第51話 ジェムノーザの目的
ローヤン帝国領内の東南部、ある岩山の麓に、異様なまでに樹木が密集した深い原生林がある。
鬱蒼と言ったレベルではなく、夜はもちろんのこと、昼でもその森林はどこか不気味な気を漂わせている。
そのせいか、昔からこの近隣の集落の間では、この原生林には魔物が棲んでいると言う言い伝えがあり、
だが、その異様な森林の奥深いところに、一軒の木造の家がある。
その日の深夜、空は一面重苦しい雲に覆われており、月も星も見えなかった。
そんな漆黒の夜空の下、その家の扉の外に出て、一人の老人が空に顔を向けて瞑想していた。
老人は全身黒い法衣であった。
真っ白な長い白髪を結わずに垂らしており、顔は相応に皺があるのだが、肌は若者のような艶がある。
その老人の背後に、不意に一人の黒い人影が降り立った。
老人は目を開けた。瞳に、妖気漂う不気味な強い光が宿った。
「ジェムノーザか……半年ぶりだな」
老人は振り向かぬままに言った。声も、老人らしくなく若い響きがあった。
「
黒い人影、ジェムノーザが、覆面の隙間の隻眼をにやりとさせた。
「月も星も見えぬ曇り空の深夜……最も闇の
老人は言うと、ゆっくりとジェムノーザを振り返った。
「喉が渇いているようだな。まあ入れ」
その家の中は、家具類は普通であるが、壁や天井が一面真っ黒に塗られていた。
老人は、テーブルの上にあるたった一つの燭台に火を灯した後、茶を持って来た。
「
茶碗をテーブルの上に置いた後、老人は訊いたが、椅子に座ったジェムノーザは首を横に振った。
「茶でいい」
老人も椅子に座ると、茶を一口啜り、
「リューシスパールは生き延びて逃げているらしいではないか。失敗するとは思わなかったぞ」
「失敗したわけじゃない。思うところがあってな。見逃したのさ」
「何?」
「面白い物を手に入れた。見せよう」
ジェムノーザは低い笑い声を立てると、色のくすんだ木箱をテーブルの上に置いた。
「
「何だと?」
老人は、思わず大きな声を出した。
ジェムノーザは、木箱の蓋を開けた。中に、紫の紐がついた、
「これが、あの伝説の
老人は目を瞠り、薄闇の中でも鈍く光る
「ああ。本物だ」
「よく手に入れられたな」
「まあ、色々方法を探ってたんだが、運が良く簡単に手に入れられてな」
老人は感心したように頷くと、
「まさか
「いや。天下なぞには興味はない」
ジェムノーザは静かに言った。
老人はそんなジェムノーザをじっと見つめて、
「ジェムノーザ。ずっと殺したい相手だと言っていたリューシスパールを見逃し、
すると、ジェムノーザはふふっと笑った。
「
「何?」
「ただ滅ぼすんじゃない。破壊するんだ。徹底的にボロボロにさせた上で惨めに砕け散らせる」
「お前……そこまでしてローヤンを……」
「当然だろうが。俺はローヤン帝国に殺されかけたんだ。実に下らない理由でな。だから、百倍以上にして復讐するのさ」
ジェムノーザは冷笑して言うと、低い声で続けた。
「その為には、リューシスパールを生かしておく方がいいと思ったわけだ。奴の戦場での采配はなかなかのものだ。その上、認めたくはないが奴は不思議な何かを持っている。奴を生かして逃がし、あの偽物の
ジェムノーザは、そこで茶を一口飲み、
「……結果、ローヤンは分裂し、国内は疲弊するだろう。そうなれば、隣国の宿敵ガルシャワ帝国は、当然その機を狙って侵攻するだろうし、今は和平を保っている南のザンドゥーアも動くかも知れん。ずっとハンウェイ大陸に進出する機会を
ジェムノーザは、低い笑い声を上げた。
「リューシスパールの奴をやるのは、ローヤンを破壊した後だ」
リューシスの軍団は、ローヤン領内の北部を、ルード・シェン山へ向かって急いでいた。
途上、マクシムの強権によって近隣の県城へと移されていた、元々ランファンに駐屯していたリューシスの私兵らが、リューシスを慕って続々と脱走、その下に駆けつけて来た。
結果、リューシス軍は一千五百人ほどにまでなった。
行軍中、イェダーが素直な疑問を口にした。
「しかし、ルード・シェン山がそれだけの天険である上に、中には恵まれた水と緑に溢れていることがわかったなら、ローヤン朝廷もそこを放っておくとは思えぬのですが」
「その通り」
リューシスは頷くと、
「俺も詳しくは聞いてないんだがな」
と、ローヤン朝廷に一つの計画があることを明かした。
昨年のルード・シェン山調査行の結果、そこに城を築いて一大要塞とする計画が持ち上がった。
それは、宰相マクシムの主導で、早ければ今年の夏にも作業団を結成し、一軍団と共にアンラードから向かう予定になっていた。
「だから、その前に何としても俺達が先にそこを占拠する必要がある。急ごう」
リューシスが手綱を握り直すと、バーレンもまた横から疑問を言った。
「周囲の村落では、そこには
リューシスは頷いた。
「確かにその通りだが、人は住んでいないらしい。罪人でも、流石にそれだけの難所に逃げ込もうとまでは思わないんだろうな。だが、そこには二十数頭の野生の
「
「だけど珍しい。
リューシスは続けて言った。
「本来、
「それは珍しい」
自身も
「だから、去年ローヤンの調査団がルード・シェン山に入った時には、そこに拠点を築くことができずに、中を探索しただけで終わってしまったんだ」
リューシスが言うと、
「何とか山を登り切っても、次は凶暴な
ネイマンが面倒くさそうに溜息をついた。
「まあ、バーレン、ネイマン、お前ら二人がいれば何とかなるんじゃないか? ああ、今はエレーナの
リューシスは冗談めかして笑った。
「相変わらず殿下は戦争以外は能天気だな」
イェダーが呆れたように言うと、一同は苦笑した。
「まあ、とりあえず行ってみようぜ」
だが、リューシスらがルード・シェン山に辿り着いた時、誰もが言葉を失った。
その山は、ユエン河とウールン河と言う二つの幅広の川が交差する流れの中の、ほぼ中央に位置している。こう書くと、島のように聞こえるが、そこに見えたのは絶壁の岩山であった。
四方は全て切り立ったような崖である上、その標高はおよそ八十メイリ(メートル)近くもあると見えた。
すでに話には聞いていたが、実際のその姿は皆の想像を超えていた。
「ねえ、どうやって登るの? この山」
白い法衣姿のエレーナが、眼前の川とその向こうの急峻を見て、引きつった顔で言った。
「去年、調査団は、少しだけどなだらかな場所を見つけて、そこまで
リューシスも青い顔で答えながら、その場所を探すべく馬で四方を巡った。
だが、その場所と見られるであろうところを見て、リューシスらはまだ青い顔のままであった。
垂直に比べればまだマシと言ったレベルで、ほぼ垂直に近いようなものだったからである。
問題はそれだけではなかった。
ルード・シェン山を挟む二つの川、ユエン河とウールン河の流れが結構速いのである。
「とりあえず……ここまで来たからにはやってみるしかない」
リューシスは表情を引き締め、川向こうの崖を睨みながら言った。
登山が好きだと言う兵士らの中で、体格の屈強な者らを十数人ほど選んだ。
そして、ランファンから連れて来た十数頭の
皆が息を飲んで見守る中、兵士は短剣を岩肌に突き刺しながら少しずつよじ登って行ったが、やがてバランスを崩し、兵士は崖から滑り落ちてしまった。皆が「あっ」と声を発したが、下で待機していた
その様を見ていたリューシスは、険しい顔で呟いた。
「これは戦よりきつい戦いになるな。しかも長期戦だ」
リューシスは、他の兵士らに、野営地を張るように命じた。
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