第101話 ローヤン帝国の危機とサイフォンの憂鬱

「そう言えばそんなことあったな」


 少年時代のこの事を完全に思い出して、リューシスは気まずそうに苦笑いした。


「でもね。あの後、結局七彩石チーツァイシーは手に入らなかったんですよ。これ、一つもらってもいいですよね?」


 シュエリーは、わざとらしいほどににっこりと笑った。


「はい」


 リューシスは何も言えずに手渡すしかなかった。


「殿下、私は早くサイフォン様にこの七彩石チーツァイシーを見せたいです。きっとお喜びになりますわ」


 シュエリーが言ったこの意味を、リューシスはすぐに理解した。


「わかった。アンラードから援軍が来てしまう前に、急いでハルバン城を攻略しよう。そしてサイフォンを味方に引き入れるぞ」


 リューシスは力強く言って腕をまくった。




「懐かしい夢だ……」


 机の上でのうたた寝から覚めて、サイフォンは呟いた。


「結局あのことがきっかけになって、シュエリーが兵術に興味を持つようになっちまって今に至るわけだが……あの後は散々シュエリーの親父さんに怒られたっけな」


 サイフォンは昨日のことのように思い出して微笑んだ。そしてあくびをして背を伸ばすと、机の上の呼び鐘を鳴らした。

 外から「失礼いたします」と、取次役の兵が入って来た。


「トンロー屋は何も言って来てないか?」


 サイフォンが訊いた。トンロー屋とは、ハルバンで最大の商家であり、サイフォンは何かと物資の調達をトンロー屋に依頼している。


「ええ、先程も訊きに行って参りましたが、まだ何も、だそうです」

「そうか、まあ、仕方ないな。では、アンラードから援軍要請に対する返事などは来ていないか?」

「まだ来ておりません」

「まずいな。向うにはシュエリーがいる。恐らくリューシス殿下らはそろそろ攻めて来るぞ」


 サイフォンは焦れた表情を見せた。


 だがその時であった。

 別の取次役の者が駈け付けて来て、アンラード朝廷からの使者が手紙を携えて到着したことを報告した。


「おお、来たか。では早速会おう」


 サイフォンは喜んで使者を連れて来させたが、使者の言葉と差し出した手紙は、彼を失望させた。


「たった一千人?」


 サイフォンが手紙から目を上げて使者を見ると、使者も困ったような顔で、


「ええ。南方タイピン州でのアーシン・トゥオーバーの反乱もまだ鎮圧できていない上、つい二日前にはガルシャワ軍侵攻の報も入ったのです。それらへも兵を送らねばなりません故」

「何、ガルシャワが侵攻だと? それは一大事だ。だが、それにしてもこちらへはたった一千人とは」


 サイフォンは顔を険しくしたが、使者は言った。


「これでも多い方だ、と陛下は仰られました」

「陛下?」


 サイフォンはじろりと使者を見た。


「リューシスパール様のルード・シェン山軍は総勢六千人から七千人ほど。対してサイフォン様のハルバン城にはまだ一万人を超える兵がいる。数では勝っているのに、臆して援軍を求めるとは何事か。一千人を出せるだけでも感謝すべきだ、と」

「戦は兵数のみで語れるものではない。ましてや相手はリューシス殿下なのだぞ」


 サイフォンは怒りを抑えるような語気で言ったが、


「そもそも、自らの失態でマンジュ族に奪われたハルバン城を、こともあろうに敵であるリューシスパール様の力を借りて奪い返したことすら言語道断。本来この時点で懲罰ものである。しかも、このような行動は、リューシスパール様と通じていると考えられてもおかしくない。それをこれまでの功績に免じて許しているだけでも感謝するべきである。この上は、予から送る一千人の兵と共に逆賊を討ち果たし、速やかに汚名挽回をせよ。さもなくば七龍将チーロンジャンの職を解く。と、皇帝陛下は仰られております」


 使者がすらすらと述べると、サイフォンは低い声で訊いた。


「陛下がそう仰ったのか?」

「はい」


 使者が頷くと、サイフォンは鋭い眼光で使者を睨んだ。


「嘘を言うな。俺は長らく陛下の武術指南役だったから、陛下のお人柄とその性格はよく知っている。陛下はそのようなことを言われるお方ではない。それは恐らくワルーエフ丞相の言葉だろう」

「いえ、陛下のお言葉です」

「馬鹿な!」


 サイフォンが思わず激して詰め寄ると、使者は一瞬たじろいだが、すぐに冷静に努めて言った。


「ラドゥーロフ将軍、お言葉慎みなされ。私は陛下から直々に遣わされた使者であります、私の言葉はすなわち陛下のお言葉です」


 こう言われてしまうと、サイフォンも言葉がなかった。

 それ以上は何も言わず、部下たちに命じて使者を別室でもてなさせた。


 実際、サイフォンが見抜いた通り、使者の言ったことはほぼマクシムの言葉であり、援軍の兵数一千人と言うのもマクシムが決めたことである。


 だが、マクシムとしてもこれは苦渋の決断であった。


 先帝イジャスラフの没後、バルタザールを傀儡化し、かつての勢いを上回るほどの権力を手中にして国政を壟断しているマクシムだが、その彼が国内で唯一恐れ、何としても排除したいと考えているのがリューシスである。


 リューシスは先帝の第一皇子であり、軍事能力に優れ、不思議な人望もある。

 しかも、マクシムは全力でそれを否定して火消しているが、リューシスは自分の先帝謀殺の真実を知り、それを天下に主張しているのだ。

 その為、できれば全兵力を集中して速やかにリューシスを討伐したい。


 だが、この時のローヤンの内外を取り巻く情勢は非常に難しく、それは許されなかったのだった。


 先月には、リューシス挙兵の機をついて反乱を起こしたアーシン・トゥオーバーによって、南方タイピン城が陥落している。

 その時も、ローヤン朝廷は、ハルバン城をマンジュに奪われたサイフォンから援軍を求められていたのだが、宰相マクシムはアーシンの反乱を先に鎮圧してからハルバン城へ兵を送ろうとし、十四紅将軍シースーホンサージュンのアレクセイ・チェリシェフに六千人の軍団を預けて派遣した。

 だがその結果は、総兵力わずか二千人程度のアーシン軍に撃退されてしまったのだった。


 アレクセイの鎮圧軍は、アーシンら反乱軍の兵数の少なさを侮り、また、アーシンらは所詮寄せ集めの烏合の衆、と舐めていたところがあった。

 アーシンは、集めていた情報によって彼らのその油断を知り、鎮圧軍がタイピン城付近に到着する前に、自らトゥオーバー族の精鋭部隊を率いて出撃、横合いから不意打ちの急襲を仕掛けた。

 トゥオーバー族は個々人の戦闘能力が高いことで有名である。全軍で急襲をかけた上、アーシン自らその豪勇を振るうと、鎮圧軍は散々に討ち破られて潰走した。


 アレクセイは残兵をまとめて、北にあるニーベル城に逃げ込んだ。

 アーシンは勢いを駆ってそのままニーベル城にも攻めかかったが、そこはアレクセイも流石に十四紅将軍シースーホンサージュンであった。彼はあらゆる手段を尽くしてアーシンの猛攻を防ぎ、包囲させることもなく逆に追い散らした。


 しかし、アレクセイらも兵力不足ゆえにタイピン城への逆襲には出られず、現在はニーベル城にあってアーシンらと対峙している状態である。


 そこへ、つい三日ほど前に、ガルシャワが総勢三万人の大軍でワイシャン城に向かっている、と言う急報が届いた。現在、ワイシャン城の総兵数は一万七千人である。

 リューシスの討伐やアーシン反乱軍の鎮圧も急務だが、ガルシャワと言う外敵の侵攻はそれらを上回る大きな脅威である。


 こうして、アンラードの朝廷は三方面へ同時に兵を送らなければならなくなったのだが、サイフォンのハルバン城はまだ一万人を超える兵を擁しており、六千人から七千人の兵数であるリューシス軍より兵力では勝っている。

 それ故、マクシムはワイシャン城とニーベル城の救援を優先し、ワイシャン城へは二万人、ニーベル城へは五千人、ハルバン城へは一千人を派遣すると決めた。


 だが、会議を開いた朝堂で、皇帝バルタザールが玉座から異を唱えた。


「待て、マクシム。ハルバン城へはたった一千人? 少なすぎないか?」

「いや、これでも多い方です」


 マクシムは振り返って一礼した後、苦渋の顔を上げた。


「今ご説明申し上げた通り、我が軍は、アンラードの限られた兵を、ハルバンだけでなく、ワイシャンとニーベルにも送らねばなりません。ですが、ハルバン城のラドゥーロフ将軍らはリューシス殿下よりも総兵力では上回っている上、何と言ってもラドゥーロフ将軍はローヤン軍最高幹部である七龍将軍の一人です。単純に考えれば、本来援軍を派遣しなくてもよい状況です。しかし、私はリューシス殿下の将才を恐れているが故、わざわざ一千人を割いて向かわせるのです。これでも多い方なのです」

「それはわかる。しかし兄上の軍才は恐ろしい。サイフォンは予の武術指南役であった。死なせたくない」

「お気持ちはわかりますが、これが最善策なのです」


 マクシムが困った表情を見せると、七龍将の一人、ダルコ・カザンキナが「陛下、丞相」と進み出て、


「私も不安です。伝え聞いた先日のハルバン、マンジュでの一連の戦を見ても、リューシス殿下の軍事能力は尋常一様ではありません。兵数で上回っていても危ういと存じます」


 と、ダルコが言ったのだが、マクシムは目を剥いた。


「ではどうせよと言うのだ? ワイシャンとニーベルは、共に敵方よりも兵が少ないのだぞ。兵数で劣っている城へ援軍を送らずに見殺しにし、兵数で勝っている城へ援軍を送るなどすれば、末端の兵士らはもちろんのこと、天下の民心もローヤンから離れるだろう。特に、ワイシャン城はクージン城と並ぶ対ガルシャワ防衛の要衝であり、ここをガルシャワに奪われてしまえば一気にローヤン領内への侵攻が可能になる。さすればローヤンは一気に滅亡の危機に陥る」


 マクシムが声を荒げて言うと、ダルコら群臣は皆、反論できずに黙ってしまった。


 その様を見て、若き皇帝バルタザールは小さな溜息を玉座の上に吐いた。


 その日の深夜、サイフォンは眠ることができず、寝室で一人葡萄酒を飲んでいた。

 最高級であるランカイフォン産の葡萄酒を、龍の紋様が描かれた陶器の杯で何杯も飲んだ。

 しかし、杯を重ねても酔いは訪れず、サイフォンの憂鬱な顔は晴れることはなかった。


 ――朝廷の言い分はわかる。


 サイフォンは、杯を微かに揺らした。こうすると、芳醇な香りが漂うのだ。だが、その香しさもサイフォンの苦悩を和らげることはない。


 ――だが、敵はリューシス殿下だ。尋常一様の相手ではないのだ。加えて今はシュエリーもいる。兵数で上回っていると言っても少しも安心はできない。


 サイフォンは杯に残った葡萄酒w一気に煽った。

 そして、ぽつりと呟いた。


「正義は殿下にある……ならばいっそ、殿下に降るか?」


 サイフォンは、思いつめた表情で空になった杯を見つめた。


 だがその時――


 木の扉の外から静かな足音がしたかと思うと、


「ラドゥーロフ様、夜分お休みのところ申し訳ございません」


 と、扉を叩く音と共に、小間使いの者の声が聞こえた。


「何だ?」


 サイフォンはぶっきらぼうに答えた。


「ああ、起きていらっしゃいましたか。実は、皇帝陛下より密使が参りました」

「何、陛下よりの密使だと?」


 サイフォンは驚いて思わず立ち上がった。


「如何いたしましょう?」

「もちろん会うに決まってるだろう。だがここでは失礼だ。謁見室へお通しせよ、もちろん上座でな」


 サイフォンは命じると、急いで着替えをし、身支度を整えて謁見室へと向かった。

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