第76話 生きる意味
彼女は、リューシスに歩み寄って声をかけようとしたが、悪戯っぽい顔になって立ち止まり、右手に軽く
そしてエレーナは、「えいっ」と言って右手を前に突き出した。軽い突風がリューシスの背に当たり、リューシスは前方につんのめった挙句、崖縁から転落しそうになった。
「誰だ!」
リューシスは咄嗟に振り返り、右手に雷気を集めた。
それを見たエレーナは、おかしそうにけらけら笑った。
「ふふふ、ごめんね」
「なんだ、エレーナかよ」
リューシスは溜息をついたが、その顔は怒っている。
「いやいや、ごめんじゃねえよ、もう少し強かったら死んでたぞ」
「そうならないように抑えたわ。それに、あなたが落ちても、バイランがすぐに飛んで行ってあなたを助けたでしょう。だから大丈夫よ」
エレーナは楽しそうに笑いながら歩いて来た。
「何だ、酔ってるのか? 珍しいな」
リューシスは顔をしかめた。
エレーナは酒が強くないので、普段は飲まないし、宴会があっても一、二杯程度しか飲まない。
だが、今の彼女は、目つきこそしっかりとしているが、両頬がほんのりと赤い。
「ふふふ。皆にすすめられて、いつもよりちょっと飲んだだけよ」
エレーナは言うと、リューシスの隣に座った。
「どうしたんだ? 何かあったか?」
リューシスが訊くと、
「皆がまた起き出して飲み始めたんだけど、ネイマンさんたちがリューシスがいない、どこだーって騒ぎ出したから、私が探しに来たの」
「なんだ、そうか」
リューシスは、興味無さそうに、また西空を見つめた。
その横顔を見たエレーナは、何かを感じ取って表情を変えた。
「こんなところに一人で何しているの?」
「別に……宴会続きに疲れたからな。一人で休んでるんだ」
「宴会で? そうは見えない……なんか、心から疲れてるみたいに見える」
エレーナが言うと、リューシスは答えず、黙りこくって茜色の西空を見つめた。
やがて、ぽつりと言った。
「父上がいなくなって、これほどまでに空虚な思いをするとは思わなかった」
「…………」
「君は、目の前で両親、兄弟たちを殺された。今の俺の悲しみの比じゃなかっただろう」
リューシスが言うと、エレーナは目を潤ませて赤い西空を見つめた後、
「うん……とても、とても、とても、悲しかった……気が狂うぐらいにね。目の前で見せられたんだもん」
「……本当に申し訳なかった」
リューシスが呟くように言って俯くと、
「今でも、あの時のことはしょっちゅう夢に見るぐらいよ。でも……乱世だからって必死に自分に言い聞かせてるの。それに……あの時よりは悲しみは減っているわ。軍学者のウーズン・スンだっけ? 兵法じゃないけど有名な言葉を残してるわよね? 『時間は偉大である。全てのことを解決する力を持っている』って。その通りだなあ、って、今は思うの」
エレーナは、酔いも手伝ってか、珍しく言葉多く語った。
「そうか……」
リューシスは悲しそうに言った後、
「でも、やっぱり俺のことは恨んでいるだろう。憎んでいるだろう?」
「…………」
その問いに対して、エレーナはリューシスの横顔を見たまま、何も答えなかった。と言うより、答えが出ないような複雑な表情であった。
「以前も、ここで同じことを言ったな。いいぞ、今ここで俺を殺しても」
リューシスはぽつりと言った。
エレーナの眉がぴくりと動き、目に強い光が宿った。
「今ここで俺を殺せば、君の復讐は遂げられる。ローヤン人に虐殺された全フェイリン人の魂は救われるだろう。俺をここから突き落せばいいだけだ、簡単だろう。自害するよりは、エレーナに殺されてエレーナの復讐が遂げられる方が、俺の死にも価値ができるってもんだ」
そう言ったリューシスの目が光っていた。
エレーナは、しばらく何も言葉が出ずにリューシスの横顔を呆然と見つめていた。
その後、下を向いて、絞り出すように言った。
「今は……そんなこと言わないでいいから……」
すると、リューシスの目から光る物が一筋落ちた。
「もっと早く、アンラードに帰っていれば良かった……」
それを聞いたエレーナは再び顔を上げてリューシスの横顔を見た。
「結局、あの半年前にここで会ったきり、一度も会えないままに父上はいなくなってしまった……」
リューシスの言葉が震え始めた。
「昔は迷惑ばかりかけていた……まともに会話したことも数えるぐらいしかない。だから、これから沢山親孝行をしようと思っていた……いや、違う……話したいことが沢山あったんだ……もっと会って、普通の親子みたいに……皇帝と皇子じゃなく、普通の父と子として……もっともっと話したり、一緒に飲んだりしたかったんだ……」
リューシスは、ぼろぼろと零れて来る涙を拭い続けた。
涙を止めたかった。しかし、心の奥底に秘めていた想いと共に、涙は溢れ出て止まらなかった。
「だけど、一度も会えないままに父上は行ってしまった……もう取り返しがつかない……お、俺は何と言う親不孝なことを……何でもっと早くアンラードに行かなかったんだ……! 何て馬鹿な息子なんだ……!」
リューシスは涙を溢れさせたまま嗚咽した。
しばらく、泣き続けた。
その後、ふと我に返った。
「ああ……ごめんな……変なこと言って……いや、女々しいよな。情けない……」
リューシスは外套の袖で涙を拭いながら、エレーナに言った。
そのエレーナは、無言でリューシスを見つめていた。
碧い瞳を潤ませながら、ただ泣き続けるリューシスを見ていた。
「いいぞ、エレーナ。今ここで俺を殺しても」
リューシスは顔を上げ、真っ赤になった目で彼方の赤い西空を見ながら言った。
すると、エレーナはゆっくりと立ち上がり、リューシスの後ろに回った。
リューシスは目を閉じた。しかし、目を閉じても、まだ涙は目尻から零れ落ちる。
そんなリューシスの頬に、金色の髪が優しくふわりと触れた。次に、細い両腕がリューシスの胸の前で交差した。
エレーナは両膝を着いて、後ろからリューシスを抱き締めた。
エレーナは、リューシスの右肩の上に顔を埋め、抱き締める腕に力を込めた。
「無理に生きようとしないでいいから……でも、死なないで……貴方は死んではいけない人よ……」
エレーナは、小さな震える声で言った。
リューシスは目を見開き、一瞬固まった。
だがすぐに目を閉じて俯くと、彼を抱き締めるエレーナの両腕を柔らかく握った。
その時、西空の紅い夕陽の光が強くなり、二人は金色の光の中に包まれた。
どれほどの時間が経ったか――二人はずっとそのままでいた。
だがやがて、
「お~い、リューシス~」
「殿下、どこですか~?」
と言う、少々呂律の回らないネイマンとイェダーの声が
「戻るか」
「うん……」
二人は、互いに気まずそうに目を合わせぬまま頷き合うと、並んで歩き出した。
翌日、一月二日――
明け方に、ようやく彼らの狂った祝宴は終わった。
バーレン、ネイマンらは皆、午後過ぎまで自室で眠りこけていたが、リューシスは前夜の酒を少し控えていたので、午前中には起き出して、白い衣服の上に紅い絹の羽織を着て執務室へ向かった。
その途中、廊下で白い法衣姿のエレーナに出くわした。
その瞬間、二人ともに、昨日のことを思い出して硬い笑顔となった。
「お、おはよう」
エレーナがぎこちなく言うと、
「あ、ああ、おはよう。よく眠れたか?」
リューシスも不自然な笑みで応えた。
「う、うん。あの後はあまり飲んでないし」
エレーナが頬を少し赤らめて言った時だった。
「リューシス様!」
と、切迫した声が響いた。その方向を見ると、番所からの伝令役の者が慌ただしく駆けて来た。
「どうした?」
リューシスが表情を変えて訊くと、伝令役の者は青い顔で跪いて、
「ただ今、アンラードより皇帝陛下直筆の勅書を持ったご使者が参られました」
と、報告した。
謁見室を兼ねた大広間で、リューシスはアンラードからの使者を迎え、机の上で勅書を見た。
しかし、その顔は険しい。
勅書の内容は、リューシスらにルード・シェン山から出て、ランファンに赴任せよ、と言う内容であった。
リューシスは鋭い目で使者を睨んだ。
「何だこれは? 俺は先帝陛下よりこのルード・シェン山の開発、統治を一任されている。それが、急に出て行けと言うのはどういうことだ」
使者は文官だが大柄の中年男で、臆することなく頭を下げると、再びリューシスを見て堂々と言い放った。
「それは先帝陛下の時のことでございます。今、新皇帝のバルタザール様はその勅書の通りに決められたのです。リューシスパール殿下には、速やかにルード・シェン山を出て、以前の封土であるランファンに赴任せよ、と」
リューシスは、勅書を机の上に放り投げて冷笑した。
「何がバルタザールだ。これはマクシムが決めたことだろう?」
「とんでもない。丞相は関係ありません、これは皇帝陛下のご決定です。その証拠に、勅書には陛下の印が押されているでしょう」
「何言ってやがる。すでに聞いてるぞ。バルタはマクシムの言いなりだってな。この勅書も印も、マクシムがバルタにやらせたか、勝手にやったかだろうよ」
「それは誤解です」
平然と言った使者を、リューシスはしばし睨んだ後、
「まあいい。内容はわかった」
「ご了承いただけますか?」
「すぐには答えられない」
「それは困りますな。陛下は、リューシスパール殿下に一刻も早くルード・シェン山からランファンへの移動を望んでおられます」
「では、一週間以内に返答しよう」
リューシスが言うと、使者は薄笑いを浮かべて言った。
「まあ、どちらにせよ、これは勅命。逆らえば朝敵となりますので、よくよくお考えを」
リューシスは、冷たい目で使者を見た。
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