第38話 バッシュ・スディ・バーバイニィ

 玉璽ユーシはジェムノーザが持ち去った。

 圧倒的な術を持つ闇の天法士ティエンファードを、今から追いかけるのはまず不可能である。


 それ故に、リューシスはとりあえずクージンに戻ることにした。

 玉璽ユーシを盗み出した犯人であるベン・ハーベンの身柄は拘束してある。結果として玉璽は取り戻せなかったが、玉璽を持ち去ったジェムノーザのことと下手人ベン・ハーベンの捕縛で、何とかイーハオを解放してくれないかシーザーに掛け合うことにした。


 リューシスらは、ガルシャワ軍と共に、クージンへと戻った。


 道中、リューシスはシュタールに聞かれぬよう、密かにヴァレリーを呼んで、小声でエレーナのことを話した。


「え? ま、誠でございますか? あの賊の頭目がフェイリンの……いや、殿下の……」


 ヴァレリーは驚いて目を丸くした。


「そうなんだよ」


 リューシスは弱ったように頭をかいた。


「それは申し訳ございませんでした、知っていれば攻撃は待ちましたものを……」

「仕方ない。俺だって思いもしなかったことだ。いや、もし知っていたとしても、あのシュタールがいるんじゃ無理だろう」

「そうですが……」

「もう過ぎてしまったことだ。それより、そういうことでな……形だけの夫婦だっとは言え、縁があった元妻だ。何とかして助けてやれないかな」


「ううむ……シーザー・ラヴァンは法や正義に厳しい男、何らかの罰は科せられるのは確実でしょう」

「命だけでも助けてやれればいいんだが」

「わかりました。降将の身である私では大した発言力もありませんが、やれるだけやってみます」

「頼む」



 そして午後、一行はクージンに帰り着いた。


 今日が期限である。

 リューシスらが帰還を報告すると、シーザーからの言伝で、政庁前の広場に来るように指示を受けた。


 広場の中央には処刑台が設けられており、そこにイーハオが座らされていた。

 処刑台の下には、数人の護衛、多くの兵士らを従えたシーザーが、木の椅子に座っていてリューシスらの到着を待っていた。

 

 周囲には多数の野次馬が集まって来ており、何が始まるのかと一様に好奇の目を中央に注ぎながらざわめいている。その中に、不安そうな顔をしているアルハオとシャオミンの姿もあった。


「リュースさん!」


 イーハオは、やって来たたリューシスの姿を見つけるなり、声を上げた。

 牢に入れられていたにしては、不思議と血色は良かった。しかし、表情にはやはり濃い恐怖と不安が現れている。


「待たせたなイーハオ、もう大丈夫だからな」


 と、優しい声をかけたリューシスに、シーザーが立ち上がって言った。


「ベン・ハーベンを捕らえたか」


 シーザーは、冑は脱いでいるが、黒い鎧を着込み、黒いマントをつけていた。その黒い軍装が、彼の金髪の美しさを引き立てていた。


「こいつが覇王の玉璽バーワン・ユーシを盗んだ犯人です。これを売り払った金で南方のザンドゥーアに逃げようとしていたらしい」


 リューシスは言って、ベン・ハーベンを引き摺ってその前に突き出した。


「大儀であった。後ほど、すぐにこの男の吟味を始めるとしよう」


 シーザーは、青白い顔で言葉も出ないベン・ハーベンを見ながら冷笑したが、リューシスらの背後にいるエレーナに気が付くと、優美な曲線を描く眉を鋭く上げた。


「その女はなんだ?」


 シュタールが進み出て答えた。


「これがホウロー山の山賊の頭目です、閣下」

「ほう、これは意外だ。女だったとはな。しかも、滅多に見ぬ美貌ではないか。金髪碧眼ジンファービーイェン……北方民族の娘か」


 シーザーは近づき、好奇に満ちた目でエレーナの顔を覗き込んだが、


「だが惜しいな。民を襲ってはいないとは言え、山賊は山賊。しかも重罪である塩の密売をしていたと言うではないか。詮議の後、見せしめとして公開斬首せねばならん」


 と、冷徹に言い放った。


 リューシスとネイマンはもちろんのこと、アルハオとシャオミンのところに行っていたチャオリーの顔が青ざめる。


「とりあえず、この者らを一旦牢へ入れておけ。後ほど詮議を始める」


 シーザーが命令した。

 数人の兵士らが寄って来て、ベン・ハーベンとエレーナらを引き摺って行った。


 エレーナは、歩かされながら、振り返ってリューシスの顔を見た。

 その青い瞳には、処刑を恐れる恐怖の色は無かった。しかし、何かを言いたげな表情をしていた。助けを求めている表情ではない。複雑な、何かを言いたそうな表情であった。


 だが、「早く歩け」と兵士らに促されて背を押された時、エレーナは違う表情となり、呟くように言葉を発した。

 それは、周囲の者は誰もよく聞き取れなかったであろう小さな声であるが、リューシスにははっきりと聞こえた。


ご武運をバッシュ・スディ・バーバイニィ


 ローヤン語であった。


 リューシスははっとして目を見開いた。


 そしてエレーナは、再び兵士らに促されて、群衆の奥の方へと歩いて行った。


 唇を引き結び、その背を見つめていたリューシスに、シーザーが歩み寄って来て言った。


「よくやったな。最初にお前を見た時から見どころがある奴と思っていたが、ここまでとは思わなかった。感心したぞ。で、覇王の玉璽バーワン・ユーシはどこだ?」


 リューシスは振り返り、シーザーを真っ直ぐに見た。


「残念だがありません」

「何?」


 シーザーの顔が険しくなった。


「どういうことだ」


 語気が鋭くなり、険悪な顔となったシーザーに、リューシスは自分のことは上手くごまかしながら、ホウロー山でのジェムノーザのことを話した。


「なるほど……闇の術を操る天法士ティエンファードか……」

「そのジェムノーザの術は、はっきり言って我らの常識を超えており、今日中に捕まえることはまず不可能です」

「ふむ……」

「しかし、そのジェムノーザが玉璽を持ち去ったことははっきりとわかっています。このことと、ベン・ハーベンを捕らえたことで、何とかイーハオの命を助けてもらえないでしょうか」


 リューシスは両膝をつき、頭を下げて言った。

 ネイマンもそれに倣い、慌てて後ろで跪いた。


「ふむ……」


 シーザーの顔は冷やかなものになっている。

 彼はそのまま考え込んでいたが、やがて口を開いて冷たく言った。


「それはならん。イーハオは斬る」


 リューシスは目を伏せ、処刑台の上のイーハオは顔を歪めた。


「ベン・ハーベンが犯人であることをつきとめ、その身柄を捕らえたのは大したものだ。そして、その天法士ティエンファード玉璽ユーシを持ち去ったと言う情報も知らせてくれた。だが、イーハオの命を助ける条件は、真犯人の捕縛の他に、玉璽の奪還、この二つだ。玉璽を持ち帰って来られれなかったのなら、その条件を達成したとは言えん」


 リューシスは立ち上がって目を剝いた。


「確かにそうです。しかし、そもそもイーハオが捕らえられたのは、玉璽を盗み出したと言う容疑でしょう。今、玉璽を盗んだのはイーハオではないと言うことがはっきりと証明されました。イーハオには何の罪もありません。処刑する必要はなく、むしろ処刑する方が筋の通らない理不尽な話です」


「確かにそうだが、俺がイーハオの命を助ける為に出したのはその二つの条件だ。それは政治であれば法であり、戦場であれば軍規である。俺は一軍団を預かる将として、自分で一度出した条件を自ら破るわけには行かない。それでは兵士や民に示しがつかん」


 シーザーが薄笑いで言うと、リューシスは眦を上げて舌打ちし、呟いた。


「無茶苦茶な理屈だ。何だよ、やっぱり話のわからない奴じゃねえか」

「うん?」

「それでよく一軍の将が務まるもんだ」


 リューシスは吐き捨てるように言うと、突然腰の長剣を外してヴァレリーの方へ投げ捨てた。

 周囲の皆が、何をするのかと息を呑んでいると、リューシスはそのまま処刑台の上に上がり、イーハオの前に座り込んだ。


「じゃあイーハオの代わりに俺を斬れ」

「えっ?」


 ヴァレリー、シュタールらがぎょっとし、ネイマンが「おい、マジかよ……」と狼狽えた。


「リュースさん……」


 イーハオは呆然として目の前のリューシスの背中を見つめた。


「貴様、正気か?」


 シーザーは睨むようにリューシスを見た。


「もちろんだ。覚悟はできている。イーハオの代わりに俺を斬れ。ああ、あとそうだ、俺は大人でイーハオは子供だ。だからもう一人分おまけしてくれないか。さっき捕まったホウロー山の頭目の女、あの女の命も助けてやってくれ」

「何? 何故あの賊を? 何の関係がある」

「別に……美女が斬られるのは世の男全員にとって大きな損失だからな」

「ふむ……」


 シーザーは鋭い目でじろじろとリューシスを見ると、つかつかと歩いて、処刑台の上に上がった。

 控えていた処刑役の男を下がらせ、自らの長剣を抜くと、リューシスの首にぴたりと刃を当てた。


「では望み通りにしてやろう。だが本当にいいのだな?」

「もちろんだ。俺一人の命で、イーハオとあの女の命を救えるなら、それだけでも俺が生まれて来た価値があったと言うものだ」


 その言葉に、シーザーの緑の瞳が妖しく光った。


「貴様、不思議なことを言うな」

「そうか?」


 と答えたリューシスは、これから斬られようとしているのに平然と笑みを浮かべていた。

 シーザーは、その横顔を意味深に見つめた後、


「では斬る」


 と、シーザーは長剣を振りかぶった。


 リューシスは目を閉じて歯を食い縛った。

 後ろのイーハオ、ネイマン、ヴァレリー、周囲の群衆らが息を飲んだ。


 だが、シーザーは振り上げた長剣をリューシスの頭上には下ろさなかった。

 向きを変え、後ろにいるイーハオの縄をぷつりと切ったのである。


 振り返ったリューシスに、シーザーがにやりと笑いながら言った。


「見事だリュース。お前のその度胸と覚悟に免じて、イーハオの命は助けてやる。ついでに、褒美もとらそう」


 リューシスは立ち上がり、シーザーの秀麗な顔を見た。


「よろしいのですか」

「ああ、もちろんだ。元々イーハオには罪はないんだからな」


 シーザーはにやりとした。

 その顔を見て、リューシスははっと気付いた。


「え? ああ、そうか……これは意地が悪い、将軍は私を試しましたな?」


 リューシスもにやりと笑った。

 だが、シーザーは涼しげな顔でとぼけたような笑みを見せ、


「はは……何を言っているのかな? しかし、お前は実に見どころがある。商人にしておくのは惜しい。どうだ? ガルシャワ軍に入らぬか? できれば私の部下として取り立てたい」


 それを聞くと、リューシスは苦笑した。


「いや、それは……申し訳ございません、私は自由な身を好んでおり、とても宮仕えは務まりませんので……はは……」

「ふむ、そうか。まあいいだろう。だが、気が変わったらいつでも私のところに来てくれ、喜んで迎えるぞ。」

「はっ……」


 リューシスは大袈裟なぐらいに頭を下げた。

 何だかおかしな展開に、リューシスは笑い出しそうになるのを必死に堪えているのである。


「では早くイーハオを連れて帰るがよい」


 と言って、シーザーは黒い戦袍マントを翻して処刑台から飛び下りたが、思い出したようにリューシスを振り返って言った。


「ああ、そうそう。だがあの山賊の女のことは別の話だからな。あの女は助けるわけにはいかん」


 そして、シーザーは歩いて護衛たちのところに戻った。


 周囲の群衆の間から、安堵の溜息と歓声が上がった。

 アルハオとシャオミンが飛び出して来て、チャオリーも嬉しそうに駆け寄って来た。


「やったな、おい! 良かったぜ!」


 ネイマンが跳ねるように処刑台の上に上がった。

 

「あ、ああ……」


 リューシスの顔は引きつっていた。ネイマンに不自然な笑みで答えると、イーハオを見た。


「良かったな。大丈夫だったか?」

「う、うん……」


 イーハオは頷くと、その顔が急に歪み始め、たちまちに両目から涙が溢れて号泣した。


「安心したのか。うん、もう大丈夫だ。お前は無実だ。大丈夫だ」


 リューシスはイーハオの肩を抱き、叩いた。


「あ、ありがとう、リュースさん……」


 イーハオは顔をぐしゃぐしゃにして、リューシスの腕の中で泣いていた。

 その小さな身体を、リューシスはずっと撫でていた。

 だが、イーハオが、ふと自ら身体を放して怪訝そうにリューシスを見た。


「あれ? 震えてるの?」


 ネイマンもそれに気付いた。


「うん? 本当だ。どうしたんだお前」


 すると、力が抜けたように座り込んだリューシス、その膝が微かに震えていた。


「あ、ああ……さっきは俺を斬れ、なんて啖呵を切ったけどな。実際に斬られるのかと思うとやっぱり恐ろしくてな……今思い出しても恐ろしいぜ」


 リューシスは引きつった苦笑いで言った。

 ネイマンが呆れ顔になった。


「なんだおめえ、あんな威勢のいいこと言って実はびびってたのかよ」

「当たり前だろ、斬られて死ぬなんて恐いだろうが。見ろ、まだ歯も震えてる」


 リューシスが手で口を指した。

 それを見て、ネイマンや駆け寄って来たチャオリー、シャオミン、アルハオらが笑い、イーハオも涙目のままおかしそうに笑った。

 リューシスは、そんなイーハオの顔を見ながらぎこちなく微笑んだ後、イーハオの頭を優しく撫でた。


「大人の俺がこんなに恐かったんだ。子供のお前は、この三日間恐くてたまらなかったよな?」

「え……うん……」

「よく耐えたな。よく頑張ったイーハオ。きっと天国のディエンとうちゃんも喜んでるぞ」


 リューシスは、イーハオの乾いた髪を撫でた。

 イーハオは再び号泣した。


 落ち着くと、リューシスとネイマン、イーハオは処刑台から下りた。

 野次馬の群衆らも、口々に何か言いながら散って行った。


 ヴァレリーが、リューシスが投げ捨てた長剣を拾い、リューシスに歩み寄って来て差し出した。


「ご苦労……であった」

「ああ、ほっとした」


 そのまま、リューシスらはその場でしばし談笑をした。

 時折、笑いが混じり、一際声の大きいネイマンの笑い声が響いた。


 その様子を、去りかけていたシーザーは、立ち止まって見ていた。

 口元は緩み、かすかに笑みを浮かべていた。


 だが、突然その目がはっと見開いた。

 視線は、リューシスが左手に握っている長剣の柄に注がれていた。

 その柄に刻まれているのはローヤン帝国の紋章、ローヤン双龍紋である。


 次に、シーザーはリューシスの赤毛混じりの褐色の頭髪を凝視した。

 その緑色の瞳が、急速に温度を下げて行った。

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