第69話 ジェムノーザの素顔

 リューシスのアンラード脱出後、ワンティンは、唯一のリューシス無実の証拠を知る人物としてマクシムらに捕まることを恐れ、自身もアンラードから逃げた。

 予想通り、マクシムらはワンティンの追跡と捕縛を命じていた。

 ワンティンは、わざと身なりを汚し、乞食の子の振りをしながら逃げた。向かう先は、故郷である東北の寒村、ミザール村であった。


 ワンティンは、およそ一ヵ月近くをかけて、歩いてミザール村まで辿り着いた。


 ミザール村のワンティンの実家では、突然帰って来たワンティンを見て驚き、すぐに家に入れた。

 だが、元々ワンティンの実家は貧しく、実はワンティンは八人兄妹の末っ子で、口減らしの為にアンラードに働きに出された身の上であった。


 それでも、運良く第一皇子リューシスの宮殿に雇われ、ワンティンが毎月仕送りをしてくれるようになると、ワンティンの両親は喜び、何かとワンティンを気遣ったり、礼を言うような手紙を出すようになった。

 ワンティンはそれがとても嬉しかった。

 それ故、今回は両親に助けを求めるつもりで、必死に実家に帰ったのであった。


 ところが、宮殿勤めが無くなって仕送りが無くなっただけでなく、罪人となったリューシスの侍女を務めていたせいで、マクシムらの追跡を受けていることを知ったワンティンの家族たちは、とばっちりを受けることを恐れて、露骨にワンティンを邪険に扱った。

 耐えきれなくなったワンティンは、泣きながら再び実家を飛び出した。


 その頃、リューシスがルード・シェン山に籠り、マクシムらの軍と戦っていることを知ると、ワンティンは迷うことなくルード・シェン山を目指して旅をした。


 そして今日、ようやく、この天下で唯一頼れるリューシスの下へ辿り着いたのであった。


 それを聞くと、リューシスは心の底から申し訳なさそうな顔となって謝った。


「それは悪かった。あの時は、まるで先が見えなかったからお前を故郷に帰るように言ったが、そんなことならお前も一緒に連れて行けば良かったな」

「だからあの時言ったじゃないですか! 私は実家に帰っても居場所が無いから連れて行ってくださいって!」


 ワンティンは、再び涙で顔をぐしゃぐしゃにした。


「うん、悪かった。ごめんな。でもこれからはずっとここにいられるからな。安心しろ。ここがお前の家で、俺がお前の本当の家族だからな」


 リューシスはそう言うと、小柄な少女を抱きしめて、背中を撫でた。


 聞いていた周囲の者らは、思わず貰い泣きをした。

 激情家のネイマンは、すぐに頭に血が上る性質であるが、それ故に、こう言う場面では涙脆いところがある。

 彼は、大きな目から溢れ出る涙を拭いながら声を震わせた。


「良かったなあ、ティン……ワンティン」


 それを耳にしたワンティンは、泣き顔のまま振り返って突っ込んだ。


「今、間違えそうになったでしょ」


 こうして、ワンティンが再びリューシスのところに来ることになったが、これがまたリューシスらにとって大きな助けとなった。

 以前は、わずか十四歳ながら、リューシスの宮殿の食糧や備品の仕入れ、金銭管理まで一人で切り回していたワンティンである。

 現在のルード・シェン山の財政状況を知ると、「これだけの大人がいて何でこんなことになるんですか」と呆れながら、早速帳簿をめくり始めた。


 もちろん、以前のリューシスの宮殿とは財政の規模が違う上に、いくら彼女に会計管理の才があると言ってもまだ十四歳である。


 知らない事物や言葉も多く、最初は全く慣れずに四苦八苦していた。

 だが、周囲の大人たちに知らない事について訊いて回り、日夜、書物と照らし合わせて勉強しながら作業をして行くうちに、一ヵ月もすると仕事内容を全て把握し、完璧にこなすようになった。

 こうして、リューシスらの財政は健全化したのであった。



「ははは……わずか十四歳のワンティンが来て、ようやく解決したわけか」


 リューシスから来た手紙を読んでこの事を知り、イジャスラフは大広間の紅い玉座の上で大笑いした。


 リューシスは、週に一度、開発状況の報告を兼ねて、アンラードのイジャスラフに手紙を送っていた。

 イジャスラフもまた、それに対して必ず返書を書いて送っている。

 父子は、十年以上も続いた複雑で微妙な距離感を埋めようとするかの如く、まめに手紙のやり取りをしていた。


「何ともおかしな話ですな」


 玉座の下で、中書令のティエレン・リーもおかしそうに笑った。


「うむ。しかしまあ、リューシスには呆れたものだ。あれほどの資源に恵まれているにも関わらず、財政破綻しそうになるとはな」


 イジャスラフは笑いながら言ったが、眉間には苦々しく皺が寄っている。


「何かに突出した才能を持つお方が、その分、他の能力が著しく欠如していると言うのは、よくあることです」


 ティエレンは、リューシスを擁護するように言った。

 イジャスラフは、手紙を畳みながら、


「まあな。そう言う人間は多い。我が祖先、武帝ウーディーユリスワード、遥か昔を遡れば覇王バーワンマンドゥー・ツァオでさえ多くの欠点を持っていた」

「ええ。それに、皇太子エンタイーズのバルタザール殿下の方は、逆に優れた政治感覚を持っております。だからちょうどいいではありませんか。バルタザール殿下が皇帝として内政の安定を図り、異母兄のリューシス殿下が軍事を統括して外征する」


 それを聞くと、イジャスラフは一瞬顔を曇らせた。だがすぐに笑い声を上げて、


「そうよな。天はうまくやったものだ。兄弟で綺麗に才能を分けるとはな」


 そして、イジャスラフは力強く玉座から立ち上がった。


「どれ。射場で弓矢の稽古をしてこよう」

「お加減の方は?」


 ティエレンは心配そうに訊いた。


「心配いらん。快調そのものよ」


 イジャスラフは、張りのある声で笑った。


 その身体には筋肉が戻ったようで、体格が一回り大きくなり、以前は痩せこけていた頬には肉がつき始めていた。また、皮膚も血色が良くなり、瞳にも強い光が宿っていた。


 侍医リョウエンの新しい治療法と薬が、確実に効果を出しているのであった。

 イジャスラフが射場へ向かう足取りも、以前とは違って力強さがあった。


 それから、また一月ひとつきほどもすると、イジャスラフの身体は劇的な回復を遂げた。

 かつて、玉座にある身でありながらも、自ら戦場に赴いていた頃の体力と気力を取り戻して来ていた。


 しかし、そんなある日の深夜だった――


 天蓋てんがい付のベッドの中で心地良く眠っていたイジャスラフであったが、ふと、微かな殺気を感じ取って、目を閉じたまま意識だけを覚醒させた。


 ――どこから侵入した。


 イジャスラフは目を閉じたまま、左脇に置いている長剣ロンカーザの鞘を静かに握った。

 

 ここは二階である。部屋の扉の外には護衛兵がおり、窓の外の下にも数人が巡視している。

 だが、どうやって入り込んだのかはわからないが、確実に侵入者が忍び込んで来たのがわかった。


 ――三人か。


 イジャスラフは、ぱっと目を開けた。

 猫の如く素早くベッドから飛び出すと、同時に長剣を鞘走らせた。


「何者だ!」


 叫んだイジャスラフの目に、薄闇の中でこちらの様子を窺っている三人の黒装束の男の影が見えた。


「失礼いたします! 陛下、如何なされました!」


 イジャスラフの叫び声を聞いて、外から四人の護衛兵が扉を蹴飛ばして飛び込んで来た。


 同時に、三人の黒装束の男の影が声も発さずに飛び、イジャスラフの眼前に迫った。


「舐めるな!」


 寝間着のままのイジャスラフだが、カッと目を見開くと、長剣を水平に振った。

 以前、皇帝でありながらも先陣に立って敵兵を震え上がらせていた男の豪勇が、永い眠りから覚めた猛獣の如くに爆発した。


 白銀の剣光が右から左に鋭く閃くや、次に右上へとはしった。

 薄闇の中に血が暗く飛び散った瞬間、襲って来た男達三人が床に転がって呻いていた。


 入って来た護衛兵三人が加勢する間も無いほどの神速の早業はやわざであった。

 

 イジャスラフは、長剣についた血を懐紙で拭いながら、乱れもしていない声で護衛兵らに言った。


「もう息は絶えているが、こやつらを尋問室に連れて行き、身体を調べよ」

「はっ」


 だが、その時であった。


「その武勇、流石だな」


 冷え冷えとした声が部屋に響いた。


 イジャスラフは、鞘に収めようとしていた長剣ロンカーザを再び握り直した。


「何者だ!」


 声の主は、暗闇の奥からゆっくりと姿を現した。


 全身が黒い法衣で、黒い頭巾を被り、黒い覆面をしている。

 だが、その覆面の隙間から覗く目は、右目が潰れていた。

 その者は言うまでもない。


「俺の名はジェムノーザ」


 と、闇の天法士ティエンファードは薄笑いで名乗った。


「ジェムノーザ?」


 イジャスラフは眉を動かした。


 先日、ルード・シェン山でリューシスより聞いた名である。

 そして、何故か心に引っかかった名前である。


「貴様が闇の天法術ヘーアンティエンファーを使うと言うジェムノーザか。どうやってここに入ることができた? いや、何をしにここへ来た」

「ははは……元々来るつもりはなかった。だが、ちょうどアンラードの近くを通りがかったので、久々に挨拶をしようと思ってな。」

「久々だと? 予は貴様など知らん。」

「だろうな。ははは……」


 ジェムノーザは、嘲笑うような低い笑い声を上げた。

 その癇に障る響きに、イジャスラフは苛立って舌打ちすると、


「皆、かかれっ!」


 と、護衛兵らに命じた。


 だが、ジェムノーザが両手を左右に振ると、そこから薄闇よりも黒い波動が疾り、二人の兵士がそれに吹き飛ばされて床に倒され、一人が腹を貫かれて絶命した。

 戦慄すべき凄まじい闇の天法術ヘーアンティアンファーであった。


 しかし、イジャスラフはそれを横目に見ても、顔色一つ変えなかった。

 冷静な顔で小卓の上の呼び鐘を振って大きく鳴らすと、ふうっと息を吐いて長剣を構え直してジェムノーザを睨んだ。


曲者くせもの、何をしに来た」


 それを聞くと、ジェムノーザは感心したように言った。


「流石はローヤン帝国の皇帝と言ったところか。俺の姿を見た上に、今の俺の天法術を見ても顔色一つ変えぬとは」

「ははは……」


 イジャスラフは、豪胆な笑い声を上げた。


「かつて、予が玉座にある身でありながらも、どれほどの戦場で先陣に立ち、どれほどの敵を自ら屠って来たと思っている。初めて見たとは言え、闇の天法術ヘーアンティエンファー如きで怯む予ではないわ。特に、病も回復しつつある今はな」

「ほう、そうか……」

「戻りつつある我が力を見せてくれようか」


 イジャスラフは堂々と言い放つや、床を蹴った。

 両者の距離が一瞬で詰まる。

 皇帝は、上段から長剣を振り下ろした。

 隙を見せぬ為に、動きは最小にして神速、しかし剛力は落雷の如く。凄まじい斬撃がジェムノーザの頭上に落ちた。

 だがその瞬間、ジェムノーザの姿はそこから消えていた。

 しかし、イジャスラフはそれを読んでいた。


「そこか!」


 イジャスラフは瞬時に身体を翻すと、左手を突き出した。そこから猛烈な突風が吹いた。

 イジャスラフが唯一使える風の天法術である。それを真正面から喰らい、ジェムノーザは後方へ吹っ飛んだ。

 だが、ジェムノーザは余裕の態度で立ち上がった。


「やはりかなりできるようだな。度胸も個人的戦闘力も、リューシスの奴より遥かに上か」

「くだらんことを。予は武技の素質に恵まれたが、リューシスにはそのようなものはいらん。むしろ邪魔になるであろう。リューシスの本質は戦術家である。戦術家と言うのは少し臆病なぐらいが向いているのだ。あれこれと様々な事態を想定して作戦を考えるからな」

「ほう、なるほど。そう言う考え方もあるのか」


 ジェムノーザは、本当に感心したように頷いた。


「さて、ジェムノーザとやら。このまま逃がすわけにはいかん。覚悟せい」


 イジャスラフは威風凛然いふうりんぜんに言い放つや、長剣を一振りして、再び構え直した。

 その姿は、寝間着でありながらも全身から闘気が立ち上り、さながら武神の如きであった。


「そうかそうか。よし、じゃあこちらも本気を見せるか」


 ジェムノーザは楽しそうに笑うと、右手を突き出した。先程の、黒い波動が唸りを上げて噴射された。


 イジャスラフは咄嗟に身を低くし、それを躱しながら突進した。

 だがそこへ、ジェムノーザが左手を上に上げた。

 すると、無数の細い稲妻が爆音を立てて部屋中を駆け巡った。だが、その稲妻はリューシスが使うような黄金のものではなく、漆黒の色をしていた。

 その無数に奔った暗黒の稲妻に、イジャスラフは全身を斬り刻まれて、力なく床に崩れ落ちた。

 這いつくばるイジャスラフの全身は、寝間着ごと血塗れになっていた。


 だが――


「うう……き、貴様……」


 なんと、イジャスラフは立ち上がった。


 かなりのダメージを負ったはずである。

 しかし、寝間着がボロボロになり、全身から血を流しても、イジャスラフは呻きながら立ち上がって長剣を構え直した。

 瞳には覇気がぎらつき、燃えるような闘志は萎えていなかった。


「これは素晴らしい、驚いたぞ。わざと死なぬ程度に威力は抑えたが、動けなくなるとは思っていたのだがな」


 ジェムノーザは本心から驚いていたようであった。


「死なぬ程度……? 貴様、予の命を狙いに来たのではないのか?」


 立ち上がったイジャスラフは、長剣の切先を震わせながら言った。


「さっき言っただろう。アンラードの近くを通りがかったついでに、久々に貴様に挨拶しようと思ってな。ああ、まず言っておこうか。俺は貴様の命を奪うつもりはない。できればそうしたいがな。だが、それを俺がやっては、俺の目的が達成できないのだ」

「目的だと?」


「教えておいてやろう。俺は、貴様らのローヤン帝国を破壊する。滅ぼすんじゃない。惨めなまでに破壊してやる」

「破壊だと?」


「ああ。リューシスの奴は流石だ。俺の狙いを知ることもなく、見事に俺の狙いを回避しやがった。だが、所詮一時しのぎよ。いずれ、いや、一年以内に、ローヤン帝国は粉々に砕け散るだろう」

「何を……何故だ? 貴様、何の理由があってそのようなことを」

「ふふ……じゃあ、見せようか」


 ジェムノーザは言うと、覆面と頭巾を自ら剥ぎ取った。

 突然あらわになった、ジェムノーザの素顔。

 薄闇の中であるが、イジャスラフはそれを見て、一瞬で顔色が変わった。

 次に、唇を震わせ、全身も小刻みに震わせた。握っていた長剣が手から落ちて、床に金属音が響いた。


「ど、ど……どういうことだ……これは……」


 ジェムノーザの素顔を見たイジャスラフは、亡霊でも見たかの如くに真っ青になって震えていた。


「どうもなにも、こういうことさ。わかっただろう。久々に挨拶に来たと言う意味が」


 ジェムノーザは高笑いを上げた。


「そ、そうか……お前は、お前は、お前は……あの時の……そう言うことか……」


 イジャスラフは震える声で言うと、腰が抜けたように崩れ落ちて尻もちをついた。

 彼は衝撃のあまり言葉を失い、その顔に、初めて恐怖の色が浮かんでいた。だが、何故か悲しそうな色も混ざっていた。

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