第66話 エレーナの涙
リューシスとイジャスラフの会話は、夜の静寂の中で続いた。
「やはり、偽りの夫婦だった上に、一度別れた女は嫌か?」
暗闇の中で、イジャスラフの言葉が鋭く響いた。
リューシスは一瞬固まってから、
「ばれておりましたか」
「当たり前だ」
「申し訳ございません」
「もう昔のことだ、どうでもよい。それに……いや、だがそれは別として、エレーナはとても良いと思うぞ。今なら再婚も悪くないと思うが」
だが、リューシスはまた無言になった。
イジャスラフは、暗闇の中でリューシスの影を見つめた。
「お前、まさかまだ、メイファを忘れておらんのか?」
すると、リューシスは笑って答えた。
「まさか。遥か昔のことです。すでに少年時代の思い出に過ぎません」
リューシスは、一つ吐息をついてから、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「エレーナは美しいだけでなく、とても優しく、思いやりに溢れた女性です。正直に言って、私は一時期とても強くエレーナに惹かれたことがありました。しかし私は、フェイリンを滅亡させ、エレーナの家族を死なせてしまった身です。エレーナを娶る資格などございません」
「考え過ぎだ。あの戦争は仕方のないことだった。今は大乱世だぞ」
イジャスラフは言った。だがリューシスはそれに答えず、
「それに、私は結婚はしないと決めております。子も作らぬと」
「何だと? どういうことだ?」
イジャスラフは驚き、再び上半身を起こした。
リューシスは、布団から出て立ち上がると、ゆっくりと窓の方へ歩いて、窓から夜空を見上げた。
遠くの雑木林の梢の上に広がる夜空には、青や黄色に輝く星々の海が果てしなく広がっていた。
その中に、一際赤く光る星があった。リューシスはその星を見つめながら言った。
「私は、ずっと私など生まれて来ない方が良かった、そう思って生きて来ました。私が生まれて来なければ、あの東南騒動は起きずに済んだし、傅役だった大将軍のミハイルも、母上も死ぬことはなかったでしょう。もちろん、巻き込まれて亡くなったその他の多くの者達も……皆、私がローヤンの皇子として生まれて来てしまったが故に、無駄に命を散らしてしまったのです。今回のこともそうです。私がいなければ、今回の戦は起きずにすみ、沢山のローヤン近衛兵たちも死なずにすんだはずです」
イジャスラフは、リューシスの背を見た。ローヤン皇帝家のアランシエフ家の人間たちは、歴代の皇帝たちはもちろん、皇族の男女たちも皆、どちらかと言えば長身で体格の良い者が多い。
イジャスラフも、異母弟のバルタザールも180セーツ(cm)近い長身である。しかし、リューシスは平均的な中肉中背で、後ろから見る背中は、むしろ華奢にも見える。
だが、イジャスラフには、その細い背中が、何か言い様の無い暗く重いものを背負っているように見えた。
イジャスラフの心に、込み上げて来る何かがあった。だが、彼はそれをぐっと抑えこんで、毅然として言った。
「リューシス、それは考え過ぎだ。それは、言い方を変えればバルタザールにも当てはまるのだぞ」
「いえ。バルタザールは
すると、イジャスラフは、恐い顔となって叱るように言った。
「リューシス、そのようなことを言うでない! この世に生まれて来た者は皆、全ての命に生まれて来た理由があり、価値があるのだ。それに、お前が生まれた時、リュディナはどれほど……」
と、言いかけて、イジャスラフは突然言葉が止まった。
リューシスは不審そうな顔で振り返った。
「父上?」
「ああ……」
イジャスラフは我に返ったように、一つ咳払いをしてから、
「とにかくだ。リュディナは、お前が生まれた時、どれほど喜んだことか……どれほどお前を可愛がっていたことか……それ故にだ。お前は逆に生きなければならん。自分の命に価値を見出し、生き続けることが、リュディナへの弔いになるのだ。生まれて来るべきではなかったなどと言っては、天にいるリュディナがどれほど悲しむことか、わかっているのか?」
リューシスは、窓際で俯いた。
「……はい、そうですね、わかりました。愚かなことを言ってしまいました。申し訳ございませんでした」
「わかればよい」
「しかし、やはり結婚はやめておこうと思います」
「何故だ」
「父上に罪を許された上、私はここにいられることにもなりました。しかし、アンラードの朝廷内には、まだ私の存在を邪魔に思う者がおりましょう。朝廷内だけではありません。他にもジェムノーザとか言う不気味な闇の
「ジェムノーザ……?」
イジャスラフは眉をしかめた。彼はジェムノーザのことは知らない。だが、その名前に引っかかるものを覚えた。
リューシスは、再び窓から星空を見上げながら、言葉を続けた。
「もし私が、誰か愛する女性と結婚して、子供も産まれたとしましょう……しかし、そのすぐ後に私が何者かに殺されたとしたら、妻となったその女性はどれほど悲しむことでしょう。父親を早くに無くした子供は、どれほどの傷を心に負うでしょう。私は、私のせいで愛する者を悲しませたくないのです。子供の頃の私と同じように……」
「…………」
「特にエレーナは……まあ、仇敵である私と本当に結婚など、向こうから願い下げでしょうが、もし万が一、私と愛し合い、結婚した後に、私が殺されたら……エレーナは、フェイリン滅亡に続いて、再び家族を失うことになってしまうのです」
「リューシス……お前にはそういう繊細なところが昔からあるが、それは流石に考え過ぎだぞ」
「自分でもそう思います。でも、自分でそう言う気持ちに整理がつかないのですよ」
リューシスは、寂しそうに言った。
「だから私は……エレーナを好きになってしまいそうな気持ちを、いつも必死で抑えていました」
リューシスはそう言うと、急に赤面して恥ずかしそうに笑った。
「ああ、やっぱり酔ってるなあ。こんな話を父上にするなんて。何だか恥ずかしくなって来た。さあ、もう寝ましょうか。」
そして、リューシスは布団の中へ戻った。
「うむ……」
イジャスラフは、何か言いたそうだったが、それは言葉にならなかった。そして、彼も複雑そうな顔のまま、再び横になった。
だが、次に独り言のように言った。
「マクシムは、宰相として優秀であるが故に政治を一任させたが、少し権力を与え過ぎたかも知れんな。新しい治療法も見つかったことだし、アンラードに戻ったら、予も政務に復帰するとしよう」
イジャスラフは、
その時、外の廊下で動けないまま、中の二人の会話を聞いていたエレーナ。
彼女は、一筋ずつ零れ落ちて来る涙を、ずっと指で拭っていた。
だが、やがて堪えきれずに、その場にしゃがみ込んで両手で顔を覆った。
その震える背を、廊下の窓から淡く漏れ入る月光が白く照らしていた。
翌朝――
イジャスラフらは、ルード・シェン山でリューシスらと共に朝食を取った後、再び山のあちこちを視察して回り、正午前に下山した。
そして、帰還準備を整えて待っていたマクシムらの軍と共に、アンラードへの帰途に着いた。
リューシスらは
「ではな、リューシス。昨晩も言った通り、たまには顔を見せに来るのだぞ」
別れ際、イジャスラフはリューシスに言った。
「はい、わかっております」
「それと、あれもな」
イジャスラフは、にやりと笑った。
「はいはい」
リューシスは苦笑して、
「その前に、しっかりと養生に励んでくださいよ」
「うむ」
そして、イジャスラフらは、アンラードへ向けて出発した。
ビーウェンの部隊が最後に進発する時、ビーウェンは最後尾まで馬で駆けて来て、リューシスに向かって馬上から無言で一礼した。
リューシスは微笑して頷くと、ビーウェンもまた微笑で応えた。そしてまた先頭まで駆けて戻ると、やがてビーウェンの部隊も進発した。
全軍がアンラードへ向けて帰って行くその後影を、リューシスはいつまでも名残惜しそうに見送っていた。
そんなリューシスの後ろ姿を、エレーナは憂い交じりの青い瞳で見つめていた。
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