15 共に新たな戦へ

 むき出しになった肌に冷たい風が当たり、否が応でも目が冴えてしまう。義姉の豊鋤入姫から譲られた銅鏡に自分の顔を映してみると、少しほっそりしたような気がした。

 大王軍が圧倒的な戦力で謀反人たちを壊滅させ、水垣宮に凱旋してから約一月の後、伊賀は新たな戦いに赴こうとしていた。大王がかねてから宣言していた通り、四方の安寧を得るために北陸、丹波、西海、そして東海地方へ四人の将軍が派遣されるのだ。

「伊賀、俺と一緒に東海道へ来てくれ。お前とならどんな苦難も乗り越えられると思う」

 南山背からの凱旋から数日後間もなく、四道平定の命が下った時、伊賀は武渟川別から求婚の繰り返しとも言える真摯な言葉をもらっていた。

 しかし、伊賀の答えは否だった。

 どうして承諾できないのかは自分でもよくわからない。武渟川別が以前とは違って格段に男らしく、優しくしてくるのが落ち着かず、そして怖いと思ってしまう。

 伊賀は大王に出立を告げにいった。

「行ってまいります。必ずや反抗する者どもを平らげてきますのでご安心を」

 いつもと変わらず武人の姿で微笑む娘を見て、大王は苦笑した。今回は出陣しろと言っていないのに、自ら名乗りでて遠征に赴こうとしている。

「お前は東海道へ向かうと思っていたんだがね……」

 大将軍の息子が伊賀に求婚したことは既に大王の耳に入っていた。武渟川別は今や父親に恥じぬくらい立派な武人となり、大王は安心して最も危険で重要な東海道の平定を任せた。だが、娘はそれを拒み別の道を選んだ。

「いえ、昔から西海道に関心がありましたので。しばらく不在にいたしますが、どうかご壮健でお過ごしください」

 伊賀は平伏し、王宮の門をくぐって先を急いだ。

 少し進むと、五十狭芹彦が率いる隊列に追いついた。伊賀は五十狭芹彦の配下につくことを選んだのだった。

「すっかり三輪山も色づいてるね。次の紅葉の時期になる前には帰還したいところだけど」

 五十狭芹彦は横に並んで歩く伊賀に世間話を振った。愛する人を自らの手で葬らなければならなかったこの男は、微笑みの下に人の心を完全に凍結させてしまっていた。

(俺は死ぬまで大王家の犬となろう。この手を誰よりも多くの血で染めてやる)

 だが、友人たちに対する情までも捨てたわけではなかった。

 伊賀が同行するのを黙って受け入れた五十狭芹彦だったが、王宮を出発して二日後、伊賀を部隊から外すことに決めた。

「ねぇ、五十日鶴彦。やっぱり君を同行させることはできないよ」

「……何で? 俺の腕が信用できない? 足手まといなのか?」

「ま、そんなとこかな。俺の部下には君以上の働きをする武人が何人もいるし、そもそも君は大王から遠征軍に加わるように命じられてないよね。だから、王宮に帰りなよ」

「そんな! 大王には許しをいただいてる」

 部隊を先に行かせて、五十狭芹彦は伊賀を説得し続けた。もちろん、伊賀が足手まといなどということは嘘だ。彼女ほど大王の命に忠実に従う武人はいないだろう。だからこそ、五十狭芹彦は伊賀を連れて行きたくなかった。

 伊賀には共にあるべき人がいる。そいつと幸せになる道を歩んでほしかった。

 許されぬ恋に身を焦がし、最後には敵同士になってしまった自分とは違う最良の道が開けているというのに……。

「ほら、行って。ついてきたら縄で縛って強制送還するよ。別に俺は君の力は必要ないからね」

 思いがけず冷たい言葉を聞いて、伊賀は五十狭芹彦の腕を掴んですがった。しかし、五十狭芹彦はにこりともせずに伊賀の手を振り払い、踵を返して歩いて行ってしまう。

「………」

 伊賀は一人、呆然と立ち尽くした。


 仕方なくまた二日かけて王宮に戻ったはいいが、一度出陣すると言って出てきた以上、大王の御前に姿を見せるのはどうしても憚られた。

 王宮の門の近くをうろうろしていると、野菜を両手に抱えた活目入彦と妻の狭穂姫に出くわした。

「あれ、伊賀。遠征に出たんじゃなかったっけ?」

「それがちょっとね……」

 伊賀はきまり悪く思いながらも、手短に事の次第を兄夫婦に説明した。すると、活目入彦は妹の肩を優しく抱いて慰めた。そして、狭穂姫の提案でとりあえず活目入彦の宮で過ごすことになり、伊賀はそこでありがたく頭を冷やすことにした。

 夜、兄夫婦と共に夕餉を食べていると、伊賀は活目入彦からさらりと核心を突くような言葉をかけられた。

「東国遠征は厳しいから、二度と武渟川別に会えないかもしれないね」

 息が止まるかと思った。伊賀は口につけようとしていた酒の杯を持ったまま硬直し、兄を見返す。

「……それは覚悟の上で臨んでいると思うわ」

「もちろん、武渟川別は覚悟してるだろうさ。でも、お前はどうなんだい? 西海道将軍がお前を追い返したのは、本当に足手まといだからってわけじゃないと思うよ。賢いお前のことだから、ちゃんとわかってるはずだと俺は思ってるんだが」

 伊賀が黙りこくっていると、活目入彦は続けて言う。

「何年か前、お前は誰の妻にもならないなんて言ってたね」

「……今日の兄上は随分と意地悪なのね。ごちそうさまでした」

 兄の言いたいことが痛いほど理解できた伊賀は、その場にいることがいたたまれなくなって、箸を置いて退出した。

 五十狭芹彦も活目入彦も同じ思いで伊賀を見ているのだ。

 もう二度と会えないかもしれない――兄から言われた言葉は誇張でも何でもない。自らも戦う伊賀には、今度の東国遠征がどれほど危険で困難を極めるか想像がついた。

 武渟川別の採っている進路には、土蜘蛛と呼ばれる大王家に反抗的な集団が多くいるという。聞いたところによると、現に今、武渟川別の部隊は手強い土蜘蛛の住む地域を目指しているらしい。

(……会いたいな)

 不意に武渟川別の情熱的な口づけを思い出し、伊賀は顔に血が上るのを感じた。

 もしこのまま武渟川別と会えなかったら――?

 伊賀は立ち上がった。そして、半ば自暴自棄になって脱ぎ捨てていた武装と武器をかき集め、急いで身につけると、伊賀は活目入彦の宮を飛び出した。察しのいい兄のことだから、妹の姿が見えなくなったことの意味をわかってくれるだろう。

 冬の凍てつく闇夜を、伊賀は走った。

 途中で仮眠をとりながら、東国への道を突き進む。途中の集落で東海道将軍は通ったか、どの道を進んだか尋ねて、恋しい男の後を追った。


 そして数日後、伊賀は土蜘蛛の集落に辿り着いた。

 山間のその集落は喧騒に満ち溢れ、まさに東海道将軍の部隊と土蜘蛛の民たちが刃を交えているところだった。

「まだ大王のご威光に従う気はないのか!?」

 集落の中心地で、武渟川別が血を滴らせた剣を土蜘蛛の首長に剣を突き付けている。

「降伏などするものか!」

 髪を振り乱して叫ぶ首長をよく見ると女のようだ。だが、土蜘蛛の女首長は隼人族の阿多のように巧みに剣を操り、武渟川別に果敢に挑んでいる。

 伊賀は剣を鞘から抜き、武渟川別に駆け寄った。

「東海道将軍!」

「……伊賀!?」

 軽やかに颯爽と登場した武装の伊賀は、武渟川別には神々しいほどの天女に見えた。また夢でも見ているのではないかと驚く武渟川別の横に、伊賀はぴったりと寄り添うように並ぶ。

「やっぱりお前ひとりには任せられないな!」

 伊賀の笑みと共に、二振りの剣がきらりと舞った。

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