。


「お前が密使か」

「はい」


 ダイエンはにこりと笑うと、「お久しぶりでございます」と、頭を下げた。

 ダイエンは謁見室で待っていたが、上座には座っておらず、中央で立ったまま待っていた。


「私がこうして派遣されて来たことは、他には誰も知りません。バルタ……いや、陛下が私だけに話し、こうして遣わしました」

「それほどの大事か」


 サイフォンが深刻そうな顔となると、ダイエンはふと気付いて苦笑した。


「ああ。ちょっと大げさですね。そんなに大したことではございません」


 と言って、ダイエンは一通の手紙をサイフォンに差し出した。


「陛下から、サイフォン様への直筆のお手紙です」

「なんと」


 サイフォンは両手で受け取ると、中身を開いてみた。


 文面を読み進めて行くうちに、サイフォンの表情に哀切の色が浮いた。


 バルタザールが自ら書いた文章は、まず、サイフォンらハルバン城への援軍の数が少なくなったことを詫びることから始まり、その上でサイフォンを激励する内容であった。

 まだ若いが故に、文章には皇帝らしい荘重さは無い。だが、行間と言葉使いからは、サイフォンへの真摯な想いが滲み出ていた。

 そして、最後の一部分が、サイフォンの胸を打った。


「サイフォン、今の私は飾りの皇帝だ。文武の臣たちは皆丞相に従い、全ての決裁は丞相の許可を得なければならない。私は皇帝と言っても、誰も動かすこともできず、何もする力がない。玉座の上に座ると言うことがこんなにも苦しいことだとは知らなかった。サイフォン、私は今、かつてそなたに武術を教えてもらっていた日々がとても懐かしく思われる。サイフォン、そなたが戦に勝ったらアンラードに呼ぼうと思っている。また、私に弓を教えてくれ」


 また、私に弓を教えてくれーー


 この言葉の真意を、サイフォンは理解した。


「陛下が、私に助けを求めている」


 サイフォンは手紙を持つ手を震わせた。

 脳裏に、かつてバルタザールに武術を教えていた頃の日々が思い起こされた。


「陛下……」


 サイフォンの目尻から、すっと一筋の涙が流れた。


 ダイエンが、そっと言った。


「私もできる限りのことはしているのですが、それでも微々たる力です。サイフォン様、どうか陛下のお力になってください」

「ああ……」


 サイフォンは指で涙を拭って答えた。


「シュエリーはずっと可愛がって来た身内。リューシス殿下は素晴らしい器量を持ったお方。この二人と戦うのは心苦しい。だが、俺は七龍将だ。そして、やはり陛下を裏切ることはできん」


 サイフォンの顔は、一切の迷いを断ち切った厳しい武人の顔となっていた。



 そして、リューシスはハルバン城攻略へと動いた。

 総勢五千五百人を率いてルード・シェン山から進発し、途上の砦や付城を次々と落として兵数を増やしながらハルバン城へと迫った。


 リューシスの野戦での強さを熟知しているサイフォンとしては、できれば野戦を避けて城に拠って戦いたかった。

 しかし、ハルバン城にはアンラードからの援軍二千人を加えてまだ一万二千人を超える兵数を擁しており、単純な戦力比較ではリューシス軍の約二倍である。そのような戦力状況で、兵法上で下策と言われる籠城策を取るのはあまりにも消極的過ぎて、兵士らの士気にも響く。


「乾坤一擲の勝負に出るしかない」


 サイフォンは、リューシス軍を迎え撃つべく八千人の軍勢を率いて出撃した。


 両軍の進軍経路、所用時間を考慮すると、決戦の地と予想されるのはハルバン城の東南に広がるアルバン平野であった。


 アルバン平野は、樹木はまばらで、幾つかの丘陵が点在しているだけの地形であり、単純に考えれば兵数の多い方が完全に有利である。

 戦場に到着する前日の行軍中、リューシスはどう戦うべきか思案していたが、ふと思いついてシュエリーを呼んで言った。


「シュエリー。お前はサイフォンの性格について、長所も短所も良く知っているだろう。今回の作戦立案から指揮まで全部を任せたいと思うがどうだ」


 これは、今後の戦略を視野に入れてのことであった。


 現在、リューシス陣営には、バーレン、ネイマン、そして客将であるがバティ、などの一騎当千の猛将、イェダー、ヴァレリーの軍の指揮統率に長けている指揮官がおり、武人ではないが天法術に通じてその運用にも詳しいエレーナがいる。


 しかし、戦争における全体の戦術立案と全軍の運用に長けた者はいない。

 唯一、駐屯軍司令官であったヴァレリーは全体指揮はできるが、戦術立案は得意とするところではない。

 現在、戦術立案と軍全体の指揮統率はリューシスが一人で担っているのだ。


 しかし、今後リューシスらが多方面で戦略を展開して行くことを考えると、リューシスと同様の役割ができる人材が欲しい。


 そう考えた時、ちょうど適任なのがシュエリーであった。性格にはかなり癖があり、個人的戦闘は不得手ではあるものの、兵術と虚実の論に詳しく、十四紅将軍であったので軍隊の指揮にも長けている。


 それ故、リューシスは今回試しにシュエリーに全てを任せてみようと思ったのだが、シュエリーはやや困ったような顔をして、


「ま。なんて意地悪ですこと」


 と、笑った。


「何が意地悪なんだよ」


 リューシスが眉をしかめると、


「確かにサイフォン様の事は私が一番知っているとは思いますが、アルバン平野のような平坦な地形で、しかも数で上回る敵軍を相手にしてその命令は意地悪じゃありませんか?」

「ああ、まあそうだな……」

「ですが、君命でありますから、承知いたしました」


 シュエリーは、すぐに微笑して答えた。


 そして翌日、両軍はアルバン平野の南北で対峙した。


 リューシス軍約六千人対サイフォン軍約八千人。

 兵数は違えど、奇しくも両軍の布陣は似通っていた。


 両軍共に、中央を数段にやや厚くした横陣であった。

 だが、サイフォン軍の方が兵数が多いので、サイフォン軍の方が長く、また、両翼が斜めに前に出ている鶴翼に似た布陣である。

 両軍の間はやや高低差はあるが、基本的には障害物の無い草地であるので、サイフォン軍はそのままリューシス軍を両翼包囲できる態勢である。


 一方のリューシス軍は真っ直ぐな横陣であり、最右翼にバーレン・ショウの歩兵部隊五百人、最左翼にはネイマン・フォウコウの歩兵部隊五百人を配し、中央は前線からヴァレリー・チェルノフ三千人、シュエリー・ユー七百人、そして本隊であるリューシスの騎兵と飛龍兵の混成部隊八百騎、と並び、その上でバティ率いる一角馬部隊五百騎を予備部隊としてその更に後方の丘の陰に隠した。


 そして正午前、どちらからともなく開始された弓矢の撃ち合いで戦いが始まった。

 両軍の前線から間断無く矢が飛び交い、乾いた上空は無数の銀線が絶えず交錯する。


 やがて、すぐにシュエリーがリューシスに進言し、合図の角笛が鳴らされた。


「合図だ。動くぞ!」


 リューシス軍、最右翼のバーレン、最左翼のネイマンが、それぞれ敵の側面へ回り込むようにじわじわと動いた。


 それを見たサイフォン軍側の部将たちは、「包囲するつもりですぞ、動きましょう」と進言した。


 サイフォンは、注意深くリューシス軍の陣容を見回して、


「敵には騎兵の姿が見当たらない。あの両部隊の迂回行動は囮で、我らの左右両翼があの両部隊を撃退するべく戦っている間に、どこかに隠している騎兵で更に大きく回り込んで来る可能性がある。それに注意しながら当たれ」


 と、左右両翼の騎兵を預かる部将たちに注意してから、バーレン、ネイマンらを迎え撃ちに行かせた。

 この時代の騎兵は、両翼に配置して敵の側面背後を包囲する運用法だけでなく、予備部隊として温存しておき、作戦行動の決定機に投入することが多い。


 程なくして、左右から回り込もうとするバーレン、ネイマンの両部隊と、それらを阻止しようとするサイフォン軍の両翼騎兵との間で戦闘が始まった。


 兵数ではサイフォン軍の方が上回っているが、バーレン、ネイマン二人の猛将が自ら前線で戦っているおかげで、互角の戦いを演じていた。だが、それでも時間の経過と共に兵士達も疲れて来て、やがてじわじわと押されて来た。


 それを見て、シュエリーが指示を出した。


「左右両翼を援護に!」


 中央のヴァレリー隊から五百人ずつを切り離してバーレンとネイマンらの援護に向かわせ、またシュエリー隊も自ら二手に分かれて、援護に向かった。


 そのリューシス軍の動きを見たサイフォンは――


 ――両翼を崩されてはそのまま兵数の多い我らに包囲されてしまう。であればそれを防ごうとするのは当然だ。しかし騎兵はどこだ? 連れて来ていないのか?


 と、戦況を見渡していると、リューシス軍の中央にあるヴァレリー隊が一部を切り離して両翼援護に向かわせたので、その中央がかなり手薄になっていることに気付いた。


 しかも、左右両翼での戦いに自然と引きずられ、兵と兵の間に隙間が出来ていた。そして、何とそこからその奥のリューシスの本隊が見えた。

 リューシス本隊は騎兵と飛龍兵の混成部隊である。サイフォンは目を見開き、思わず声に出した。


「騎兵はあそこか! そして飛龍兵もいると言うことは、あれが殿下の本隊だ……しかもすぐに突ける位置にいるではないか」

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