14 戦う王女

 夕刻の戦闘がまるで嘘のように静まり返っている。武渟川別は伊賀奪還のため、夜陰に紛れて敵陣に忍び込んだ。あらかじめ敵兵の亡骸から甲冑や隼人族とわかる物を引き剥がして身に付けているので、敵の領域に踏み込んでもすぐに正体が露見することはないだろう。

 敵の伝令が来たということは、伊賀は正式な人質だ。つまり、伊賀は武埴安の監視下にいるに違いないと推測し、武渟川別は奥へ進んだ。

 木陰に身を潜めて敵の本陣の位置を探る。

(あそこだな)

 以前招かれた武埴安の館へ続く大きな道の入口付近に、立派な幕屋が置かれていた。その他には小型の幕が張られているが、兵士用のもので、大王の娘という人質を隠すような場所ではない。

 武渟川別は自分の剣の他に、持参した伊賀の予備の剣を抱えている。伊賀の体を触るかのように、その剣にそっと手を添えた。

 幕屋の前には二人の兵士が見張りとして立っていた。武渟川別は音もなく近づき、横から一気に飛び出して続けて二人とも斬った。息を殺して中を覗くと、奥に横たわる女の姿を見つけた。あれが伊賀に違いない。

 まさか戦場で、敵の一人が乗り込んでくるなどとは考えていなかったのだろう。見張りの兵士以外に幕屋の中には人がいなかった。これ幸いと武渟川別は伊賀に駆け寄った。

 一瞥して負傷がないことを確認すると、武渟川別は伊賀の名を呼んだ。

「伊賀、目を覚めせ」

 胸が規則正しく上下しているので生きてはいる。だが、どうやら深く眠っているらしい。武装を解かれた伊賀は小綺麗な女物の衣装を着て、髪も下ろした状態になっている。顔に付着した血痕や泥は丁寧に拭われていて、彼女のはっきりとした美貌が明らかだ。

 武渟川別は伊賀の横に跪き、一瞬躊躇った後、唇を重ねた。

 恐る恐る顔を離すと、なんと伊賀が大きく瞳を開いてこちらを凝視している。

「あ……、ごめん」

 咄嗟に誤り、武渟川別は赤面しながら伊賀から逃れるように視線を外した。

「俺、武埴安殿に捕まって……。武装を解けって言われたんだけど、その後の記憶が……」

「ここは武埴安の本陣だよ。お前、何か知らないけど眠らされてたっぽい。こっちには、お前の身柄と引き換えに撤退が要求されてる」

「そんな……!」

「まぁ、撤退なんかしねぇよ。大王の命優先だからな。……だから、俺がお前を連れ戻しにきた」

 武渟川別は一度外した視線を伊賀に向け直し、抱えていた予備の剣を伊賀に差し出した。それが予想外だったのか、伊賀は驚きの眼差しを武渟川別に見せた後、にやりと笑った。

「たまには気が利くじゃないか。さっきの不意打ちのことは忘れてやる」

 いや、別にそれは忘れてもらわなくてもいいんだけど、と思った武渟川別は、さっさと出ていこうとする伊賀を追いかけた。

 伊賀が幕屋の入口で転がっている兵士の甲冑を剥ぎ取ろうとしていると、松明を掲げた兵士がこちらに歩み寄ってきた。

「おい、そこで何してるんだ?」

 明らかに不審な行為を見て声を掛けた後、その男は振り返って警告の叫び声を上げた。

「敵が侵入したぞ! 皆、起きろ!」

「くそっ」

 武渟川別は仕方なくその兵士に斬りかかった。二、三回剣を交え、やっと敵兵を倒したと思ったら、声を聞きつけて他の兵士たちがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。そして、武渟川別が倒した兵士が握っていた松明が転げ落ち、幕屋に燃え移った。

「やべえ、伊賀、逃げるぞ!」

「ああ」

 乾燥した空気のせいで、あっという間に幕屋が燃え上がる。武渟川別は伊賀の手を握り締め、全力で走った。

 結局、伊賀は武装できないまま逃げることになり、剣だけを手にして走っている。伊賀はいつの間にか繋がれていた武渟川別の手を強く握り返した。今は助けにきてくれたことに感謝しようと、伊賀は思った。

 武埴安の軍は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。突然叩き起こされた兵士たちは一体何が起きたのか理解できず、ただただ武器を手に取り、右往左往している。

 館に戻っていた武埴安も混乱が生じたことを知り、急いで前線に駆けつけた。伊賀姫が正体不明の敵兵と共に逃げたという。

「我が君、大王軍が攻撃を再開しました!」

 駆けつけた配下の武人が、悲痛な声で告げた。


 夜更けの戦闘は混迷を極めた。大王軍にしてみれば、泉川の向こうで敵陣が騒ぎ始め、火の手が上がり、不可解なことが起きたとしかわからない。しかし、敵側が勝手に混乱している状況を利用しないわけにはいかなかった。

 大彦はほくそ笑むと全軍に総攻撃の命を下し、兵士たちに泉川を渡らせた。

 武渟川別の姿が見えなかったが、大彦はすぐに息子の行動を察した。

「あいつは本当に馬鹿者だな」

 大彦はそうつぶやいたが、どことなく満足そうな表情をしていた。

 一方、彦国葺は指揮を執るため、混戦の中へ飛び込んでいった。この機に乗じて武埴安を撃つと固く心に誓った彦国葺は、剣をふるいながら冷静に敵の動きを観察した。

「武埴安、出てこい!」

 何度か叫びながら移動し、川のすぐ側に目的の獲物を見つけた。

 武埴安は名前を呼ばれたことに気づくと、素速く弓を引き、続けざまに矢を放った。しかし、風の流れのせいか動揺しているせいか、どの矢も彦国葺の体を避けるようにして虚しく落ちていく。

「次は私の番だ」

 彦国葺は独りごちて、きりりと弓を引き絞る。手を離した瞬間、やったという手応えを感じた。

 たった一本の矢が、武埴安の胸を深々と貫いていた。

 敵の兵士たちは領主の最期を目の当たりにすると、統率されていた糸がぷつりと切れたように散れ散れに逃げ惑い始めた。

「武埴安が死んだ……」

 遠巻きでその光景を見ていた武渟川別は、少しの間、目を閉じ、そして伊賀の手をしっかりと繋いだまま、敵を追い込むように再び戦いに身を投じた。

 少女の頃から戦場に赴いてきたが、これほど惨烈な戦いはなかったと伊賀は敵兵を切り倒しながら考えた。

 一度は心を通わせた相手の命を奪わなければならない戦いはもう二度とご免だ。伊賀は泣きながら戦っていた。今まで戦に出て涙を流したことなんて一度もなかったのに。

 それでも伊賀は剣を振るい続けた。

(私は大王の娘……。大王のために戦うのが私の生きる道なんだもの)

 武装せず明らかに女とわかる姿で、劣勢に陥った敵兵が嬉々として襲いかかってくるが、伊賀の手は容赦なく返り討ちにしていく。

 太陽が昇りきる頃には、敵軍の大半が死滅し、清らかな泉川は禍々しいほどの緋色に変わっていた。武埴安の館は火の手がかけられ、黒く燃え尽き、武器庫は開け放たれて大王軍の新たな戦力と化した。

 大彦は指揮官を失い烏合の衆となった敵軍をさらに奥に追い詰めた。

 祝園ほうそのの地から北上し、ついに樟葉くずはの辺りまで戦闘は続いた。そこまで戦い抜いた敵兵たちは、数は少なかったものの、心から武埴安に忠誠を捧げていた者たちだ。

 敵兵たちはもはや逃れられないと悟り、将官も兵士もことごとく甲冑を脱ぎ捨て大地に額ずいた。

「我が君よ!」

 樟葉の殺戮の中、伊賀が最後に聞いたのは、朱の魔除けの模様を顔に施した隼人族の若者の声だった。

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