第7話 優しき継母の仮面

 バルタザールが皇太子エンタイーズになることが発表されると、リューシスパール派は当然憤慨した。

 だが、皇帝エンディーイジャスラフが決めた事には逆らえない。また、カザンキナ部の者達がリューシスパール派の切り崩し工作を謀ったことによりバルタザール派の数がどんどん増えて行った事もあり、彼らは不満を燻らせながらもしぶしぶ矛を収めた。


 この一連の騒動を、当時のリューシスの宮殿とバルタザールの宮殿の位置から、東南騒動と呼ばれる。


 この時、リューシスは七歳であったが、幼い彼はこの時、一連の事についてよくわかっていない。

 皇太子エンタイーズではなくなった、と聞かされても「そうなんだ」と頷く程度であった。


 だが、これよりおよそ一年後、長らく病に臥せっていたリューシスの母、リュディナが亡くなった。

 その頃より、元来明るい性格であったリューシスは口数が減り、ふさぎがちになった。

 そして成長するに従い、事の真実を知り始めると、今度は行動が荒れ始めた。

 自身の宮殿を飛び出し、アンラードの下町に出て不良少年らとつるんでは喧嘩騒ぎを起こし、朝まで飲み歩き、女を買うなどの放蕩の限りを尽くした。

 悪名高い不良少年集団のボスであったバーレンやネイマンと出会ったのはこの頃である。


 だが、そのような思春期に見られがちな行動も、更に成長するとある程度は落ち着いて来るものだ。

 そのおとなしくなり始めた十七歳の時、リューシスは初陣をした。


 比較的小規模な会戦であったが、ここでリューシスは驚くべき大戦果を挙げた。

 リューシス率いる兵は三千人であったが、その倍の六千人の敵軍を散々に打ち破った上に、自らの手で敵将を討ち取ったのである。鮮烈で華々しい勝利であった。


 リューシスをどうしようもない不良皇子だと思っていたローヤンの民衆はその武略を称え、まさかリューシスにこれほどの将才があるとは思いもしなかった父の皇帝イジャスラフも驚喜した。


 だが、かつてのバルタザール派のカザンキナ部の者達だけはこれを恐れた。

 元々はリューシスが長子であり、皇太子であったのである。そのリューシスにこれほどの軍才があることが明らかになったのならば、「やはりリューシスパール殿下が皇太子になるべきだ」との声が出るかもしれない。

 事実、すぐにそのような声が宮廷内で聞かれ始めた。


 そうなると、当時宰相になったばかりのマクシムを中心とする旧バルタザール派の者達の動きは速かった。

 世間に知られぬよう、密かにリューシスに暗殺者を送ったのである。


 だがリューシスは事前に察知し、その暗殺者を返り討ちにした。

 リューシスは当然激怒したが、全てを悟った彼は、その翌日からまた以前のように放蕩に耽った。


 自分はマクシムらバルタザール派にとって、"いつバルタザールの皇太子の地位を脅かすかわからない不安の種"なのである。自分が活躍し、勇名を上げれば、旧バルタザール派はますます自分を危険視し、自分の命を狙おうとするだろう。


 だが、それに抗しようにも、宰相のマクシムを始め、宮中は旧バルタザール派の人間がおよそ八割を占めている。

 ならば、どうせ元々皇帝になりたいと思ったことも無ければ政治にも特に興味が無いのだ。危険視されぬよう、馬鹿のふりして遊んでいよう。リューシスはこう考えたのであった。


 そしてリューシスは戦争に行くのを拒否し始め、再びアンラードの街に出て遊び始めた。

 これは功を奏した。世間は、やはりどうしようもないチンピラ皇子だ、あの初陣はまぐれであったのだと思い直し、マクシムらバルタザール派も、一旦警戒を解いてリューシスの命を狙うのをやめた。


 だが、今よりおよそ一年前、リューシスが隠していた軍才に再び光が当たる。

 他に適当な将軍がいなかったことからリューシスが総大将として抜擢されたセーリン川の戦いで、リューシスは、当時ガルシャワの中で頭角を現して来ていた若き知将シーザー・ラヴァンが率いる三倍のガルシャワ軍に圧勝したのであった。


 二度目となると、もう世間の目は欺けない。イジャスラフもリューシスが馬鹿のふりをしていることに気付き、戦場行きを拒否することを許さなかった。度々リューシスを総大将として戦場に向かわせた。


 その度に、リューシスは勝利を収め、その武名はますます高くなって行った。

 だが同時に、宰相マクシム・ワルーエフら旧バルタザール派は、やはりリューシスを排除するべきだとの思いを強くして行った。


 そして、それは継母ままははのナターシアも同じであったのだ。

 彼女は、心優しき継母ままははであったが、それは表面だけであったのだ。優しさと言う仮面の下には、愛する実子であるバルタザールの地位を脅かすであろうリューシスへの恐れと敵意がずっとあったのだ。

 それは日々増殖して行き、ついに今日、爆発したのだった。


 そう考えると、思い当たる節が無いでもなかった。


(時折、ふとした時に俺を見る目が冷たいことがあったな。でも、普段は本当に優しく、よくしてくれてたから気にせずにいた。それが失敗だった)


 暗い地下牢の中、リューシスは自虐的に笑った。


「俺が馬鹿だったんだ。女は恐ろしいと言うが本当だったな」


 だがしかし――


 リューシスは、全く揺らがない燭の火を真っ直ぐに見つめた。


 ――それでも継母上は大胆に謀略を弄するような人ではない。誰かそそのかした奴がいる。




「母上、お聞きになりましたか? 兄上が父上を毒殺しようとしたとして、地下牢に入れられたとか」


 顔色を変えてナターシアの居室に入って来たのはバルタザールであった。

 その時、ナターシアは侍女を相手にして優雅に菓子を食べながら緑茶を飲んでいた。

 バルタザールは秀麗な顔を青くして詰め寄った。


「母上、何をのんびりしておられるのですか。兄上が地下牢に入れられたのですぞ」

「ええ、知っておりますよ」


 ナターシアは皺の少ない美しい微笑で返した。


「知っているって……兄上が父上を毒殺しようなど、するはずがありません。先日の偽手紙のこともあります。これはきっと何者かが兄上を陥れようとする陰謀です」


 バルタザールが早口に捲し立てるが、ナターシアは無言のまま何も答えなかった。


「どうしたのです、母上?」


 バルタザールは、そんなナターシアの様子を訝しんだ。


「騒ぐのはお止めなさい。このまま行けばリューシスは処刑されます。これでいいのですよ。」

「何を言って……はっ、ま、まさか母上……?」


 バルタザールは愕然として後ずさった。


「まさか、母上が……」


 ナターシアは立ち上がり、唇を震わせているバルタザールの前まで歩いた。


「あなたの為ですよ」

「私の為? 何を言っているのですか」

「昨年よりリューシスが戦で武名を高め、世間では"やはりリューシスパール殿下が次の帝位にふさわしい"との声が囁かれ始めているのを知っていますか?」

「少し耳にはしました。ですが……それも当然かと思います。兄上は軍略に長けております。元々は兄上が皇太子だったのですし、私も兄上の方が次の皇帝にふさわしいと思っております」


 バルタザールは伏し目がちに言った。

 だが、ナターシアは更に歩み寄り、


「いいのですか、それで? 貴方も歴史を学んでいるから知っているでしょう? 史上、兄弟で後継者争いをし、敗れた方がどんな惨めな末路を辿るのか……。遥か西方、ヤールメッツ王国のセルイ王子、ハンウェイ人王朝、ダーハン帝国のジョウゼン……そしてあなたの叔父であるキルサン殿下」


 バルタザールははっとして顔を上げた。


「キルサン叔父上……? 何故? セルイ王子やダーハンのジョウゼンなどは辺境に追いやられ、確かに寂しい人生を送りましたが、キルサン叔父上は父上との後継者争いに敗れた後も、アンラードで要職についていたではありませんか」

「最後はどうなりましたか?」

「最後? 確かに病で急死したのはかわいそうでありましたが」

「病……世間ではそう言われておりますが、実際には違うのですよ」

「違う?」

「あなたの父上が……陛下が刺客を送って暗殺したのです」

「え?」


 バルタザールが愕然とした表情を見せた。


「キルサン殿下もまた才知胆略に溢れたお方でした。それ故、陛下はキルサン殿下が自分の地位を狙うのを恐れ、病死に見せかけて密かに暗殺したのです」

「そんな……」

「これは世間はもちろん、宮中でも私達一部の者しか知らない秘密です」

「…………」


 バルタザールは唇を震わせた。


「あなたの言うように、リューシスが再び皇太子エンタイーズとなり、将来帝位についたら、あなたはどうなるでしょう? 陛下がキルサン殿下にしたように、あなたを暗殺しようとするかもしれませんよ?」

「…………」

「私は以前、リューシスが自分の宮殿に仲間たちを呼んで酒宴をしていた時、酔ったリューシスが『自分が帝位についたらまずバルタを殺し、ナターシアを殺す。それが俺の母への仇討ちだ』と言ったのを聞いたことがあります」


 これはもちろん嘘である。

 だが、今のバルタザールの耳には真実として響いた。


「そんな……」


 バルタザールは絶句した。

 ナターシアは、そんな息子の白い両頬を触った。


「それよりも、皇子とは言え、下賤の女から生まれたリューシスに帝位を渡していいのですか? あなたはカザンキナの長の血筋である私から生まれた、ローヤンの高貴な血筋なのです。あなたこそが帝位にふさわしいのですよ」


 そして、皇后はそっと美しい息子を抱きしめた。


「覚悟を決めなさい、バルタ。大丈夫です、全てはうまく行きます」


 ナターシアは、バルタザールの耳に囁いた。

 バルタザールは、青い顔で唇を震わせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る