第63話 皇帝と皇子、父と息子

 イジャスラフの一団の背後には、マクシムらが整列して座っていた。

 リューシスは、そこから少し離れたユエン河の岸辺に降り立ち、そこに飛龍フェーロンを止めて、全員でイジャスラフらの方へと歩いて行った。


 段々と大きく見えて来るイジャスラフの姿は、相変わらず痩せて皺が増えており、顔色も良くなかった。

 それが、リューシスの心をまた切なく締め付けた。

 だが、イジャスラフの下に跪き、


「父上。お久しぶりでございます」


 と、顔を上げて言った時に見たイジャスラフの目には、かつて皇帝でありながらも豪勇の武将として鳴らした頃の、往年の覇気が戻って来ているように見えた。


「うむ。わずか一ヵ月半ほどなのだがな」


 イジャスラフは、その目を細めて笑って見せた。


 リューシスは、微笑して応えた後に、ちらっと、イジャスラフの背後に控えているマクシムを見た。

 マクシムはリューシスから目を逸らしていたが、その顔には屈辱と悔しさに耐えているような色が見え隠れしていた。

 リューシスは、目を伏せて笑いを堪えた。

 おもむろに、イジャスラフが背後を振り返ってマクシムらに言った。


「皆の者よ。すまぬが、予とリューシスの二人だけにしてくれぬか?」

「ははっ」


 マクシムらは一斉に立ち上がり、「よし、撤退準備の再開だ」と、離れて行った。


 リューシスもまた、イェダー、バーレンらを振り返って、目で合図した。

 イェダーとバーレンらは、飛龍たちを止めてあるユエン河の岸辺へと戻って行った。


 こうして、皇帝と皇子、いや、父と息子の二人だけになった。

 静寂が訪れ、ユエン河のさらさらとした流れの音だけが聴こえる。

 リューシスは立ち上がると、まず礼を言った。


「父上、私の罪をお許しくださるとのこと、ありがとうございます」


 イジャスラフはユエン河の青黒い流れを見ながら頷いた。


「うむ。お前の犯した三つの罪は最も重い罪、本来は皇子エンズであろうと許されるものではない。だが、まず最初の、予の毒殺未遂。あれは、時が経てば経つほど、お前が私を毒殺するはずがない、お前の言う通り、何者かの陰謀にはめられたのであろうと言う想いが強くなってな」

「あれは、マクシムと継母はは上が共に謀ったことです」

「お前はそう言っていたな。それ故、実は私も密かに人を使って調べさせたのだ。だが、どんなに調べても、あの二人が謀ったと言う証拠が出てこない」


 イジャスラフが困ったような顔で言うと、リューシスは一瞬俯いたが、すぐに顔を上げて不思議がった。


「では、何故?」


 すると、イジャスラフはリューシスの顔をまっすぐに見た。


「リューシス。昔、まだお前が五歳ぐらいの時に、俺の前で剣術の稽古は嫌だ、と駄々をこねた時のことを覚えているか?」


 イジャスラフは、俺、と言う一人称を使った。

 リューシスと二人だけの時、イジャスラフは時々こう言う父親のような言葉づかいになることがある。


「え? う~ん、そのようなことがありましたかな……」


 リューシスは頭をかきながら小首を傾げた。


「あったんだ。あの時、お前は剣術なんて所詮一人や二人しか相手にできない。それよりも万人を相手にできる兵法を教えてくれ、と生意気なことを言ってな」

「そんなことを言いましたか」

「うむ、確かに言った。そして俺は、まだ五歳の癖におかしなことを言う子だと思い、何故兵法など学びたいのかと訊いたら、お前はこう答えた」



 ――私が兵法を学んで戦争ができるようになれば、父上の代わりに戦に行くことができるようになります。そうすれば父上も安全ですし、母上も寂しくありません。



「ああ~……、ああ、そうだ。そう言えば、そんなことを言ったような記憶があります」


 リューシスは思い出し、左拳で右の掌を叩いた。


「普通、兵法に興味が出て来る年代は、早くてもせいぜい十歳前後。更に兵法を学びたいと思う者のその動機は、単純に戦争に興味を持ったからか、戦場で武功を挙げて出世し、より富を得たいと言うそのどちらかだ。だが、お前はわずか五歳で兵法を学びたいと言った。しかもその理由が、父と母のことを守りたいからだと言う。そんな優しく親思いだったお前だ。そんなお前が、父であるこの俺を毒殺するはずがないと思ってな」


 イジャスラフは、痩せこけた頬を緩ませ、微笑して息子の顔を見た。


「父上……」


 リューシスは、目の奥に込み上げてきそうになるものを、ぐっと堪えた。

 だが次に、イジャスラフは笑いながら言った。


「それに、お前は昔からずっと言っていたしな。皇太子じゃなくなって本当に良かった、ずっと遊んでいられる、とな」


 それを聞いてリューシスは気まずそうに苦笑したが、


「しかし、もしそれが私の本心を隠した詭弁だとしたら?」


 と、にやりとして訊いてみた。


「それはないな。本心だろう? 俺だからわかる。お前の実の父親だからな」


 イジャスラフもまた、にやりとしながら断言した。


「ははは、やっぱり父上です」


 リューシスは大笑いした。だが、その瞳は濡れて光っていた。


「ははっ、このドラ息子が!」


 イジャスラフも大笑し、更にリューシスの肩を叩いた。その力がまだ強く、リューシスは少し安心を覚えた。

 だがすぐに、イジャスラフはゴホゴホと咳き込んだ。

 咳が止まると、イジャスラフは口に当てていた右手を離したのだが、その手の平には血がついていた。


「父上、大丈夫ですか?」


 リューシスは顔を青くしてイジャスラフの背を擦った。


「ああ、血が出るのは最近よくあるんだが、心配はいらん。むしろ、最近は回復して来ているのだ。今回も同行している、侍医のリョウエンが良い治療法を発見してくれてな」


 イジャスラフは、青白い顔に笑みを見せた。


「そうですか……しかし……」


 リューシスが言いかけたが、イジャスラフはそれを遮るように、ルード・シェン山を見上げて言葉を続けた。


「あとの二つの罪に関してはな……イェダーに伝えさせた通りだ。俺への毒殺未遂が陰謀に嵌められたのだしたら、後の二つの罪に関しては仕方のないところがある。それに、お前も懸念している通り、このまま身内同士で争い続けることは、ガルシャワやマンジュに侵攻の隙を与えてしまうことになる。ならば、これまでにお前が挙げた数々の武功に免じて許し、再び将として活躍してもらう方が良いからな」

「……ありがとうございます」


 リューシスは一瞬複雑そうな顔となったが、すぐに頭を下げた。


「それにしても」


 と、イジャスラフは話を変えて、四方の激戦の痕を見回した。


「今回はまた凄まじい戦いぶりだな」

「いえ、天が味方したのです」

「いや……俺はな、リューシス」


 イジャスラフは首を横に振ると、肌艶は悪いがまだ強い光を宿している瞳で、息子の顔を真っ直ぐに見た。


「お前の初陣からフェイリン攻略戦、伝説となったセーリン川の戦い、先日のクージンでの戦い、アーサイ川での夜戦、そして昨夜の戦……お前は軍事に関しては当代一の天才だと思っている」

「そんな……父上まで、買いかぶりです」


「いや。父親と言う贔屓ひいき目を差し引いても、お前の軍事的才能は傑出している。それだけではない。お前には、そんな天才的な将才がありながらも、武将らしからぬ繊細とも言える優しさと思いやりがある。これはな、名将と言う器を更に超える、真に強き名将の条件なのだ。この二つを兼ね備えた人間と言うのは、歴史上を見回しても滅多におらん」


 イジャスラフは真剣な顔で言ったが、当のリューシス本人は、初めて父親にそのように褒められて、どのように返してよいかわからず戸惑っていた。


「お前は、ローヤン民族を統一した偉大なる太祖パーウェル、その息子で今のローヤン帝国を確立させた武帝ユリスワードを超える器だと思っている。いや、それどころか、ハンウェイ人の伝説の覇王バーワンマンドゥー・ツァオに匹敵するとまで思っている」

「そんな、もうやめてください。くすぐったい。と言うか、畏れ多いことです」


 リューシスは顔を赤くして目を逸らした。


「まあ、ちょっと抜けているところやだらしないところ、遊蕩癖を除けば、の話だがな」


 イジャスラフは一言付け加え、冗談めかして笑った。


「何だ……父上の冗談か」


 リューシスはわざと不満げな顔を見せて笑った。


「だが、将としての器だけなら本当の話だ。お前がローヤンにいれば、ローヤンによるこの大陸の統一も夢ではない」


 イジャスラフは、また真剣な顔つきに戻った。


「まあ、伝えてある通り、しばらくどこか田舎の県城で勤めをしたら、またアンラードに戻って来い。ランファンの領土も元に戻す。そうしたら、再びローヤンの第一皇子として、武将として、戦場で働いてくれ」


 イジャスラフは微笑みながらそう言ったが、リューシスは眼前のユエン河の流れを見つめて黙りこくった。

 ユエン河の水流は激戦の後で青黒くなっていたが、それでも降り注ぐ陽光をきらきらと撥ね砕いている。

 リューシスは、無言でそれを見つめていた。


「どうした?」


 イジャスラフが不審がって訊くと、リューシスは溜息をついてルード・シェン山を見上げた後、イジャスラフの方を向いて言った。


「父上、ありがとうございます。ですが、折角のお気遣いなのですが、アンラードへ戻るのは勘弁していただけませんか?」

「何?」


「県城勤めはいたしましょう。何でもいたします。ですが、その後、アンラードへはもう戻りたくありません。私はもう、第一皇子ディーイーエンズと言う身分もいりません。ランファンの領土も戻していただかなくて結構です。俸給もいりません。ですので、その後は私の仲間、部下達と共に、あのルード・シェン山にいさせてくださいませんか?」

「ランファンも俸給も、それどころか皇子エンズと言う身分もいらないと? 何故だ?」


 イジャスラフはひどく驚いていた。


「私がまたアンラードに戻ったら、私をまだ邪魔に思う者達がまた密かに動きましょう。そうなればまた今回のようなことになりかねません。私は第一皇子ディーイーエンズとしてアンラードにいるべきではないのです」

「それは、私が二度とこのようなことにならぬよう、手を尽くそう」

「いや、父上」


 リューシスは、イジャスラフの方を向いて頭を下げた。


「勝手なわがままとは承知しております。しかし、これもまたローヤンの為でございます。これ以上ローヤン国内で争いが起きぬ為にも、私をあのルード・シェン山にいさせてください。もちろん、武将として私が必要な時は、いつでもご命令ください。すぐに戦場へ馳せ参じましょう。そして、もちろん税も納めます。私は、仲間や部下達と共に、あの山を開発するつもりです。あそこには肥沃な土地だけでなく、何と金鉱や宝玉の類まであるのです。それらを毎月納めましょう。ですから、どうかお願いいたします」


 リューシスは言うと、更に平伏して地に額までつけた。

 イジャスラフは、しばし呆然として、そんな息子を見つめた。

 だが、やがて、諦めたような顔で笑った。


「ははは……わかった、良かろう」

「本当でございますか?」


 リューシスが顔を輝かせてイジャスラフを見上げた。


「お前の言うことには一理ある。お前は皇宮暮らしよりも、あの山にいる方が良いのかも知れぬ。それに、そもそも、お前がそんな風に思わなければならなくなった原因の一端は、私にもあると言えるしな」

「ありがとうございます」


 リューシスは、笑顔で立ち上がった。


「しかし、あの山にはそんなに凄い資源が眠っているのか?」


 イジャスラフは、興味深そうな目で、ルード・シェン山の高い崖の上を見上げた。

 すると、リューシスは「そうだ!」と手を叩き、


「父上。あの山に来てみませんか? 色々と見てください。きっと驚くはずです。ああ、できれば今夜は泊まって行ってください。久しぶりに、共にお酒など飲みましょう」

「うん? おお、そうか。それは悪くないな」


 イジャスラフも痩せた顔に皺を作り、楽しそうな笑みを見せた。

 それは、父としての笑顔であった。

リューシスがこのような笑顔を見たのは、もう何年も記憶が無い。

この笑顔を見られたのが嬉しく、リューシスの心は少年時代に戻った。

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