第65話 チャオリーの研究

 リューシスは、やや緊張しながらも、躊躇うことなくはっきりと言った。


「父上、エレーナです。フェイリン王国の元王女で、私の元妻の。覚えておられませんか?」


 すると、イジャスラフは「おお」と手を叩き、


「そうか。フェイリンのエレーナ姫か。どうしてここにおる?」

「まあ、ちょっと色々ありまして」


 リューシスは、簡潔にこれまでの経緯を話した。


「うむ、そういうことであったか。うん、うん」


 イジャスラフはしげしげとエレーナを見た後に、やや暗い表情となり、


「しかしあの時は……」


 と言いかけたが、一瞬何か思案の顔となって言葉を止めた後、言い直した。


「離縁の時は、この馬鹿息子のいい加減さで迷惑をかけたな。父として謝ろう、申し訳なかった」

「いえ、そのようなことは……」


 エレーナは恐縮しきりで肩を竦めた。


「それにしても」と、イジャスラフはエレーナとリューシスを交互に見ると、


「あの当時は気付かなかったが、こうして見るとよく似合っているではないか。稀に見る美しさであるし、リューシスよ、別れたのを後悔しているのではないか? だから連れて来たのであろう」


 イジャスラフは冗談めかして笑った。周囲も笑った。


「父上、ちょっと……そんなことは……」


 リューシスは気まずそうに慌てた。

 エレーナは顔を赤くして俯いた。


「ははは……しかしエレーナどの。今後ここにいるからには、あの時の償いとして、どんなわがままでもリューシスに言うがよいぞ。リューシスが嫌がったら予に知らせよ。予がリューシスを罰してやろう」


 酔いも手伝ってか、イジャスラフの冗談が饒舌になる。

 だが、次にイジャスラフは、ふと何かに気付いて、真面目な顔でエレーナを見つめた。


「しかし、そなたからは何かこう……そうだ、強力な天精ティエンジンを感じるのう。もしや天法術士ティエンファードか?」

「はい。少々たしなんでおります」


 エレーナが謙遜して言うと、リューシスが横から言った。


「エレーナの天法術ティエンファーは尋常ではありません。風と土を得意とする他、炎まで操り、変幻術も少し使えます。しかも、術の一つ一つが最高レベルの威力です。戦でもかなりの戦力になっています。アンラードの天法士局でも十本の指に入るでしょう」

「ほう、それほどか。そう言えば……何と言ったかのう、タイプは違うが、お前が昔惚れ込んでいた、あのメイファと天精ティエンジンの感じがよく似ておるな」


 イジャスラフは何気なく言ったが、リューシスはさっと顔色を変えた。バーレンとネイマンも、ぴくっと反応して動きを止めた。


「父上、ちょっとそれは……」


 リューシスは珍しく狼狽した。


「ああ、すまんすまん。ははは」


 イジャスラフは謝ったが、大して気にしていないように大声で笑った。



 ――メイファ? 誰?


 エレーナは、努めて平静を取り繕おうとしているリューシスの横顔を見た。


 心に波が立ったような感覚を覚えた。




 酒宴はますます賑やかに盛り上がりながら、夜は更けて行った。

 そのうち、イジャスラフが「いや、もうこれ以上は飲めん。すまんが予は先に寝るぞ」と言ったので、リューシスは、侍医のリョウエンらと共に、自分の部屋へとイジャスラフを連れて行った。


 まだ城はできていないが、いずれ兵士らの宿舎となる、長屋のような木造の仮住まいならすでに何軒も建っている。

 リューシスは、その中の自分が使っている部屋へイジャスラフを連れて行った。今夜は、同室で寝るつもりであった。


 リューシスとリョウエンらは、イジャスラフをベッドの上に寝かすと、水差しと木椀を小卓の上に置き、外に出た。

 護衛兵に見張りを頼み、リューシスとリョウエンは元の宴会場に向かった。宴会場ではまだまだ篝火が空を照らし、音曲と舞いと騒ぎ声が続いていた。


「しかしリューシス殿下、ようございましたな。陛下がお許しくださって」


 リョウエンがにこやかに言った。

 リョウエンは今年五十歳。現在ローヤン国内で最も知識と腕がある熟練の医師である。一見穏やかで柔和にさえ見えるが、その気質は剛毅であり、マクシムからマクシム派への誘いを何度も受けているが、「医師にそんなものは不要。私は医術を持って陛下の為、全ての患者の為に尽くすのみ」と、毅然として断っていた。


「まあな。色々あったが、良かったよ。と言うか、今回のことがあったおかげで、逆に子供の頃のような普通の親子に戻れた気がするんだ。俺はそれが一番嬉しいよ」


 リューシスはしみじみと答えた。


「ふふ。殿下はやっぱりお優しいですな」


 リョウエンは静かに笑った。

 そこで、リューシスは、ふとチャオリーのことを思い出し、リョウエンに言った。


「そう言えばリョウエン。お前は確かチャオリーと仲が良かったよな」

「ええ。歳は私の方が少し上ですが、同郷で同じ学問所に学び、共に切磋琢磨した間柄でもあります」

「実は、俺はクージンでチャオリーに会ったぞ」

「何と。チャオリーはクージンなどにいたのですか」


 リョウエンは驚いて足を止めた。


「ああ。闇医者をやっていて、盗賊や逃亡中の罪人なども診てやっているらしい」


 リューシスが言うと、リョウエンは穏やかな笑い声を立てた。


「ほう。それは研究者でもあるチャオリーらしいですな」

「研究?」

「ええ。アンラードの皇宮では、健康な生活をしている普通の人間しか診ることはありませんからな。ですが、盗賊や罪人などはまともな生活をしていない。未知の病や人体の謎に出会える可能性が高くなりますから」

「なるほど、そういうこともあるのか……」


 リューシスは感心して頷いたが、


「待て。チャオリーが研究者?」


 と、意外そうに驚いた。


「ええ。チャオリーは、どちらかと言えば医者と言うよりは学者や研究者気質でしたね。好奇心の強い男ですから、仕事の他に、空いた時間で様々な研究をしておりました」

「へえ。あいつが何の研究をしていたか知っているか?」

「詳しくは知りません。一人で黙々とやっておりましたから」

「そうか……」

「どうかしましたか?」

「いや、あいつな。クージンで別れ際、俺に言ったんだよ。自分は、確かにローヤン皇家の禁断の秘密を知ってしまったと。その為に刺客に追われ、アンラードから逃げることになってしまった、とな」


 リューシスが言うと、リョウエンは目を丸くした。


「何と……噂は本当だったのですか」

「ああ。だがあいつは、今はまだ何も言えないと言って、何を知ったのかは結局俺には教えてくれなかった。お前は、チャオリーが何を知ったのか知らないか?」

「まさか。チャオリーは、私にも何も言わずに突然出奔しましたから」

「そうか」


 リューシスは、小さな溜息をついた。

 すると、リョウエンが何か思い出したように言った。


「そう言えば、チャオリーはアンラードから消える直前、民族学について研究しておりましたな」

「民族学?」

「ええ。例えば、我々ハンウェイ人はほとんどが黒髪に黒い瞳。しかしローヤン人などの北方民族は金髪や褐色の髪、瞳も青や鳶色など様々。その北方民族の中でも、ローヤン人やガルシャワ人、フェイリン人などでも、それぞれ顔立ちが微妙に違う。こう言ったことがあるのは何故なのか? また、別民族同士の混血でも、人によって髪の色や顔立ちが違って来るのはどうしてなのか? 体質や気質はどうやって決まるのか? などなど、こういったことです」

「ふうん、民族学か……」


 リューシスは言いながら、最近赤毛の割合が増えて来ている自分の頭髪を撫でた。


「チャオリーは、その研究をしているうちに、ローヤン皇家が隠していた秘密に辿り着いてしまったのかも知れませんな」

「民族の違いか……それとアランシエフ家に何の関係があるんだろう」


 リューシスは、星空を見上げて考え込んだ。

 しかし、いくら考えても何も浮かんでこない。特に酒が入っている今の頭では。

 気になるが、とりあえず考えることは止めて、リューシスは宴会場へと戻った。



 そして夜半もかなり過ぎた頃、ほとんどの者は酔い潰れ、酒宴は自然と終わった。

 リューシスは後半、悪酔いを防ぐ為に水やお茶と交互に飲んでいたので、潰れはしなかった。しかし、だいぶいい気持ちになり、鼻歌など歌いながら、自室へと戻った。

 中では、父のイジャスラフが寝ている。リューシスは起こさぬように、そっと木の扉を開けて入り、静かに着替えをして、木床の上に敷いた布団に潜り込んだ。


 だがその時、イジャスラフの寝息が止まり、イジャスラフはむくりと上半身を起こした。


「あ、すみません。起こしてしまいましたか」


 リューシスは申し訳なさそうに言った。


「いや、お前のせいではない。最近は眠りも浅いからな。それに、喉が渇いたので自然に起きたのよ」


 イジャスラフは言うと、側の小卓の水差しに手を伸ばし、水をごくごくと飲み干した。

 そして用を足しに外へ出て、また戻って来ると、もう一杯水を飲んでから、「さて、もう一眠りしよう」と言って、再びベッドの中に入った。


 だが、掛け布団を被って早々に言った。


「今日は、久々に楽しく愉快な夜だったな。このように楽しい酒宴はもう十何年も記憶にない。ありがとうな、リューシス」


 イジャスラフは、ふふふ、と笑った。父親の声であった。

 リューシスは嬉しくなった。


「いえいえ。父上がそれほど楽しかったのなら何よりです」

「アンラードでも酒宴はやるが、堅苦しいからのう」

「ははは……視察がてらにいつでも来てください。また今夜のように飲みましょう」

「うむ、そうだな」


 イジャスラフは笑ったが、


「だがな、リューシス。お前も時々はアンラードに顔を見せに来るのだぞ」

「はい。わかってますよ」

「それと、できれば……早く孫の顔も見せに来い」

「はあ?」


 リューシスはびっくりして変な声を出してしまった。


「何を突然……」

「ははは、別におかしくはないだろう。リョウエンが新しい治療法を見つけてくれたとは言え、俺ももう歳だ。孫の顔でも見られればまた活力が出てくるだろう」

「まあ、そうかもしれませんが、そんなこと突然言われてもなあ……」


 リューシスは苦笑した。

 イジャスラフは、暗闇の中でリューシスの方へ身体を向け、


「どうだ、あのフェイリンの元王女は? 稀な美貌であるし、気立ても良い。もう一度結婚してみるのもよいと思うがな」

「え? エレーナですか?」

「そうだ。いい娘ではないか」

「…………」


 だが、リューシスは黙りこくって答えなかった。


 その時、彼らの部屋の外の廊下で、驚いていた者がいた。

 話題の本人、エレーナであった。

 元々酒も強くないので、今夜はそれほど飲んでいない。残っていた者らと共に後片付けを手伝い、今戻って来たところであった。彼女の部屋は、リューシスの隣である。


 だが、エレーナは、中から漏れ聞こえて来た二人の会話を偶然耳にして、思わず足が止まってしまったのであった。

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