第75話 空虚
その日の夕刻、まだ空に赤焼けが残っているうちに、リューシスは山と山に挟まれた盆地に野営地を張り、兵士らに夕食の準備を始めさせた。
アンラードへ来る時には、途上の県城などに寄って、そこで食糧や飲料などの補給を受けたが、今回の帰途では県城などに宿泊はせず、今夜は夜営することを二十騎の
そして、肉と野菜を煮込んだ暖かい塩味のスープができあがり、兵士らが
暗くなった空から一騎の
「後方の二千騎の騎兵隊が、速度を上げてこちらに向かって来ております!」
リューシスは硬い
「おう、やっと来たか」
だが、リューシスは余裕の表情で、二十騎の
「ここに来るまでにはまだ一時間ほどかかるだろう。まだ食べてていいぞ。皆の食事が終ったら動く。それまではゆっくりしててくれ」
それを聞いたイェダー、ヴァレリー、
彼らの顔には、微塵の不安も無かった。逆境の死闘を共に戦い抜いて来た上、この半年間を共にして来たリューシスと彼らの間には、強固な信頼関係が出来ていた。
「来たかな」
およそ四十分後、微かな騎兵らしき地響きを聞き取り、リューシスは立ち上がった。その頃には、部下達は皆すでに食事を終え、行動準備を済ませていた。
リューシスは、一人の
そして、後方の暗闇の彼方に、こちらへ殺到して来る騎兵隊の姿をはっきりと視認すると、リューシスはイェダー、ヴァレリー、その他の
「
リューシスらは、一斉に
前方には、盆地の出口がある。
リューシスらはその出口を目指して飛んで行ったが、彼らは高度を上げず、速度も速翔(時速約15コーリー)程度に抑えていた。
後方から迫る正体不明の騎兵隊二千は、軍装がばらばらで統一されていなかった。
そんな彼らの先頭には、部隊長と見られる巨躯のハンウェイ人武将が駆けていた。
その将が、飛んで行くリューシスらの後影を視界に捕らえて吼えた。
「見よ! 敵は我らの突然の急襲に驚き、応戦準備も整わぬままに逃げ出したぞ、追いかけよ!」
「――みたいなことを、今頃先頭を走っている奴は言ってるだろうな」
と、リューシスは後方を見ながら笑った。
リューシスらは比較的ゆっくりと飛んで行くが、猛追する後方の二千騎は全速力で疾駆する。
両隊の距離は見る見るうちにつまった。
敵の二千騎は二段構えで、前軍の一千騎は弓矢を装備した軽装騎兵であった。
その軽装騎兵隊が更に速度を上げ、背が見え始めたリューシスらに向けて矢を放った。
「皆、抜かるな!」
リューシスは顔つきを引き締め、鋭く叫んだ。
今回引き連れている
リューシスは、今回のような事態を予測し、彼らを選んで連れて来ていた。そして、更なる指示をもルード・シェン山に残して来ている者たちにも出していた。
「
リューシスらはやや速度を上げ、追って来る敵軍との距離を絶妙に保ちながら、上下左右に飛び回り、闇の中から襲って来る矢を巧みに避けた。
「追え、追え!」
騎兵隊の巨漢の将はしきりに吼え、馬を駆った。
やがてすぐに、盆地を抜けたリューシスらは原野に入り、
「よし、追い詰めたぞ!」
追い迫る敵軍の巨漢の将が、勝ち誇ったように叫んだ。
だがリューシスは、
「単純な奴。
と笑った後、「上昇!」と命令した。
山の手前に広がる高い雑木林に肉薄する直前、リューシスらは一斉に高度を上げて上空へと飛び上がった。
更に、「左右散開、反転!」と号令。
リューシスらは月光の下、左右に分かれた上に反転して、後方へと飛んだ。
「それぐらい読んでおるわ!」
敵軍の巨漢の将は得意満面に叫び、「こちらも反転だ! そして上空へ打てっ!」と、大号令を響かせた。
彼らは命令通りに雑木林の手前で順々に反転し、リューシスらを追い駆けながら空へと射撃した。
しかし、リューシスらは漆黒の夜空の上でも華麗とも言えるほどに巧みに
「ちっ」
巨漢の将は忌々しげに舌打ちした――その瞬間、背筋に戦慄が走った。
背後より
すでに後方となった山裾の雑木林の中から、長槍を構えた五百人ほどの一軍が飛び出し、彼ら騎兵隊に向かって突撃して来ていたのだ。
その時は、巨漢の将たちの中軍はまだ反転途中であり、ちょうど側面を露わにしていたところであった。
そこへ、伏兵の五百人があっと言う間に距離を詰めて来て長槍を突き出したのだから堪らない。
彼ら騎兵らは反撃する態勢も整わぬまま、馬腹を突き倒され、胸甲を貫かれて次々に横転して行った。
「待ちくたびれたぜ!」
その長槍隊五百人を率いて先頭を駆けるのはネイマン・フォウコウであった。
雷の如く吼えながら、狂奔する騎兵らの中にも怯むことなく突進し、縦横無尽に大刀を振り回して人馬諸共斬り裂き、鮮血を撒き散らして行った。
「むう、怯むな! 落ち着け、落ち着いて応戦せよ!」
巨漢の将は背後のネイマン隊らを睨んで目を怒らせながら、兵士らを鼓舞してまとめようとした。
しかし、襲われたのは反転途中の中軍である。ちょうど、全軍を分断された形になる。兵士らを落ち着かせたり隊列を整えるどころか、彼ら全軍は、すでに恐慌状態に陥っていた。
それだけではなかった。
その時、また一方より地響きが聞こえて来た。
度胸自慢と見える巨漢の将だが、流石に顔を青ざめさせた。
「まだ伏兵がいたか!」
将の右手の暗闇の中から、騎兵の一団が雄叫びを上げながら疾駆して来た。
その人数約一千騎、先頭を駆けるのはバーレン・ショウ。
瞬く間に闇をついて殺到し、光る白刃を並べて突撃して来た。
「皆の者、奮戦せよ!」
将は顔を真っ赤にして吼えながら、自ら手槍を振り回して応戦した。
しかし、反転途中の側面を奇襲された上、もう一方からの騎兵突撃で、すでに全軍の戦意は崩壊していた。
巨漢の将の怒号は自軍の兵たちの悲鳴の中に消えて行き、その兵士らは散り散りに逃げて行こうとするところを次々に討たれて行った。
その様を、リューシスは上空から悠然と見守っていた。
通常ならば、ここでリューシスは
しかし、その必要もない戦況であった。
リューシスは、余裕の大声を眼下に飛ばした。
「バーレン、ネイマン! 将は殺すなよ! 生かして捕らえろ!」
「おうよ!」
「承知!」
地上の猛将二人は大声で応えた。
その言葉通り、やがて一方的な乱戦の中に巨漢の将を見つけたネイマンが、将の乗馬に大刀の一閃を浴びせて横転させ、そこへ駈け付けて来たバーレンが馬上から跳躍し、立ち上がろうとする将の手槍を蹴り飛ばした上に組み伏せた。
こうして、この戦は終わった。
地上に降り立ったリューシスの前に、縛り上げられた巨漢の将が引き摺られて来た。
「皆、よくやってくれた。ご苦労だった」
リューシスはまず、旗下の武将たち、兵士らの労をねぎらった。
その後、座らされている将を身下ろした。角張った顔に細い目をしたハンウェイ人である。
「見覚えがないな。やっぱりローヤン軍の所属じゃないな。どこの何者だ? 名は?」
リューシスは問うた。
だが、将は血と泥に塗れた顔をむすっとさせたまま答えない。
リューシスは夜空を見上げた。雲は消え去り、半月が出ていた。
「ちょうどいいか」
リューシスは呟くと、左手に
将は胸甲を焼かれた上に吹き飛ばされ、「熱っ!」と悲鳴を上げた。
土の上に転がった男に対し、リューシスは更に
「正直に言えば命だけは助けてやる。だが、言わないならば次はこれだけじゃすまさないぞ」
すると、将は、外見の
「ワルーエフ丞相配下の者です。フーザン・グオと申します」
「なるほど。お前らはマクシムの封土にいる私兵の連中だな?」
「はい、その通りです」
「よし、わかった」
リューシスは無表情に頷くと、
フーザン・グオの顔が恐怖に引きつり、悲鳴が上がった。
しかし、次の瞬間、リューシスの
「さあ、帰れ。見逃してやる。その代わり、マクシムにしっかりと伝えろ。『バルタが皇帝に即位した以上、俺を狙う理由も無いはずだ。俺も、帝位を狙う気は微塵も無いどころか、お前に反抗する気もない。何かあれば必ず協力するから、これ以上俺の人生を邪魔するな』とな」
リューシスは不機嫌そうに言うと、フーザンに馬を与えてやり、捕らえた残兵と共に放してやった。
そして翌日、リューシスらはルード・シェン山に帰った。
しかし、リューシスはその日から、仕事の合間に憂鬱そうに何か考え込むことが多くなった。
そうしている間にも月日は過ぎて行く。
イジャスラフが政務に復帰してからは、丞相マクシムの権限は抑えられていたのだが、イジャスラフ逝去とバルタザールの新皇帝即位に伴い、マクシムは再びかつての権勢を取り戻した。
バルタザールはまだ十七歳と若く、経験もほとんど無い。
信頼できる側近たちも力は無い。
そうなると、自然とバルタザールは何かと宰相マクシムに意見を訊いたり、政務の案件を任せたりする。
マクシムは名族カザンキナ部の出身である上、バルタザールの幼少の頃からの傅役で後見人であったから、それは当然であった。
しかし、それは自然と、マクシムの権勢拡大に繋がる。それどころか、かつてイジャスラフが病床にあった時よりも権力は強くなった。
経験豊富で老獪とも言えるマクシムが、若い新帝バルタザールを傀儡化するのには、一月もあれば十分であった。
そうして、一月一日の新年を迎えた。
ルード・シェン山でも、新年の祝いが開かれた。
盛大に爆竹が鳴らされ、買い込んだ花火を次々に打ち上げ、山の兵士、住民らだけでなく、近隣の村々の住民らも招いて、盛大に新年を祝う祝宴が開かれた。
その祝宴は、かつてアンラードの下町で一晩中飲み歩いていたリューシスらしく、十二月三十一日から新年一月二日の明け方にかけて、朝から晩まで延々と続けられた。
バーレン、ネイマンらはもちろん、一般兵や招かれた住民らも、酔っ払っては眠りこけ、起きたらまた酒を飲み、そしてまた酔っ払っては眠り、目覚めてはまた飲んで騒ぐ……と言うような宴会が続いたのである。
後に、リューシスの評伝を書いた彼の側近が、「彼は偉大な英雄であったが、毎年、年末年始に繰り広げられるあの宴会だけは気が狂っているとしか思えなかった」と書き記したほどであった。
しかし、その年の一月一日元旦の夕方は――
リューシスは、皆の宴会から離れて、一人で西の崖縁に立っていた。
すぐ下にはユエン河の流れがある絶壁の縁よりやや後ろに立ち、隣には愛龍バイランを従えて、彼方の西空の夕陽を眺めていた。
リューシスはおもむろにそこに座ると、持って来た
黄金色の
「たまには飲んでみるか?」
リューシスは静かに笑いながら言った。
バイランは、杯の中の匂いを嗅ぐと、嫌そうに唸ってそっぽを向いた。
「龍は少し飲めるってダリアから聞いてたけど、お前は
リューシスは笑うと、杯を口に運び、
そして、彼方の山脈の尾根を赤く染めながら落ちて行く夕陽を見つめた。
「新しい年だな」
呟いたリューシスの目に、虚ろな色が浮かんだ。
何故だかわからない。
しかし、この頃、彼の心は以前よりも深い虚無感に捕らわれることが多くなり、塞ぎこむことが多くなっていた。
時には、自然と涙が零れることもあった。
今がまさにそうであり、西空の夕陽を反射して赤くなったリューシスの目から、涙が一筋零れ落ちた。
そんな彼の寂しげな背を、背後から見つけて「あ、いた」と呟いた者がいた。
白い法衣を纏ったエレーナであった。両頬が少し赤くなっており、ほろ酔いの様子であった。
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