第8話 宰相宮殿と地下牢

 そして首都アンラードにも真っ赤な西日が落ち、満天に星々を仰ぐ夜闇に包まれた。


 夕食が終った後、体調が優れない皇帝エンディーイジャスラフは早々に自室に戻った。

 付き添った皇后エンホウナターシアは、いつも通りに自ら薬湯を煎じてイジャスラフに出した。

 イジャスラフはそれをゆっくりと飲み干し、ナターシアとしばし会話をした後、ベッドに横になった。


 ナターシアは、イジャスラフの目を閉じた顔を見つめていたが、やがて静かな寝息を立て始めたのを聞くと、後のことをイジャスラフの侍女らに任せて部屋を出た。


 ナターシアは自室に戻ったが、すぐにまた侍女一人だけを伴って部屋を出た。

 だが、出て来たナターシアは変装していた。伴の侍女と同じ服装をして、頭も平民が被る麻の頭巾を被り、顔も化粧を落としている。


 そしてナターシアは薄暗い廊下の周囲に誰もいないことを確かめると、侍女と共に足早に自室を離れた。


 ナターシアはそのまま皇宮を出ると、中庭を歩いて行った。やがて、離れのやや小さめの宮殿に着いた。宮殿の門の前には篝火が赤々と焚かれているが、門は開け放たれており、衛兵もいなかった。


 ナターシアはそのまま門を潜り、その宮殿の中に入った。そして中の薄暗い廊下を奥へと進んで行き、最奥の部屋の前に辿り着いた。

 その部屋の前にも衛兵はいなかった。

 ナターシアは、連れて来た侍女に、入り口の門の前で見張っているように言いつけると、木の扉を軽くノックした。

 「どうぞ」と言う声が聞こえると、ナターシアは扉を開けて中に入った。


 室内には香が焚かれており、甘い香りが漂っていた。

 そして四方の壁面に燭台が置かれて明るくされた部屋の中央、絨毯の上に緑色の薄絹の服を着た一人の男が座り、葡萄酒プータージュを飲みながら書物を読んでいた。

 それを見て、ナターシアは皮肉そうに声をかけた。


「随分余裕なのね」


 男は書物に目を落としたままふふっと笑うと、


「最初から余裕でしたが?」


 と答え、書物を閉じて顔を上げた。

 その男は、宰相のマクシム・ワルーエフであった。


 この宮殿は、宰相宮であった。

 アンラード宮城の外、内城には、宮城をぐるりと囲むようにして、重臣たちの邸宅が立ち並ぶ地区がある。

 マクシムの邸宅もその中にあるのだが、宰相にはそれとは別に、何か緊急事態が起きた時にすぐに宮廷に駆けつけられるよう、宮城内に特別に宮殿を与えられていた。


「いらっしゃいませ」


 マクシムは座ったまま、ナターシアに微笑んだ。

 その笑みには、片側が燭の光に照らされ、影が揺れていた。


「外に衛兵が誰もいないけど、不用心すぎるのではありませんか?」

「いや、これでいいんですよ」


 マクシムはにやりと笑った。


「どういうこと?」

「ふふ……いずれわかります」

「そう……でも、これで良かったかしら?」


 マクシムが座る絨毯の方へ歩きながら、ナターシアが言った。


「ええ、完璧でございます」

「でも、明日裁判を行うことになったのでしょう?」


 燭の火で陰影が揺れているナターシアの顔に不安の色があった。


「ええ。ビーウェン・ワンが余計なことを進言しましてな」

「大丈夫なの? あのリューシスのこと、裁きになればどうなるかわからないわ。もし、リューシスの無実が明らかになった上に、私達が仕掛けた謀略であることがばれてしまったらどうなることか」


「心配はご無用にございます。裁きも、しっかりと私が手を回しておきます故、万に一つもあの皇子が無罪になることはございません」

「本当に?」


 ナターシアは不安を拭いきれない。


「ええ。ご安心ください。しかし……確かに陛下の仰る通り、あの皇子のことです。念には念を入れておく必要があります。裁きの前に片をつけましょうか」

「何か策が?」

「すでに仕掛けてあります。そして、確実にかかるでしょう」


 マクシムはにやりと狡猾な笑みを見せた。

 ナターシアはそこで初めて表情を緩ませた。


「そう……頼みますよ。私のこの世で最も大切なバルタザールの為です」

「ご安心ください。バルタザール様が帝位につくことは、我らカザンキナ部の為でもあります故」


 マクシムは立ち上がり、ナターシアの前に寄った。


「そして、私達の為でもあります」


 マクシムは、ナターシアの背に両手を回し、抱き寄せた。

 そのまま顔をナターシアの顔に寄せ、唇にキスをした。


 壁面に浮かび上がった二人の影は、淫らな響きの中で揺れながら動き、やがて一つに重なって床の上に落ちた。




 その頃、リューシスは地下牢の中で黙然と思考を巡らせていた。


(裁判になればきっと無罪を証明できるはずだと思っていたが……よく考えてみればマクシムが裏で手を回すだろう。そうなればどうしようもない。何かいい手はないものか……バーレンやネイマンと連絡が取れればな……せめてシャオミンだけでも……)


 暗い牢の鉄格子の前には、二人の衛兵が立って見張っている。


 ――裁きの前に脱出……。


 頭に浮かんだ考え。

 だが、リューシスはそれを払うように頭を振った。


(駄目だ。裁判の前に脱走するのは一等の重罪だ。しかも、仮に脱走するにもどうやって? 地下じゃ天法術ティエンファーも使えないし……)


 リューシスが得意とする光の天法術ティエンファーで目の前の二人を倒し、鍵を奪えれば最上である。

 外に出ても衛兵らが多数いるであろうが、とにもかくにもここから出ないことにはどうしようもない。


 だが、天法術ティエンファーはどこでも使えるわけではない。

 天法術ティエンファーの才がある者のみが操ることができる、天精ティエンジンと呼ばれる気のようなものを使い、自然界に存在する様々な要素を体内に取り入れ、体内で増幅させて放つのが天法術である。


 なので、例えば、水の多い場所、川や海など、あるいは雨の日などは、炎の天法術は使うことができない。仮に使えたとしても、非常に弱く到底使い物にならない。

 同様に、一切の風が無い場所では風の天法術は使う事ができないし、砂漠などの乾燥地帯では水の天法術を使うことができない。リューシスの光の天法術は、全くの無明の闇では使うことができず、夜でも外に出た上で、頭上に空が晴れ渡り、尚且つ満月が煌々と輝いている時には使うことができるが、それでも威力は日中の半分ほどである。


 そして、地下空間と言うのは何故か天精ティエンジンが全く働かず、全ての天法術ティエンファーを使うことができなかった。

 それ故に、この世界では牢は大抵地下に造られるのである。


 ちなみに、天法術ティエンファーは誰でも使えるわけではなく、生まれついての才能に左右される。また、天法術ティエンファーの才能を持って生まれて来たとしても、まともに使いこなせるようになる為には高額な費用がかかる厳しい専門的な訓練を必要とする為、平民ではまず使える者がいない。


 話が反れたが、とにかく、天法術ティエンファーも使えないこの状況で、リューシスは困り果てていた。


(どうするかな……)


 その時、鉄格子の外、地下階段を下りて一人の男がやって来た。


 七龍将軍チーロンサージュンの一人、ダルコ・カザンキナであった。その姓が示す通り、カザンキナの貴族出身であり、当然マクシムの手の者である。


 現在三十五歳、七龍将チーロンジャンの中で二番目に若いダルコは、生粋のローヤン人にしてカザンキナ部の貴族出身であるが故か、強烈なローヤン人意識を持ち、ローヤン人至上主義を持つ男であった。


 ハンウェイ人が人口の大多数を占めていることをよく理解しているローヤン帝国は人種差別を禁じており、ローヤン人であろうとハンウェイ人であろうと対等でなければならないと法で厳しく定めている。


 しかし、一部の純粋ローヤン人の間には、征服したハンウェイ人を見下す気持ちが無意識に残っていた。それは、ローヤン軍最高幹部の七龍将軍チーロンサージュンが最近まで全てローヤン人であったこと、ビーウェン・ワンが史上初めてハンウェイ人としてその職に就いたことに現れている。


 ダルコ・カザンキナは、その中でも強烈にローヤン人意識が強く、ローヤン人であることを誇りに思っている男であった。

 そんな彼は、リューシスがローヤンの皇子であるにも関わらず、いつもハンウェイ人のバーレンやネイマンらとつるみ、親衛隊もハンウェイ人が多いことを快く思っておらず、また自分がマクシムらの一派であることからも、リューシスを嫌っていた。


 ダルコは牢の鉄格子の前まで来ると、ローヤン語で言った。


「リューシスパール殿下、残念なお知らせがあります」


 嫌味ったらしい言い方であった。


「何だよ?」


 リューシスもローヤン語で答えた。


「殿下の斬首刑が決まりました」

「何だと?」


 リューシスは驚いて半身を跳ね起こした。


「待てよ。明日裁きだろ?」

「ところが、皇帝エンディー陛下ビーシャーの気が変わりましてな……『裁きを行うまでもない。明日早朝、斬首する』と仰せになりました」


 ダルコが言い終らぬうちに、リューシスは叫んでいた。


「そんな馬鹿な! 何故突然そのように気が変わる。父上は、一度裁きを行うと言ったらそれを覆すような人じゃない」

「わかりませぬ。ですが、陛下は今は病に侵され、思考力、判断力、共に以前とは違います」


 リューシスは鉄格子に寄った。

 そこで、息を吐いて心を落ち着かせた上で、ダルコを睨んで言った。


「本当に父上が斬首と命じたのか? 勅書などはあるのか?」

「ここに」


 ダルコは、一枚の紙を広げて見せた。

 そこには確かに、リューシスの罪は許し難く、また皇子とは言え、その存在は常にローヤンにとって不安の種である。明朝夜明けと共に斬首とせよ、と書いてあった。

 薄暗くてはっきりとは見えないが、筆跡も明らかに父イジャスラフのものであり、玉璽による皇帝印まで押されている。

 リューシスは青ざめた顔でそれを見つめていたが、目を上げるとダルコに迫った。


「父上に会わせてくれ」

「それはできませぬ。陛下は今はお休みでございます。起こせば私が罪に問われます」


 ダルコは薄笑いでそう言うと、くるりと背を返した。


「では、明日の朝まで、残り少ない時間をお楽しみください」


 ダルコは美しい抑揚のローヤン語で言い残すと、廊下の奥へと消えて行った。


「くそっ……どうなってやがる……」


 リューシスは拳を握りしめた。

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