第13話 闇の男ジェムノーザ

 だが、リューシスは全身を責めつける激しい痛みよりも、それを忘れるほどに驚愕していた。


(この男、天精ティエンジンを溜めもせずに天法術ティエンファーを使いやがった。どういうことだ)


 通常、天法術ティエンファーを使うには、天精ティエンジンと呼ばれる気の一種を溜めることが必要になる。

 天法術ティエンファーを専門とする天法士ティエンファードでもそれは必ず必要であるが、術が上達すればするほど、短時間で天精ティエンジンを溜めることが可能になる。だが、どんなに熟練の天法術士でも、最短でも二、三秒はかかる。


 ところが、このジェムノーザはほとんど溜めの時間も無く、瞬時に術を放っている。

 このような天法術士ティエンファードは、これまで見た事も聞いた事もなかった。

 そして、それだけではなかった。


 ――初めて見た。これが闇の天法術ヘーアンティエンファーか。


 闇の天法術ヘーアンティエンファー

 リューシスの光の天法術とは対称と言えるが、全ての天法術の中でも最上級に難しく、また習得すれば心が狂うと言われている為、天法術を専門に使う天法士でも習得している者がおらず、その存在は伝説とされていた。


 ――まさか実在していたとは……。


 リューシスは呼吸を整えながらジェムノーザを睨むと、剣を握り直した。


 じりじりと間合いを詰め、低く跳躍して斬りかかった。だが、その時、左手は放していた。リューシスは右手一本で剣を振り下ろした。

 剣はまたも虚空を斬った。

 ジェムノーザはリューシスの後方に移動していた。

 リューシスはそれを読んでいた。瞬時に振り返ると、放していた左の掌を突き出した。そこには、すでに雷気を纏った光の塊ができていた。


 だがジェムノーザは冷笑した。


「無駄だ。燭の灯りがあるとは言え、外のように月光も無いのだ」


 その通りであった。リューシスの生成した光砲は手鞠ほどの大きさしかなかった。


 ――やってみなければわかんねえだろうが!


 それでもリューシスは左手を振って放った。光の玉は小さいものの、勢い凄まじく飛んで行った。

 だが、ジェムノーザが面倒くさそうに右の掌を開いて突き出すと、その中に光砲は吸い込まれて消失した。


 ――掌に吸い込んだ?


 リューシスは唖然とした。


「化け物が……!」


 リューシスは吐き捨てるように言うと、剣を正面に構えた。

 ジェムノーザは再び冷笑すると、両手を真横に伸ばした。そして人差し指を立ててから、前にくいっと突き出した。

 細長い暗黒の気が生じたかと思うと、鞭のようにしなりながら伸び、さっとリューシスの身体に絡みついた。


「あ……」


 リューシスは驚いた。暗黒の気が絡みついた身体が、全く動かないのである。まるで、縄で縛られたようであった。

 続いて、ジェムノーザは胸の前で印を組んで天精ティエンジンを溜めた。初めて見せる、天精ティエンジンを溜める動きである。

 すると、ジェムノーザの胸の前に、不気味な音を立てながら特大の暗黒気が発生した。


 ジェムノーザは隻眼をにやりとさせると、印を組んだ両手を突き出した。

 雨雲のような暗黒気がリューシスに飛ぶ。

 だが、リューシスの身体は絡め取られて動かない。

 暗黒気が激突し、リューシスが吹き飛ばされた。

 リューシスは十メイリ以上も吹っ飛び、石の壁に激突し、背中を強烈に打った上で、床に落ちた。

 少し遅れて、剣が床に転がる音が響く。


「うっ……」


 背中から全身に駆ける激しい痛みに、リューシスは動くことができなかった。

 意識が薄れかかって目の光が虚ろになり、口の端から血を零しながら苦痛に呻いた。

 服もボロボロになり、あちこちから血が赤く滲み、頬からも血が流れていた。

 一目で戦闘不能になったことがわかる。


 その様を見て、ジェムノーザはマクシムに言った。


「さて、どうすればいいのかな? このまま殺してもいいのか? 俺としてはすぐに殺したいのだがな」


 ジェムノーザが布の隙間からリューシスを見る左目には、激しく暗い憎悪の念が燃えていた。

 マクシムは、ジェムノーザが今見せた一連の術の凄まじさに圧倒され、驚いて言葉を失っていたが、我に返って慌てた。


「ま、待て、まだ殺すな。俺としてもそうしたいところだが、まだほとんどの人間が事情を知らぬうちにここで俺が殺しては、俺が理由も無く私情で殺したと世間は思ってしまうだろう。夜明けと共にミンダーオ広場に市民らと兵士らを集め、殿下の罪を公表した上で、正式に公開処刑するのだ」


 そして、部下達にリューシスを縛り上げて宰相宮内の一室に閉じ込めるように命じた。

 元々身体を絡め取られて動きを奪われている上、今のジェムノーザの攻撃で完全に動けなくなったリューシスは、抵抗することもできずに太縄で縛り上げられた。

 その様子を酷薄な笑みで眺めるジェムノーザを、リューシスは虚ろな瞳で見ていた。


(この男……知っているような気がする。どこかで会ったことがあるような……)


 しかし、記憶の底をいくらくまなく探っても、この黒ずくめの男が誰なのかは思い出せなかった。




 一方、バーレンとネイマンの二人は、シャオミンと共に宮城内に潜入していた。

 ここに来るまで、内城の城門は多額の賄賂を使って通り、宮城の城門はシャオミンが門番の目を逸らさせた隙に素早く襲いかかり、声も発させずに叩き伏せて気絶させ、通り抜けた。


「何か慌ただしくねえか? さっきは鐘の音も聞こえてたし」


 武器庫の陰に隠れ、辺りの様子を伺いながらネイマンが言う。

 少し離れたところを、四、五人の兵士が慌ただしく走って行った。


「ローヤンの皇子である殿下が牢に入れられたのだ。いつもとは違うだろう」


 バーレンは冷静に答えた。

 この時、リューシスはすでにマクシムの手に捕らえられていたのだが、二人とも当然そのことは知らない。


「とにかく、このままだと明日には殿下は斬首だ。急ぎ助け出そう」


 二人と一匹は物陰に隠れ、近くを通りかかった兵士二人に声もなく襲いかかり、気絶させると、甲冑を奪い取って着込み、衛兵に変装した。


 バーレンと、ネイマン、タイプこそ違うが、共に長身の大男である。奪った甲冑はやや小さく、窮屈であったが、この際多少の不自由はどうでもいい。変装し、リューシスが放り込まれている地下牢に行くことが目的なのだ。


 二人は、周囲に警戒しながら、宮城内に詳しいシャオミンの手引きで地下牢に向かった。

 地下牢に続く階段の入り口には警備の兵が一人もいなかった。リューシスはすでに脱走しているので当然なのであるが、二人は、この辺で武器を取って戦うことを想定していたので、少し拍子抜けした。


 そのまま階段を下りて行く。

 地下深く何段も降りて行き、最下部に着いた。

 廊下はわずかな灯火の火しかなく、暗くひんやりとしている。

 ここには流石に見張りの兵がいるはず、と、二人と一匹は静かにゆっくりと歩いて行った。だが、誰にも出くわすことなく牢の前に辿り着いてしまった。


「誰もいねえんだな」

「ああ、不思議だな。しかし見張りの兵がいないんじゃ鍵は奪えない。困ったな」

「まあいいさ。リューシス、いるか?」


 ネイマンは暗い牢の中を覗き込んで声をかけた。


「殿下、おられますか?」

「助けに来たよ」


 バーレンとシャオミンも声をかける。

 しかし、返答はない。気配もない。二人と一匹は目を凝らし、鉄格子の向こうの薄闇の中をよく見た。


「おい、いねえぞ」


 ネイマンが驚いた。


「どうしたんだろう? おしっこかなあ」


 バーレンは無言で考え込んだ後、


「まさかもう斬首されているのでは……」


 と、顔を青くした。

 その時、背後より甲冑の擦れる音が聞こえ、続けて低い声が響いた。


「殿下ならまだ斬首されてはおらん」


 二人と一匹が顔色を変えて振り返った。

 そこには、七龍将の一人、ビーウェン・ワンが背後に数十人の部下を従えて立っていた。


「おっさん……」


 ネイマンが敵意を込めた目でビーウェンを睨んだ。

 冷静沈着なバーレンは静かな目つきでビーウェンを見やったものの、その全身からは闘気が上っている。

 シャオミンは怯えてバーレンの背後に隠れた。


「ごろつきどもが。皇帝陛下の命に背き、不埒にも殿下を救いに来おったか」

「リューシスはどこだ?」


 ネイマンは語気を荒げた。


「リューシス殿下はここから脱走を図った」

「何? じゃあ……」

「しかし、その後にワルーエフ丞相を暗殺しようとし、それに失敗した挙句に再び捕らえられたのだ」

「では、殿下は今どこにいる?」


 バーレンの目が次第に鋭くなって行く。


「それを知ってどうする? 殿下は更に重い罪を重ねてしまった天下の大罪人であるぞ。まさか助けに行こうと言うのであるまいな?」

「そのまさかだ。ビーウェン殿、そこをどいていただきたい。どかぬと言うのであれば力づくでも通してもらう」

「あくまでも逆らう気か。では仕方ない」


 ビーウェンは、バーレンとネイマンの顔を見回して、命令した。


「罪人を救い出そうとするのはまた大罪である。この者どもを捕えよ!」


 ビーウェンの命令で、背後の兵士達が一斉に剣を抜き、二人に襲いかかった。


「やれるもんならやってみやがれ」


 バーレンとネイマンも剣を抜き、応戦した。

 狭く暗い廊下の中で、たちまちに刃鳴りの音が響いた。


 しかし、バーレンとネイマン、この二人の豪勇にかかっては、ローヤン正規軍の兵士と言えど敵ではなかった。


 二人が剣を振る度に、飛び掛かって行った兵士の胴が斬られ、冑が割られ、暗い廊下の石畳に血がまき散らされ、壁に返り血が付着した。

 だが、ビーウェンは冷静であった。


「脚を狙え! 組みつくのだ!」


 狭い地下の廊下である。バーレンとネイマンのような大男にとっては狭く、二人並ぶだけで精一杯なのである。

 自然、動きが制限され、彼らはその豪勇を存分に発揮することができない。むしろ、戦いにくそうであった。


 そして、数人の兵士が彼らの足元に飛び掛かって動きを封じると、ビーウェン自らが動いた。

 ビーウェンも中々の大男である。だが、信じられないほどに素早く動くや、両手を突き出して強烈な当て身をバーレンとネイマンの腹に食らわせた。

 バーレンとネイマンの二人がたまらずに呻いたほどの一撃であった。そして、二人の身体が折れかかった隙に、ビーウェンは二人の腕に稲妻の如き手刀を食らわせ、握っていた剣を叩き落とすや、流れるように両拳が飛んだ。

 バーレンの顔に一発、ネイマンの腹に一発。反撃の隙を与えることなく次々と連続攻撃を炸裂させ、ついにバーレンとネイマンを叩き伏せてしまった。


 恐らくローヤン正規軍の中でもバーレンとネイマンの二人にかなう者は中々いないと思われる。

 だが、流石はローヤン一の名将との声もあり、ハンウェイ人で初の七龍将になったビーウェンである。

 部下達に脚の動きを止めさせていたとは言え、一人で、しかも素手でバーレンとネイマンを倒してしまったのである。


「手こずらせおって。縛り上げよ」


 ビーウェンは涼しい顔で命令した。

 兵士達が駆け寄り、太縄で二人を縛り上げてしまった。




 そしておよそ二時間後の払暁。

 初春の夜空が、段々とその闇を薄め始めて来ていた頃。

 リューシスの処刑の時が訪れた。

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