第96話 正義の谷間

 翌日の午前。

 十四紅将軍シースーホンサージュンシュエリー・ユーは、ハルバン城の政庁へ出仕すると、すぐに城主執務室を訪れた。

 名乗りを告げて中に入ると、サイフォンが中央奥の机で、じっと何か考え込んでいた。

 机の上には何枚もの書類が置かれており、サイフォンは仕事の真っ最中と見られたが、彼は筆も取らずに虚空の一点を見つめている。


「サイフォン様、如何されましたか?」


 シュエリーが不審に思って机の前で問いかけると、サイフォンは「おう」と答えてシュエリーを見た。


「何を考えておられたのですか?」


 シュエリーが再び訊くと、サイフォンは、きいっと椅子の音を立ててシュエリーを見た。

 

「いやな……シュエリー。お前、リューシス殿下のことをどう思う?」


 シュエリーは、ぱっと頬を桃色に染めた。


「殿下は……バーレンどのやガルシャワのシーザーほどの美男子ってわけじゃないですけど、かっこいいですよね。秘めた内面の優しさが出ている感じで……。でも私のことは好きになってくれそうにないです。何か冷たいんですよね。でも、そこがまた良くって……」


 シュエリーが少女のように言うと、


「おいおい、そう言うことを訊いているんじゃねえよ

 

 と、サイフォンは溜息をついて呆れた。


「え? じゃあどういうことですか?」

「殿下個人の器量についてだよ」

「ああ……なあんだ」

「なんだ、じゃねえよ。お前の頭の中はどうなってるんだ?」

「うふふ。私の頭の中は妖精さんたちでいっぱいの花園ですわ」

「台風でも来るといいな」

「酷い。殿下みたいなこと言って」


 シュエリーはむすっとした。

 サイフォンは苦笑すると、また急に真面目な顔となった。


「そのリューシス殿下だがな……俺はわからなくなってきた」

「何がですか?」


「今回、殿下にとってもマンジュの侵入は見過ごせないとは言え、敵対している我らの救援要請に快く応えてくれた。その結果、殿下はハルバン城奪還の為にカラドラス急襲と言う策を取ったのだが、なんとマンジュを臣従までさせてしまった。昔から戦上手ではあったが、最近は神懸かっているかのように冴えて来ている。このような才を持つお方を討っては、ローヤンにとっては大きな損失ではないのか?」

「…………」


「戦の才だけではない。殿下は欠点も多いのだが、生来不思議な魅力がある。配下の将兵たちだけでなく、ルード・シェン山やその周辺の民からも慕われていると聞く。しかも、元々ローヤン皇帝家の血を引く皇子だ。このようなお方を逆賊として討伐することが、果たして正しいのだろうか?」


 サイフォンは、机の上で肘をつき、両手を組んだ。


「サイフォン様がそう思われるのもわかります。ですが、殿下の方からローヤン朝廷に対して兵を挙げたのです。皇子とは言え、朝廷に背いた逆臣であることは間違いありません」

「まあな。だが、それだって殿下が主張する理由は、ワルーエフ丞相が皇太后様と共謀して先帝を毒殺したからだ、と言うじゃないか」

「しかし、それが立証できずに真偽が不明である以上、殿下に大義名分はございません」


 シュエリーは、先程までとは一転して才女の顔となっていた。冷静に言葉を継いでいく。


「そうだ……だが、俺は思い始めて来たんだ。殿下はローヤンにとってはなくてはならぬお方だ。討つべきではないのではないかと」

「しかし、私たちは殿下の討伐を命じられておりますよ」

「だからこうして悩んでいるんだよ。どうしたものかなと」


 サイフォンが言うと、シュエリーは何も言わずにサイフォンの顔を見た。

 沈黙が、流れた。

 やがて、シュエリーがふふっと笑った。


「サイフォン様。実は私もリューシス殿下のことについてお話があってやって参りました」

「ああ、そう言えば、何で来たのか訊いてなかったな。話ってなんだ?」

「ええ。実は、ずっと考えていたんですが、私は殿下の下に参ろうとかと思います」

「は?」


 サイフォンは、ぽかんと口を開けた後、


「はあ? 何だって?」


 と、目をぱちぱちさせてシュエリーを見た。


「ルード・シェン山へ。殿下の軍に加わろうと思います」


 シュエリーは屈託なくにこにこと笑いながら言った。


 サイフォンは意味がわからず、ぽかんとしていたが、


「……何かの策か?」

「いえいえ、策などではありません。殿下の下で働こうと思います」

「おい。ローヤン朝廷から離脱して、ルード・シェン山側へ寝返るってのか? たった今、殿下が逆賊であるときっぱり言ったのはお前だぞ」

「はい。逆賊なのは確かですが、私は別に気にしません」


 シュエリーは、にっこりと首を傾けた。


「いやいや、待て。お前は先祖代々ローヤンに仕えて来た名門武官、ユー家の出。しかもお前自身は十四紅将軍シースーホンサージュンだぞ? その家や地位を捨ててまで殿下の下へ行くってのか?」

「はい。家に関してはちょっと複雑ですが、十四紅将軍なんて地位は元々どうでもいいと思っていますし」


 サイフォンは唖然としてシュエリーの顔を見つめたが、やがて椅子の背もたれに深くよりかかり、溜息をついた。


「お前がそう言い出した以上、何を言っても聞かないだろうな。しかし、何でまた? どういう理由だ」

「理由なら、サイフォン様が今言ったとおりですよ。リューシス様はローヤン帝国に必要なお方だと強く感じたからです。ワルーエフ丞相や皇帝陛下よりもね」

「お前……畏れ多いことを言うな」

 

 サイフォンは慌てて身を乗り出した。


「それに、リューシス様を討つ戦いをするよりは、リューシス様を助ける戦いの方が面白そう」


 シュエリーは少女のようににこにことした。


「おいおい、国家の大事を子供の遊びのように言うな」

「でも、殿下の方がローヤン国民の生活を面白くしてくれそうじゃありませんか?」


 シュエリーが言うと、サイフォンは黙りこくった。

 そこへ、更にシュエリーが続けた。


「サイフォン様、私と一緒に殿下の下へ参りませんか?」

「何? 馬鹿なことを言うな」


 サイフォンは、恐い顔をしてシュエリーを睨んだ。


「俺はローヤンと皇帝陛下に忠誠を誓っている上、軍の最高幹部である七龍将チーロンジャンの一人だ。いかに殿下が優れたお方とは言え、逆賊となった殿下の下へなど行けるか」

「ですが、殿下の言うことが真実だとすれば、ワルーエフ丞相は皇太后様と謀って先帝イジャスラフ様を暗殺したのです。その上、丞相は今の皇帝陛下を傀儡とし、己の意のままに国政を牛耳っております。真の逆賊は丞相ではないでしょうか?」

「言いたいことはわかる」


 サイフォンは即座に言った。

 だが、立ち上がると、毅然とした態度で長剣を手に取った。


「しかし、殿下はやはり逆賊なのだ。少し朝廷に問題があったからと言って、いちいちそう簡単に反乱を起こしていては国は安定しない」

「それはわかります。しかし、敵対していた私たちの勝手な頼みを引き受けてくれ、ハルバン城を奪還したばかりかマンジュを臣従までさせたリューシス殿下に、その理が当てはまりましょうか」

「もう言うなシュエリー!」


 サイフォンは声を荒げると、音を立てて剣の鞘のこじりを机の上に突き立てた。シュエリーはすぐに口をつぐんだ。


 子供の頃から可愛がっていたシュエリーに対して、サイフォンがこのような態度を取るのは珍しい。


「俺は皇帝陛下に忠誠を誓っている七龍将軍チーロンサージュンだ。殿下の下へは行かん」


 サイフォンが鋭く言うと、シュエリーは、目を伏せて小さな溜息をついた。


「出て行け、シュエリー。お前が俺の前で、ローヤン朝廷を裏切って殿下の下へ行くと言った以上、俺はお前を斬らなければいけない」


 サイフォンは語気を強めながら言ったが、突然長剣を握ったまま机から離れると、背を向けて背後の窓辺に立った。

 その幅広の背を見て、シュエリーはサイフォンの意を悟った。


「わかりました。これ以上は言いません。ですが……ありがとうございます」


 シュエリーは深々と頭を下げると、部屋を出て行った。

 サイフォンは振り返らないまま、目を伏せた。




「シュエリーが来た?」


 イェダーからの報告を聞いて、リューシスは開いていた本から怪訝けげんそうな顔を上げた。


「今度はまた何の用だ?」

「それが……なんと我々の軍に加わりたいと仰られております」


 イェダー自身もまだ戸惑いながら言うと、リューシスは本を閉じて机の上に置いた。


「本当か?」

「ええ。ハルバン城を出奔して来たそうです。殿下の為に全てを捨てて来たので、是非とも殿下の下で働かせて欲しい、と言っております」

「全て捨てたって……?  あいつ、何考えてるんだ……」


 リューシスは唖然として言葉もなかったが、すぐに気付いて舌打ちした。


「ああ、危ないところだった。これはあいつの謀略だろう。イェダー、すぐに追い返せ」

「はっ」


 イェダーはすぐに飛龍フェーロンに乗り、シュエリーが待っているウールン河の番所へと戻った。




「と、言うことで、申し訳ないのですがユー将軍には速やかにお帰りくださるように、とのことです」


 イェダーがリューシスの言葉を伝えると、シュエリーは慌てて立ち上がった。


「ちょっと待ってくださいな。誤解です、謀略なんかじゃありません。私は本当に殿下のお味方になりたくて来たのです」

「ですが……」

「私は、もうすでにサイフォン様にはっきりと殿下の下へ行くと告げて参りました。そして、十四紅将軍シースーホンサージュンを始めとするローヤンにおける全ての地位と権利を捨て、家族さえも捨てて一人で殿下の為にやって来たのですよ」

「家族……? おられましたっけ……」


 イェダーが首を傾げながら言うと、シュエリーは一瞬気まずそうな顔になった。彼女は独身である。だが、すぐにむっとして言った。


「それほどの覚悟だと言うことです!」


 無茶苦茶な理屈である。だともかく、シュエリーの様子が珍しく必死なので、イェダーは弱り切った。

 すると、シュエリーは上目使いでイェダーにすり寄った。


「私は本気なの。わかるでしょう? イェダー君、殿下に会わせてちょうだい」


 シュエリーの今日の服装は、冬なのに胸元を大胆に開けており、深い谷間が露わになっている。そこから、甘い香りがふわっと漂った。

 イェダーは咄嗟に顔をそむけたが、その口端は緩んでいた。


「いや、しかしですね……」

「お会いして話せばきっとわかってくださるわ。ね、お願い」


 シュエリーは、大きな黒目を潤ませて、両手でイェダーの手を取った。


「はい」

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