第37話 ホウロー山陥落
「ジェムノーザ? リューシス、知ってるの?」
エレーナも、不気味な異形の気を感じ取っていた。青ざめた顔でリューシスに訊いた。
「ああ、ちょっとな」
リューシスは額に冷や汗をかいていた。だがそれを拭わず、素早く長剣を鞘走らせてジェムノーザを睨んだ。
ジェムノーザはそれを見て低く笑った。
「やめておけリューシスパール。俺はまだお前を殺す気はないぞ。だがお前がかかってくるなら容赦はしない」
リューシスは唾を飲み込んで、暗黒の男に問いかけた。
「何故お前がここにいる?」
「おかしいか? はは……」
ジェムノーザは、底冷えのするような冷たい笑声を上げた。
そのジェムノーザの小脇に、粗末な木箱が抱えられているのに、リューシスらは気付いた。
「覇王の玉璽……何をする!」
エレーナが目を剥いて叫んだ。
「悪いがこれはもらって行くぞ」
ジェムノーザは、覆面の隙間の隻眼をにやりとさせた。
「曲者、そうはさせるか!」
ついて来たエレーナの部下十人ほどが、一斉に剣を抜いてジェムノーザに向かって行った。
「待て、やめろ!」
リューシスは咄嗟に叫んだが、遅かった。
ジェムノーザは手を突き出さなかった。だが、全身から天精が発せられ、黒い猛風が左右から吹き荒れたその瞬間、向かって行った男達が皆吹き飛ばされ、苦痛の悲鳴が鋭く響いた。吹き飛ばされた者達は皆、腕を斬り飛ばされ、腹に穴を開けられ、一瞬で首を飛ばされた者までいた。
――何て術だ……!
リューシスの全身に恐怖が這い寄った。
「この野郎……!」
ネイマンは闘争心を搔き立てられ、大刀を抜いて飛びかかって行こうとしたが、「やめろネイマン!」と、リューシスは凄まじい剣幕で怒鳴ってそれを止めた。
リューシスは剣を正中の構えにし、ジェムノーザに言った。
「その玉璽は、マクシムに持って来いと言われたのか?」
「ははは……違うな。勘違いするなよ、俺はあんな男の部下ではない。金をもらって協力していると言うわけでもない」
「じゃあ、その玉璽を狙う目的は何だ? お前も天下の覇権を狙っているのか?」
「それも違う。俺は天下どころか、権力なぞにも興味はない」
「では何だ? 何の為に玉璽を? 何をするつもりだ?」
「ふっ……いずれわかるさ」
ジェムノーザは不気味な声を響かせると、玉璽を持ったまま渡り廊下から飛び上がり、薄くなり始めた闇の中へ溶け込むように消え去った。
辺りに、生々しく残る血の匂いと共に、後味の悪い静寂が漂った。
「玉璽が……」
エレーナは力を失ったようにその場に座り込み、呆然として呟いた。
「いいのかよ。これで完全にイーハオは救えなくなったぜ」
ネイマンが不満の残る声で言った。
リューシスは、ジェムノーザが消えて行った闇を見つめながら、
「仕方ない。あそこで俺達が玉璽を奪い返しに行ったら、俺達は一人残らず全員殺されていたぞ」
「しかし……ではイーハオはどうするのですか」
一番後ろにいたチャオリーが進み出て来て、沈痛な声で言った。
リューシスは振り返り、
「……盗み出した犯人のベン・ハーベンは確保してある。とりあえず奴を突き出した上で、ここでのあらましを全て説明し、玉璽を持ち去ったのがジェムノーザであることを知らせて、それで何とか勘弁してもらえないか、シーザーに掛け合ってみよう」
「あの金髪男、それで納得するのか?」
ネイマンが言った。
「そうするしかねえだろ。シーザーは見た目は近寄りがたい感じだけど、あれで結構度量の広く、話のわかる人間だと言う評判がある。もう、そこに賭けるしかない」
そしてリューシスは、エレーナを見た。
「ベン・ハーベンは連れて行くけどいいな?」
「好きにしたら」
エレーナは、不貞腐れたように言った。
リューシスは、エレーナが縛られている縄目をちらりと見て、
「悪いがこの山を降りるまではそのまま付き合ってもらうぞ、いいな?」
「どうぞご勝手に」
エレーナは、そっぽを向いた。
リューシスは苦笑した。
そして山塞の主殿に戻り、ベン・ハーベンを再び引き摺り出して、諸々の打ち合わせをした後に、さあ山を下りよう、となった時だった。
山の麓の方から、突如として異様な地鳴りと喚声が響いて来た。
「何だ? 喧嘩……ってわけじゃねえよな?」
ネイマンが響きの方角を見て言った。
エレーナや、他のエレーナの部下達数人も小首を傾げている。
だが、リューシスはすぐに気付いた。
――これは戦の音だ……あっ、まさか?
リューシスは咄嗟に叫んだ。
「しまった! ヴァレリーがガルシャワ軍を連れて来たんだ」
「え?」
ヴァレリーはクージンに残り、明け方を待ってシーザーに兵を使わせてもらえないか頼み込み、許可が下りたらすぐに一隊を連れてこのホウロー山に急行する手筈になっている。
だが、何らかの理由でそれが早く叶い、もう兵を連れてこちらに来てしまったのだろう。
「まずいぞ。もうそんな必要はないのに。しかもいきなり攻めかかって来るなんて」
リューシスは顔色を変えた。
「この状況をどう説明するか難しいが、とにかく一旦止めさせないと」
と言ったが、戦の空気は波が寄せるようにあっと言う間に上がって来て、瞬く間に刃鳴りの音と激しい怒声、耳をつんざく悲鳴が交錯し始めた。
「駄目だ、間に合わない」
リューシスは舌打ちすると、長剣でエレーナの縄目を切った。
「すまなかった、エレーナ。事情を説明する暇はないが、すぐにここから逃げろ」
「え? どういうこと……」
「ガルシャワ軍が攻めて来ているんだ。この様子だとあっと言う間に制圧されるぞ。早く逃げろ」
リューシスの真剣な表情と切羽詰ったような言い方に、エレーナはおおよその事情を理解したらしい。
呆然とした表情でいたが、すぐに青い瞳に怒りの色が走った。
「貴方の手引き……?」
「……簡単に言えばそうだ。悪かった、まさか君がここにいるなんて知らなかったんだ」
申し訳なさそうに言ったリューシスの頬を、エレーナは思いっきり右手で引っ叩いた。
その時、数人の山塞の男が転がるように駆け付けて来た。
「エレーナ様! 大変でございます。クージンのガルシャワ軍が攻めて参りました!」
一人が、悲鳴混じりに報告した。肩には矢が刺さって真っ赤な血に染まっている。
リューシスは、エレーナの両肩を掴み、真剣な顔で言った。
「裏道かなんかあるだろう? すぐにそこから逃げろ。俺は何とか時間稼ぎをして来る」
そしてリューシスは、ネイマンと共に渡り廊下から外へと出て、闇が青くなり始めて来た中、山の斜面を駆け下りた。
やがてすぐに、武装したエレーナの配下の男たち一団と、黒い軍装をしたガルシャワ兵らが激烈な戦闘を繰り広げているのが見えた。
だが、ガルシャワ兵の数の方が明らかに多く、動きも鋭い。エレーナの配下の一団が、眼前であっと言う間に壊滅した。
それを見て、リューシスらは駆けて行く方向を変えようとしたが、勢いに乗るガルシャワ兵らは目ざとくそれを見つけて、
「あそこにもいるぞ、かかれ!」
と、吼えながら殺到して来た。
リューシスは意を決して足を止め、両手を上げて喉も裂けんばかりの大声で叫んだ。
「待て! 俺はリューシ…リュースだ! リュース! ヴァレリー・チェルノフに合わせてくれ!」
すると、リューシスのことは全兵士に言い渡されていたらしく、兵士らの動きが止まり、先頭にいた組長らしき兵士が大声で答えた。
「リュースどのは貴殿か。チェルノフ将軍から聞いている。将軍はこの先にいる。行かれるがよい!」
と言って、道が空けられた。
リューシスとネイマンは全力で駆け下りて行った。すると、麓近い開けた場所に、指揮を執っているヴァレリーの姿を見つけた。
「ヴァレリー!」
リューシスは走りながら大声で叫んだ。
「おお、殿…リュースどの、ご無事でしたか、良かった」
ほっとした表情を見せるヴァレリーの前へ着くと、リューシスはまず両膝に手をついて呼吸を整えてから、
「許可が下りたのか……それにしては早かったな」
「たまたま、シーザー・ラヴァン将軍が緊急の用件で政庁にいると聞きましてな。すぐに行って話をしてみたら、そういう事情であれば許そう、と兵を出してくれたのです」
「そうか……やっぱり話のわかる男だな……わかりすぎるぐらいによ」
リューシスは皮肉そうな笑みで言った。
「だけど、何ですぐに攻めかかった?」
「ここに来るまでに会いませんでしたし、ここに着いてから斥候を出したら、山の中で何者かが揉めて戦闘が起きているようだと報告を受けましてな。これはリュースどのが危ないと思い、すぐに攻撃命令を出したのです」
「そうか……まあ、間違っていない。その判断は正しい」
リューシスは首を振った後、真剣な目で言った。
「だがヴァレリー、今すぐに攻撃を中止してもらえないか」
「えっ? 何故ですか」
「詳しい話は後だ。とりあえず、
「そうですか。しかし、私だけでは決められませんな」
ヴァレリーは、困ったような顔で左手の方を見た。
リューシスもその方を見て、眉をしかめた。
やや離れた大樹の下で、数人の護衛に囲まれた一人の騎乗の武将が、リューシスをじっと見つめていた。
「あそこにおられる、ラヴァン将軍の部下であるシュタール将軍が全体的な指揮を執る、と言うのが兵を出してもらう条件でして……」
ヴァレリーが言うと、シュタールと言うその武将は、微笑みながらこちらに馬を進めて来た。
「貴殿がリュースどのですな。私はクラース・シュタールと申します。あの時の貴殿の勇敢な行動、私は密かに感服しておりましたぞ」
クラース・シュタールは笑顔で言った。優しそうであるが、意志の強そうな引き締まった口元、光の強い鳶色の瞳、大柄で長身の体格、典型的なガルシャワ人の風貌であった。
ヴァレリーが、シュタールに言った。
「シュタール将軍、このリュースどのがすぐに攻撃を中止して欲しいと言っているのですが」
「うん? 何故だ」
「玉璽はもうここには無いと言うのです」
「何と。ベン・ハーベンはここには逃げて来なかったと言うことか?」
シュタールは顔を曇らせた。
「いや、ベン・ハーベンはいる。山塞の牢に入れられている。覇王の玉璽も、ちょっと前まではあったんだ。だけど、ついさっき盗まれたんだ」
「何? では、その盗んだ奴はどこへ?」
「わからない。だが、どっちへ行ったかわかったとしても、追いかけて捕まえられるような奴じゃない。天法士なんだ」
シュタールは頷いた。
「ふむ、詳しい話は後で聞くとして、とにかくここに玉璽は無く、その天法士に更に盗まれたと言うことですな」
「そうです」
「わかった。だが、攻撃は中止するわけにはいかん。街や民を襲ったりしていないと言っても、賊は賊だ。この山も不法に占拠している。しかも噂では塩の密売をしていると言うではないか。ラヴァン将軍からは、この機会に賊どもを一掃して来いと仰せつかっている」」
シュタールは厳しい顔となって言った。
だよな――と、リューシスは心中で舌打ちした。
エレーナのことは言うわけには行かない。言えばリューシスの正体もばれてしまうだろう。
そもそも、エレーナのことを明かしたところでどうにもならない。ガルシャワにとっては結局のところ賊であることは変わりない。
――こうなったら、何とかうまく逃げ延びてくれ。
リューシスは、激しい戦闘の音に揺れる山頂の方を見上げた。
だが、その祈りは通じなかった。
その後、わずか二時間足らずの戦闘で制圧されたホウロー山から、ベン・ハーベンの身柄と共に、数人の幹部の男たちが縛られて引き摺られて来た。
その中に、顔や法衣が汚れたエレーナの姿もあったのである。
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