第70話 イジャスラフの罪と罰


 その時――


「陛下! ご無事ですか!」


 扉から、一斉に十数人の衛兵が飛び込んで来た。

 続いて、宰相マクシムと、今晩夜勤をしていた十四シースー紅将軍ホンサージュンの一人、アレイクス・チェリシェフが入って来た。


「陛下!」


 衛兵らは、ただ事ではない様子のイジャスラフを見ると、慌てて駆け寄り、かばうようにその前に立った。

 だが、ジェムノーザが再び左手をくいっと捻るや、先程の細い漆黒の稲妻が疾り、衛兵らは皆それに貫かれて絶命した。


 その光景と、ジェムノーザの後ろ姿を見て、マクシムは唾を飲み込んで言った。


「お前は……ジェムノーザか。何をしに来た」


 紅将軍ホンサージュンのアレイクスは、無言で持っていた戟を構えた。


「何をしに来たとは酷い挨拶だな。かつては協力してやったと言うのに」


 ジェムノーザは振り返らぬままに笑い声を上げた。


「お前こそ勝手に消えたではないか」

「ああ、そうだったな」


 と、ジェムノーザは言うと、覆面と頭巾を外したままの顔で、ゆっくりとマクシムを振り返った。

 薄闇の中に浮かび上がるジェムノーザの素顔。

 それを見て、マクシムもまた、強烈な衝撃に腰を抜かして座り込んでしまった。


「ど、どういうことだ、これは……何だこれは? お、お前は一体誰だ? これは一体どういうことだ……!」


 マクシムは、尻を床につけたまま、逃げるように両手で後ろへと下がった。

 その顔には、明らかなる混乱と狼狽、恐怖の色が混じり合って現れていた。

 紅将軍ホンサージュンのアレイクスも、


「何だ……夢でも見ているのか……」


 と、握っている戟をぶるぶると震わせていた。

 ジェムノーザは、そんな彼らを見ながら冷笑し、


「貴様は宰相にまでなった男だろう? ちょっと考えてみればわかるんじゃないか?」


 と言って、再び黒い覆面を着け、頭巾を被って普段の姿に戻った。


「し、しかしお前は……それは、ど、どういうことだ……」


 マクシムは、真っ青な顔に冷たい汗を流していた。


「ふふ……まあ、よく考えて、よく調べてみるんだな。さて、そろそろここは去るとしようか」


 ジェムノーザは悠然と四方を見回しながら言うと、


「そうだ。とりあえずはお前たちを生かしておくが、この俺の正体については決して誰にも言うんじゃないぞ、言ったら、すぐに殺しに行くからな」


 そして、ジェムノーザは、「マクシム、精々頑張れ」と笑いながら言うと、闇に溶け込むように姿を消した。


 次の瞬間、皇帝イジャスラフが気を失って仰向けに倒れ込んだ。


「陛下! 陛下! お気を確かに!」


 アレイクスが、戟を握ったままイジャスラフの下に駆け寄った。


「良かった、気を失っているだけだ」


 アレイクスは、イジャスラフの脈と心臓の音を確かめて安堵の声を出すと、マクシムを振り返った。


丞相チェンシャン、私は侍医のリョウエンどのを呼んで参ります故、ここは陛下を頼みます!」

「お、おう。頼むぞ」


 マクシムは、悪夢から目覚めたかのような顔で呆然としていたが、力の無い返事をして立ち上がった。


 マクシムは小走りでイジャスラフのところに行き、「陛下、お気を確かに」と、上半身を抱き起した。


 だが、そんな時でも、マクシムは別の思考が働いていた。


 ――ジェムノーザ……考えられることは一つ……もしかすると奴は……

 


 翌日、皇帝イジャスラフは、全身に傷を負ったこともあり、午前中は何か悪いものにでも憑りつかれたかのように、ベッドの上でずっと呆けていた。


 しかし、午後になると生来の剛毅さから平静を取り戻して、怪我を負っているにも関わらず、政務をこなすべく執務室に入った。


 だが、ジェムノーザのことは、やはり心に大きな爪痕を残して行ったらしく、すぐに憂鬱そうな顔で物思いに耽った。


 すると、ふと気付いたことがあり、急いでマクシムを呼んだ。同時に、天法士ティエンファード局長のシューズ・ウェイも呼んだ。


 宰相マクシムと天法士ティエンファード局長のシューズが執務室にやって来ると、イジャスラフは、まずマクシムに言った。


「話は昨晩のことだ」

「はっ」


 マクシムの顔が緊張に満ちる。


「あのジェムノーザのこと、誰かに話したか?」

「いえ。わけがわからない上、これは話してはならぬことかと思い、誰にも言っておりませぬ」

「よし、流石だ。では、お前が昨晩見たあのジェムノーザのことは、今後も誰にも言うでないぞ。もし誰かに漏らしたことがわかれば、予が貴様を殺す」


 イジャスラフは言うと、長剣を取り、鞘のこじりをどんっと床についた。

 その瞳に、猛獣の如き凄まじい兇気が光っていた。


「はっ。承知仕りました」


 マクシムは思わず戦慄し、青い顔で頭を下げた。


「ああ。昨晩は、あとアレイクスがいたな。奴にも重々口止めしておけ。もし、他言しそうな気配があれば、迷うことなく殺して構わん。それと、昨晩いた衛兵らは皆、ジェムノーザに殺されたが、他に昨晩のことを見た者がいれば、その者らは皆すぐに殺せ」

「は、はっ」

「よし」


 マクシムは、イジャスラフの顔色を窺いながら、恐る恐る訊いた。


「陛下。お尋ねしてもよろしゅうございますか? あれは……あのジェムノーザは、一体何者なのですか? 陛下はご存知のようですが、あれは一体どういうことですか?」


 イジャスラフは、鋭い眼光でマクシムを見た。


「マクシムよ。それ以上は聞くでない。あのジェムノーザと言う男はな……お前が見た、あのままだ。奴のあの顔から想像できること、そのままだと思え。だが、先程も言った通り、これは決して他人に言うでないぞ」

「はっ」


 マクシムは再び頭を下げた。


「そして、シューズ」


 イジャスラフは、次に天法士ティエンファード局長のシューズを見た。


 シューズはハンウェイ人で、まだ四十三歳と言う若さである。

 しかし、あらゆる天法術ティエンファーに通じている天法術ティエンファーの天才であることと、多くの人に慕われるその人望から、若くしてローヤン帝国朝廷の天法士ティエンファード達を統括する天法士ティエンファード局の局長を務めていた。


 シューズは、昨晩、何か騒ぎがあったらしいと言うことは聞いたが、その内容までは当然知らない。

 今のイジャスラフとマクシムの会話も、怪訝そうに聞いていた。


「シューズ。詳しくは後ほど文書で通達するので、今は簡潔に言うぞ。闇の天法術ヘーアンティエンファーを使うジェムノーザと言う天法士ティエンファードが、我がローヤン帝国を破壊しようと暗躍しておる。お主は天法士ティエンファードたちを使い、全力でジェムノーザを探し出し、奴を抹殺せよ」


 イジャスラフが言うと、シューズ・ウェイは驚愕した。


闇の天法術ヘーアンティエンファー? それを使える天法士ティエンファードがこのローヤンにいたのですか?」

「うむ。予も少し信じられんが、昨日現れたジェムノーザは確かにそれを使った」

「そう言えば……私がローヤン朝廷に仕えるようになった若い頃、闇の天法術ヘーアンティエンファーを使える上に、禁忌とされていた魔性の術を研究しようとして追放された男がいたと聞いたことがあります。もしや、その男ですか?」


 イジャスラフは、やや首を傾げて記憶を手繰り寄せると、それを否定した。


「オレグのことか? いや、違う。奴はそれよりも明らかに若い」

「しかし、闇の天法術ヘーアンティエンファーを使える程の天法士ティエンアードならば、変幻の術にも通じている可能性があります。もしかしたら若く装っているかも知れません」

「いや、それは絶対にない」


 イジャスラフは、力強く断言した。


「とにかく、危険極まりない男だ。お主は全力でジェムノーザを追い、確実に抹殺せよ」

「はっ」


 シューズは頭を下げて拝命した。


 そして、マクシムとシューズの二人が退出すると、入れ替わるようにして、皇后ナターシアが入って来た。


「陛下。薬湯のお時間です。お茶もお持ちしましたよ」


 ナターシアは、四十半ばにも関わらず、花のように美しい笑顔で、薬湯と茶を乗せた盆をイジャスラフの机の上に置いた。


「うむ、いつもすまんな。では、一息入れるとしようか」


 と、イジャスラフは薬湯の木椀を取った。


 侍医リョウエンの新しい治療法で劇的に回復して来ているイジャスラフであるが、ナターシア自ら調合する薬湯は、引き続き飲んでいた。

 この薬湯も滋養強壮の効果があるので、時間があれば飲み続けるのが良い、とリョウエンも勧めているからである。


 イジャスラフは、薬湯を飲み終えると、もう一つの緑茶の木椀を取った。

 緑茶を一口すすり、椅子の背もたれに深く寄りかかって息を吐いた。


「ふうっ。少し疲れたな」

「肩など揉みましょうか」

「おう、頼む」

「はい」


 ナターシアはにこやかに笑いながら、イジャスラフの後ろに回り、肩を揉み始めた。


「傷はどうですか?」

「うむ。少し多いが、一つ一つの傷は大したことはない。リョウエンの話では、五日もすれば治るとのことだ」

「そうですか。しかし、昨晩は一体何があったのですか?」


 ナターシアも、昨晩何か大きな騒ぎが起きたらしいと言うことは聞いたが、当然その内容までは知らない。


「大したことではない、心配するな」

「しかし、その傷は……」

「ナターシア。すまんがそれ以上は聞かないでくれ」


 イジャスラフの声が、厳しく深刻な色を帯びた。

 ナターシアは黙った。


「だが、一つだけ言えるとすれば……予が若い頃に犯した過ちのツケが、今になって返って来ていると言うことだ」


 イジャスラフは、ナターシアがまだ肩を揉んでいるのに、そこから背を離し、机の上で両手を組んで額に当てた。


 その背を、ナターシアは氷のように無表情な顔で見つめた。


 その夜。

 イジャスラフは、寝室で手紙をしたためた。

 リューシス宛てにである。


 だが、イジャスラフはしばし葡萄酒プータージュを飲みながら黙考した後、その手紙を箪笥の奥にしまった。

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