第36話 二人の皇子

「さっきも、天法術ティエンファーで声を変えたとか言ってたけど、この四年間で天法術ティエンファーの修行までしてたのか」


 リューシスが訊くと、エレーナはリューシスを睨んで答えた。


「昔から使えたわ。見せる必要もないから貴方には言わなかっただけで」

「そうか、女は恐いな……まあいい。悪いが来てもらうぞ」


 リューシスはそのまま、先程自分が焼き落とした縄を使ってエレーナの両手を縛ると、短剣を首筋に突きつけながら、エレーナを連れて元の広間に戻った。


 その二人の姿を見て、広間にいたエレーナの部下達がざわめき、ネイマン、アーシンらが驚きの声を上げた。


「おい、どういうことだ……」

「はは、まあざっとこんなもんだ」


 リューシスはにやりと笑うと、狼狽しているエレーナの部下達に言った。


「俺の仲間たちの縄を解け。それと、武器を返せ」


 エレーナの部下達は、どう答えていいかわからず、短剣を突きつけられているエレーナを見た。


「言う通りにして」


 エレーナは冷静な声で言った。

 ネイマン、アーシンらの縄が解かれ、取り上げていた武器も返された。

 リューシスは頷くと、


「よし、じゃあ次は覇王の玉璽バーワン・ユーシを持って来てくれ」


 と、鋭い声で言った。


「それは……」


 エレーナの部下達は再び顔色を変えた。


 だが、エレーナはまた落ち着いた声で指示をした。


「ここは言う通りにするしかないわ。シャンカイ、私の部屋からあれを持って来て」


 すると、シャンカイと呼ばれた壮年のハンウェイ人男性が広間から出て行った。

 やがてすぐに、二十セーツ四方ほどの木箱を持って戻って来た。


「それか」

「ええ」


 エレーナは頷いた。

 リューシスは、短剣をネイマンに渡してエレーナの牽制を交代すると、木箱を受け取った。


「開けるぞ」


 リューシスが言うと、アーシンらが寄って来て覗き込んだ。

 リューシスは上蓋を開けた。

 中に、紫の紐がついた、夜の薄闇でも眩いばかりに輝く黄金の印章が姿を現した。


 ネイマン、チャオリー、アーシンらが息を吞んだ。その黄金の輝きの美しさに思わず圧倒された。

 だが、リューシスだけは特に表情も変えなかった。

 無言でその玉璽を持ち上げると、静かな口調で言った。


「これが覇王の玉璽バーワン・ユーシか」

「ええ」


 エレーナは不機嫌そうに、横を向いたまま答えた。


「すげえな。驚いたぜ」

「流石は伝国の玉璽。聞きしに勝る美しさよ」


 ネイマンや、アーシンの部下達が溜息をついた。


 だが、リューシスはやはり無表情に玉璽を見つめていた。

 アーシンもまた、無言でリューシスの手の中にある玉璽を見つめていた。だが、その目は不気味な鋭い光を放っていた。


 リューシスはエレーナを見て言った。


「じゃあエレーナ、悪いがこの玉璽ユーシはもらうぞ。ベン・ハーベンの身柄もな。まとめてシーザーに引き渡す」

「……勝手にしたら」


 エレーナは不貞腐れたように言い捨てた。


「ふふ……よし」


 リューシスは笑うと、玉璽ユーシを木箱に戻し、上蓋を閉めた。

 だがそこへ、鋭い声が空気を裂いた。


「待ちな、リューシスどの」


 その声の主は、アーシンであった。

 同時に、アーシンは素早く剣を抜いてリューシスに突きつけていた。

 いつの間にか、アーシンの部下らも剣を抜き、リューシスを囲むようにして切先を向けていた。


覇王の玉璽バーワン・ユーシはこちらに渡してもらおう」


 アーシンはにやりと笑った。


 驚いたネイマン、瞬時に激昂して声を荒げた。


「て、てめえ、どういうつもりだ!」


 ネイマンはエレーナから短剣を離しかけたが、リューシスが鋭い声で制した。


「エレーナから剣を離すな!」


 ネイマンは慌てて短剣の切先をエレーナの首筋に戻した。しかし、その大きな目は憤怒の殺気をアーシンに向けている。

 リューシスは、ゆっくりとアーシンの顔に視線を戻した。


「ようやく本性を現したか」

「ほお、流石だな。俺の狙いに気付いていたってわけか」

「気付かない馬鹿がいるか。これが狙いじゃなかったら、何故お前にとって一銭の得にもならない、こんなことに協力するんだ」

「ふふ」


 アーシンは剣の切っ先をリューシスに突きつけたまま、悠然と笑った。

 しかしリューシスは落ち着いていた。


「……何故この玉璽を狙う?」

「リューシスどのにしてはつまらない質問だ。覇王の玉璽バーワン・ユーシを望む理由と言えば、一つしかないだろう。この天下の覇権だ」

「…………」

「だが、俺の場合はそれだけではない。その玉璽ユーシは、元々は我ら一族が持っていたもの。取り返すのは我々の悲願でな」

「何……?」


 リューシスはその言葉を訝しんで眉をしかめた。だがその瞬間、電撃的に閃いたものがある。


「そうか、お前はビルサ帝国の末裔か……」


 リューシスは目を見開いてアーシンの精悍な顔を見た。

 アーシンは細く鋭い目をにやりとさせた。


「その通り。俺の名はアーシン・トゥオーバー。ビルサ最後の皇帝、グイ・トゥオーバーの直系子孫だ」


 アーシンが明らかにした正体に、チャオリーや縛られているエレーナも驚いた。


「トゥオーバー家の……?」


 ビルサ帝国とは、今のおよそ約五百五十年続く大乱世の途中、一時的にこの大陸全土を征服して統一した王朝であり、そのビルサ帝国を建国したのが、トゥオーバー家を族長とするトゥオーバー族である。


 しかし、トゥオーバー族のビルサ朝の統治体制は未熟で、非常に不安定であった為、わずか十年余りで崩壊し、全土は再び大分裂時代に逆戻りして、今に至っている。

 当時、覇王の玉璽バーワン・ユーシはビルサ帝国の皇帝が代々所有していたのだが、そのビルサ朝滅亡の混乱の中で紛失され、行方が知れなくなったとされている。


「なるほど、お前たちはトゥオーバー族か。道理でそこまで桁外れに強いわけだ」


 リューシスが納得したように言った。

 と言うのも、トゥオーバー族と言うのはハンウェイ人系の少数民族であるが、皆、個人的戦闘力が多民族に比べて図抜けていることで有名であった。

 生まれ持った身体能力の強さだけでなく、剣術、弓術、馬術など、戦闘における全ての能力において天性の恵まれたものがあるのである。


「まあな……さて、わかったなら、その玉璽はいただこうか」


 アーシンは不敵な薄笑いで、剣を握っていない左手を突き出した。


「そうは行くか。これがなければイーハオの命は救えない」

「そんなのは俺の知ったことか。あのガキがどうなろうと、俺には知ったことではない。力ずくでも渡してもらうぞ。この状況がわからないか?」


 アーシンは笑った。リューシスは今、アーシンとその部下四人、合計五本の剣の切っ先に囲まれている。


 ネイマンが咆えるように怒鳴った。


「待てよ、この喧嘩馬鹿。じゃあここで俺ともう一度勝負しようじゃねえか!」

「お前と決着をつけたい気持ちはある。だが、それとは別の話でな」


 アーシンは涼しい顔で笑い流すと、リューシスを見た。


「さあ、こちらに渡すんだ、リューシスどの、俺は個人的にはあんたが気にいっているので、玉璽を渡してくれれば命までは奪わん」

「…………」

「おとなしく渡さないなら死ぬだけだぞ。いいのか? こんなところで無駄死にして」

「俺は別に命など惜しくない。いつ死んでも悔いなどない」


 リューシスが言った。その瞳に、また虚ろな色が漂った。


「何?」

「だが、まあいいだろう。この状況では仕方ない、玉璽は渡そう」

「おい、リューシス。いいのかよ」


 ネイマンが狼狽えたように言った。

 だが、リューシスは諦めたように溜息をついた。


「仕方ない。俺自身が死ぬのは構わないが、ここで俺が死んでしまえば、もうどうやってもイーハオは救うことはできなくなる」

「ははは、その通りだ。流石はリューシスどの、よくわかっている」


 そして、リューシスは木箱ごと玉璽を渡した。

 アーシンは受け取ると、満足そうににんまりと笑った。


「悪いな」


 そしてアーシンは、部下達と共に広間から出て行こうと歩き始めたが、思い出したように振り返って言った。


「リューシスどの、あんたを気に行ったと言うのは本当だ。あんたには不思議な魅力がある。俺が違う立場だったら、俺は間違いなくあんたの仲間か、その部下になっていただろう。残念だ」


 そして、アーシンは仲間たちと共に山塞から去って行った。


 アーシンらが姿を消した広間は、しんと静まり返っていたが、やがてネイマンが腹を立ててリューシスに怒鳴った。


「おいリューシス! いくらなんでも、何もせずにみすみす見逃すことはなかったんじゃないのか? 俺とおめえでかかれば十分にやり合えただろ」

「まあな。やれないことはない。俺はあいつの狙いに感付いていたので、ああいう時の為の策も少し考えてあった」


 リューシスは静かに言った。


「え? じゃあ何で……」

「策もあり、お前もいるにしても、確実に勝てると言う見込みまではなかった。エレーナの牽制もしてないと行けないしな」

「だからってよ……どうするんだよ、玉璽持って帰らないとイーハオは救えねえんだぞ」


 ネイマンは不満を露わにする。

 縛られたままのエレーナも横から言った。


「そうよ。折角貴方に渡したのに、もったいないことをしたものね」


 すると、リューシスはエレーナを見て大笑いをした。


「ははは、エレーナ、君がそれを言うか」

「え?」

「四年近く会わない間に、本当に食えない女になったもんだな」

「な、何よ」


 エレーナが狼狽の表情を見せた。


「何もせずにアーシンにあの玉璽を渡したのは他に大きな理由がある」

「…………」

「あの玉璽が偽物だからだ。そうだろ、エレーナ?」


 リューシスはにやりと笑った。

 エレーナの表情が固まった。


「に、偽物?」


 ネイマンが大きな目を丸くした。チャオリーも驚く。


「黄金でできていれば、さもそれらしく凄いものに見えるけどな。玉璽が黄金でできているわけねえだろ」


 リューシスが言うと、チャオリーが「ああっ、そうか」と手を叩いた。

 しかし、ネイマンは解せない顔である。そんなネイマンに、リューシスが言った。


玉璽ユーシユーと言う単語、遥か昔に古語になってしまって普段は使わないが、元々は古代ハンウェイ語で何の意味だ? 玉とは、翡翠フェイツイのことだろう。じゃあ玉璽ユーシ翡翠フェイツイでできているに決まってる」

「ああ……」

「あのアーシンも、やっぱりお前と同類の男だ。トゥオーバー家の人間の癖に、そこまで気付かないんだからな」

「ははは、そうだな。あの野郎も大間抜けだぜ……ってどういう意味だよ、おい」


 ネイマンが怒った顔になったが、リューシスは無視してエレーナに言った。


「さあエレーナ、本物の玉璽を出してくれ」


 エレーナは観念した顔で大きな溜息をついた。


「仕方ないわね……シャンカイ、本物の玉璽を持って来て」


 エレーナが、指示を出した。


「姫様、よろしいのですか?」


 シャンカイは躊躇っていたが、エレーナは「こうなった以上仕方ないわ」と、再度促した。


「悪いな、エレーナ。イーハオの命を助けたら、何かしら策を練ってまた玉璽を取り返して来てやるからな」


 リューシスが言うと、エレーナは「えっ?」と、目を瞠ってリューシスを見た。


 シャンカイが、玉璽を保管していると言う地下の一室へ走って行った。

 だが、すぐに数人の鋭い悲鳴が響き渡り、シャンカイの「だ、誰か!」と叫ぶ声が聞こえた。


「何だ?」


 リューシスらは、何か異変が起きたことを察知し、すぐに広間を出て走った。

 すると、地下室へ通じる渡り廊下に、山塞の男たち数人が血を流して倒れており、その先の地下室の入り口前にも見張りの男二人が絶命していた。シャンカイも、そこで腹から血を流して呻いていた。


「シャンカイ! どういうこと……?」


 エレーナが驚きながら悲鳴を上げた。


「これは……」


 リューシスも辺りを見回した。

 瞬間、背筋にぞくりと寒気を覚え、ただならぬ不気味な気を感じ取った。


 ――この気は……向うか?


 リューシスは、渡り廊下の先の地下室の入り口を睨んだ。

 すると、開け放たれた鉄扉の奥の闇から、一つの黒い人影がゆっくりと現れた。

 それを見て、リューシスは愕然として顔色を変えた。


「ジェムノーザ……!」


 現れたのは、隻眼だけを覆面の隙間から覗かせている全身黒衣の男……闇の天法士ティエンファードジェムノーザであった。

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