第17話 アンラード脱出戦

「どこへ行く?」


 ジェムノーザは、黒布の隙間から氷のような眼光を向けて来た。


「この状況でそれを聞くのは少し間抜けじゃねえか?」


 リューシスは薄笑いで答える。


「そうだな」


 ジェムノーザがにやりと笑った。

 瞬間、リューシスは、声も発さずにいきなりジェムノーザに斬りかかった。

 ジェムノーザも、声も出さずに後方に飛び、それを避けた。同時に、右手を突き出した。一瞬の天精のタメだけで、右手に黒い気の塊が集まり、それがリューシス目がけて飛んだ。


 リューシスは左に飛んでそれを避けた。

 同時に、天を見上げた。淡く青い空には、朝日の輝きがある。


 ――晴れた朝だ。闇の天法術なら、明るい場所では使えないのが道理じゃないのか?


 その心中の疑問を読み取ったのか、ジェムノーザが答えた。


「闇の術は、一般の天法術とは違う」


 そして両手を伸ばすと、雨雲のような黒い気の塊が唸りを発しながら生じ、見る間にどんどん巨大になって行った。


「飲み込んでくれよう」


 ジェムノーザは両手を前に突き出した。二つの巨大な黒い気の塊が、射放されながら宙で一つになり、更に巨大な塊となってリューシスを襲った。


 リューシスは再び右に飛んでそれを避けた。だが、黒い気の塊は、飛んで行った先で旋回し、再びリューシス目がけて飛んで来た。


 リューシスは剣を鞘に納め、両手を胸の前で組んで印を結んだ。

 雷気が集まり、やがてそれは大きな金色の光となった。リューシスは印の形のまま、両手を突き出した。金色の光は尾を引きながら、襲い来る黒い気の塊に飛んで行った。

 空中で、黒と金の気の塊がぶつかり合った。二つの気の塊は、唸りを発しながらもつれ合っていたが、やがてどちらも共に霧消してしまった。


 ジェムノーザの目が、驚いた色を見せた。


「舐めるなよ」


 リューシスはにやりと笑うと、ジェムノーザに向き直り、右手で剣を抜き、左手で天法術の構えを取った。

 左手に再び天精ティエンジンを集中させる。


「それほど強い術を使えるとは驚いた。まあ、俺がこれほどのものだから、当然とは言えるが……」

「何?」


 リューシスの眉が動く。

 ジェムノーザは今、不思議なことを口にした。


「まあいい。貴様こそ舐めるなよ。俺は他にもあらゆる天法術ティエンファー を使える。そして、闇の術ヘーアンティエンファーはまだまだこんなものではない」


 ジェムノーザは不敵に笑うと、伸ばした右手に再び黒い気を出現させた。そして左手を伸ばすと、その掌には蒸気が発生し、煙を上げながら冷たい氷の刃が生成された。


 ――同時に二つを……しかも氷まで操るのか。


 リューシスは戦慄した。


 ――どうすればいい?


 だがその時、ジェムノーザの目が笑った。同時に、彼は両手を下した。闇の気も、氷も消えていた。

 そして、ひらりと舞い上がったかと思うと、黒装束の影は壁の上に立っていた。


 リューシスは唖然とした。皇宮や内城、外城の城壁のような高さは無いが、それでもこの壁は五メイリもの高さがある。それをいともたやすく飛び上がって見せたのだ。


「貴様……それは天法術ティエンファーか? しかし飛ぶ術なんて見たことも聞いたこともないぞ、どうなってやがる」


 しかし、次のジェムノーザの言葉で、更に驚いた。


「さあ逃げろよ」

「何?」

「見逃してやる」

「何だと?」


 どういうことだ。何か策があるのか? リューシスは戸惑い、素早く思考を巡らせた。


「策などない。とっとと逃げろ。俺は気付いたのだ。リューシスパール、貴様がこれほどの器を持っているならば、貴様がここから逃げる方が面白い。そしてその方が、俺の目的を達成できるとな」


 ジェムノーザは低い声で笑った。


「さあ、とっとと行けよ」


 だが、リューシスは頭上のジェムノーザをじっと見つめると、やがて睨むような目つきになり、聞いた。


「ジェムノーザと言ったな。一旦は憎悪に満ちた目で俺を殺そうとしたくせに、何故ここで俺を見逃そうとする? お前の目的とは何だ?」

「…………」


 ジェムノーザは答えずに、リューシスを見下ろしていた。


「そもそも、お前は一体何者だ? どうもお前は俺をよく知っているらしいが……俺もお前を知っているような気がする。お前は一体誰なんだ?」


 すると、ジェムノーザは高く笑った。


「はっはっはっ……どうでもいいことだが、一つだけは教えてやろう。その通りさ。俺はお前をよく知っており、お前もまた俺をよく知っている。ずっと昔からな」

「……どういうことだ?」

「俺はお前だ」

「何っ?」


 リューシスが目を瞠った。


「お前は……俺? どういう意味だ、それは?」


 しかし、ジェムノーザはそれには答えず、隻眼をにやりとさせた。


「ふふ……ここからお前が見事に逃げ出し、生き延びれば、いずれわかる日が来る。それまで、精々頑張れ」


 ジェムノーザが言った次の瞬間、黒衣の裾が翻ったかと思うと、その姿はもう消えていた。


「消えた……」


 ジェムノーザの不可解な行動と言葉。何が何だかさっぱりわからない。リューシスは尚も戸惑っていたが、駆け付けて来たバーレンとネイマンに背を叩かれた。


「何をしておられますか。早く逃げましょう」

「あ? ああ」


 リューシスが振り返ると、衛兵らが全員、血の海の中に倒れていた。

 長い付き合いだが、改めて二人の豪勇に驚きを禁じ得なかった。


「お前ら頼もしいぜ」


 リューシスはにやりと笑うと、バーレンとネイマンと共に、門を潜って外に向かって走った。


 門の外、内城区域は騒然としていた。

 群衆は悲鳴とも歓声ともわからぬような興奮した声を上げながら、それぞれの方向へと走っていた。


「リューシス殿下が逃げたぞ!」

「どうなってしまうんじゃ」

「軍が動くだろう、巻き込まれないうちに帰るんだ」


 そして、まだ青みの浅い空に、鐘をけたたましく鳴らす音と、角笛を長く吹き鳴らす音が響き渡った。

 マクシムと、七龍将の一人、ダルコ・カザンキナが、リューシスを追うべく夜勤の兵士らを招集しているのだ。


 急がねばならなかった。


「とりあえず急いでアンラードから脱出するんだ」


 リューシス、バーレン、ネイマンの三人は、内城の重臣たちの邸宅が立ち並ぶ地区を走った。


 バーレンとネイマンの耳の奥に、衛兵の甲冑を着る時にビーウェンが言った言葉がよみがえった。


「お前たちがうまく殿下を助けられたら、アンラードの警備長をも兼任している私は、内城の城門を閉じて殿下をそれ以上逃がさぬようにと命じられるだろう。しかし私は、手違いをした振りをして、わざと西門を開けておく。お前たちは真っ直ぐに西門を目指せ」


 バーレンがリューシスの背に叫んだ。


「殿下、西門に向かいましょう!」

「何で西門だ?」

「ビーウェン殿の指示です。手違いのふりをしてわざと開けておく、とのこと」

「ビーウェン? ああ、なるほど。そうか、そういうことだったのか」


 リューシスは、バーレンとネイマンが何故衛兵の格好をしてあの場にいたのか、まだ聞いていない。

 だが、その言葉でリューシスはおおよその事情を理解した。


「あの頑固親父め、やるじゃねえか。よし、西門だ」


 三人はまっすぐに西門へ走った。


 しかし、何とその西門は閉じられていた。

 それどころか、赤い煉瓦の城壁の間に無情に閉まる黒い鉄門の前には、十数人ほどの武装した兵士らが待ち受けていた。

 その先頭には、七龍将の一人、ダルコ・カザンキナが立っていた。


「何で西門が閉じてやがるんだ」


 ネイマンが苛立たしげに叫んだ。


「うん? 何で西門が開いていたことを知っているのかな? ハンウェイ人たちよ」


 ダルコが見透かすようなにやにやとした薄笑いを浮かべた。

 リューシスが舌打ちし、前後左右を素早く見回した。


 ――この状況でこいつらから逃げるのは難しいな。


「兵を集めながら各城門に配置していたら、西門が閉じられていないのを見つけてな。俺が閉めさせたのだ」


 ダルコは笑いながら言うと、


「殿下、どこへ行きなされる。首はまだ落ちておりませんぞ、お戻りくだされ。もし面倒であれば、私が落として差し上げましょうか」


 と、腰に提げている長剣を鞘走らせた。


「ダルコ殿、悪いが殿下の首を渡すわけには行かない。代わりに私があなたの首をいただこう」


 バーレンは涼やかな目で鋭く睨むと、剣を抜いて構えた。


「いいねえ、一度七龍将とやらがどれほどのものなのかを見てみたかったぜ」


 ネイマンは豪快に笑うと、同様に大剣を抜き放って構えた。


「これだけの人数を相手にか? 先程の衛兵どもとは違うぞ。我が配下の者どもは、ローヤン軍の中でも選りすぐりの精鋭たちだ。舐めるなよ、薄汚いハンウェイ人のチンピラども」


 ダルコは侮蔑するような目で冷笑すると、「かかれっ」と命じた。

 部下達が一斉にリューシスら三人に襲いかかった。


「貴様らこそ舐めるなよ」


 バーレンは言うが早いか、長身からは想像もつかぬ素早さで突進した。

 ネイマンは暴風の如き勢いで大剣を振りかぶって行った。

 城門の前で、たちまち凄まじい大乱戦となった。


 ダルコ配下の兵士たちは十五人。数の面でも圧倒的に不利であるだけでなく、その実力も流石にダルコが言うだけあって粒揃いの精鋭たちであった。


 しかし、バーレンとネイマンはやはり流石であった。そんな精鋭たち十五人を同時に相手にしても一歩も引かない。

 敵が刃を並べて斬りかかって来るのを、バーレンは剣を鋭く唸らせてまとめて打ち払い、四方から囲んで襲おうとする敵兵たちを、ネイマンは大剣を槍の如く振り回して吹き飛ばす。


 剣花が青く激しく弾け飛び、空気が焦げるように燃え上がる中、バーレンとネイマンは檻から放たれた虎の如くに凄まじい豪勇を発揮、やがて一人、また一人と斬り倒して行った。


 そしてリューシスは、その乱刃の渦から、ダルコの前に飛び出した。ダルコもまた、リューシスに向かって来た。


「予想外なことになりましたが、これはまたとない機会ですな。一度、皇族の方を斬ってみたかったのですよ」


 ダルコはにやにやしながら剣をぶんっと一振りして構えた。彼は、七龍将の中でも一、二を争う剣の名手である。


「変態野郎め。てめえこそ不敬罪で処刑してやる」


 リューシスもまた、睨みながら長剣を構える。


 第一皇子リューシスと七龍将ダルコ、突然の一騎打ちが始まった。

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