13 総攻撃

 その知らせを耳にした時、伊賀は冷静ではいられなかった。

 一足先に出陣していた五十狭芹彦の部隊が、早朝、南下してきた阿多姫の軍勢と激突し、五十狭芹彦の苛烈な攻撃によって敵は壊滅したということだった。胸を抉られる思いをしたのは、将軍自らが敵の指揮官であった阿多姫と一対一の戦いを挑み、そして阿多の体をその剣が貫いたというくだりだ。

 二人の関係を知らなかった伊賀だったが、共に南山背で楽しく過ごした日々のことを思うと涙が止まらなかった。どんな思いで五十狭芹彦は阿多を手にかけたのか。それは伊賀には到底理解できないことだった。

 大彦率いる大王軍の本隊は水垣宮を北上し、途中で勝利の祈願をし、平城山を越えた。南山背へ向かう馴染みのある風景を行軍していたが、今や懐かしいと思う気持ちも湧かない。

 国境付近の泉川の手前に到着すると、先頭の大彦は後ろを振り返って、全軍を見回した。大王御間城入彦が壱与を降伏させ、大和の地を制した時の将軍でもある大彦はそれ以来、御間城入彦の勢力拡大と安定した治世にかかせない将軍であった。

「川を越えれば、もう敵陣だ。いつ戦闘が始まるかわからない。皆、気を引き締めるように」

 大彦の将軍としての貫禄は誰にも勝り、決して怒鳴るような声ではなかったが兵士たちの胸に響いた。

「いよいよだな……」

 伊賀は隣で剣の柄を握り直した武渟川別をちらりと窺った。自分が初陣の時、どんな気持ちだったか思い出す。

「心配すんなよ。俺が助けてやるよ」

 求婚されたことなど忘れたというような口ぶりで、伊賀はそっけなく言った。しかし、武渟川別は不満げに伊賀の腕を掴んだ。

「それはこっちの言葉だ。いい加減、俺の立場も気にしてくれよ」

「戦にそんなことは関係ない」

 伊賀は真っ直ぐ前を見つめたまま、にべもなく返した。

 西の空は次第に茜色に染まり、ほの暗い影が辺りを侵食してきている。大彦が出した斥候が戻ってくると、武埴安の軍は準備を整え、まさにこちらへ向かってきている最中だということがわかった。

 静寂に支配された場に、気の抜けた烏の鳴き声が響き渡る。烏の群れが南の空へ去っていき、姿が見えなくなった時、「来たぞ!」という彦国葺の合図が聞こえた。

 大王軍にも劣らぬ大軍を率い、武埴安は泉川の対岸に陣を構えた。恐ろしく張り詰めた空気に、久しぶりの出陣の伊賀は落ち着かなくなった。武埴安の柔和で温かい人柄と、強く美しい妻を失った悲しみを思うと、苦しくてまともに武埴安を見ることができない。

「忘れろ、五十日鶴彦。もう武埴安は俺たちの仲間じゃない。反逆者だ」

 今度は武渟川別が冷たく言い放った。そうやって割り切らなければ勝てる戦も勝てない。

 じっと敵陣の方を見ていると、武装した武埴安が弓を抱えて単独で前方に歩み出てきた。こちらの指揮官である大彦も前に進もうとしたが、彦国葺がそれを制した。

「あのような者に対峙するのは私で十分です」

 彦国葺が川辺りに立つと、武埴安は大声で叫んだ。武装よりも農作業の服装の方が板に付いているような男だ。

「なにゆえ、あなた方は軍を率いてきたのか?」

 今更、おかしな質問だと伊賀は思ったが、彦国葺は律儀に答えた。

「お前たちは天に背き、道を外し、我らが王家を傾けようとしている。ゆえに王軍を奉り、お前たち逆賊を討つ。これは大王の命である!」

 言い終わると、彦国葺は片手を上げて弓の用意をさせた。それを確認した武埴安も自ら弓を構える。

「放てっ!」

 彦国葺の号令と共に開戦を告げる矢がそれぞれの陣地から一本ずつ飛来し、その直後、大王軍は一斉に前進を始めた。

「いくぞ、武渟川別!」

「おう」

 伊賀と武渟川別は競うように走り出した。

 泉川の水量は夏よりも少し減少していて、浅い部分であればそのまま渡れるくらいの深さだった。数千もの兵士たちが南山背の領地を越えようと、水飛沫を上げながら走っていく。

 甲冑を着込んでいるとはいえ、空からは時々、容赦なく無差別に矢が落ちてくる。

「お前、矢が刺さってるぞ!」

 武渟川別が驚愕して伊賀の左腕を見た。

「知ってる! 横から流れてきたやつだから貫通してない。それより自分の身を心配しろよ」

 言いながら、伊賀は武渟川別に向けられた槍を薙ぎ払う。一対一の戦いや、訓練での乱戦ならば武渟川別は強いが、全く規則も手加減もない戦場ではまだあまりうまく立ち回れていない。

 伊賀は武渟川別を庇うようにして突き進んでいった。

 だいぶ辺りが暗くなり、敵味方の区別が難しくなってきた頃、ふと気付くと伊賀は武渟川別の姿を見失っていた。

(まずい、あいつどこ行ったんだ……)

 急いで周りを確認するが、敵兵ばかりが目に付く。そして、伊賀は背後に殺気立った気配を感じ、剣を振りながら身を翻した。

「くっ……」

 敵は複数いた。見かけから高位の武人だとわかるので格好の餌食として囲まれたらしい。残念ながら伊賀の付近に味方の兵士は一人もいなかった。

「捕まえろ」

 大柄な兵士が怒鳴り、他の兵士たちが寄ってたかって伊賀に攻撃を加える。いくら剣に秀でた伊賀でも、長時間の戦闘で疲弊したところに複数で切り込まれては本来の力が発揮できない。

 とうとう伊賀の剣は跳ね飛ばされ、兵士に羽交い締めにされた。

「殺すならさっさと殺せっ!」

 伊賀は死を覚悟して大柄な兵士を睨みつけた。すると、女の声だとわかった敵兵たちは色めき立ち、伊賀の両手を後ろに縛り始めた。

「お前は捕虜だ。将軍への献上品になってもらおうか」

 そうして兵士たちに引き立てられ、伊賀は敵陣の奥へ連れて行かれた。

 もう少しで戦場を離脱するという地点を歩かされていた時、一人の男が近寄ってきた。兵士たちはその男を見ると、急に立ち止まって跪いた。

「我が君!」

 そう呼ばれた男は南山背の領主、武埴安その人だった。

「お前たち、何をしてる? その武人は……、伊賀姫じゃないか! どうしてあなたが……。おい、今すぐ彼女を解放しなさい」

「しかし、こいつは敵の――」

 武埴安は渋る兵士の手から縄をもぎ取り、自ら伊賀の戒めを解いた。そして、兵士たちに戦場へ戻るよう指示し、伊賀を奥の幕屋に迎え入れたのだった。

「手荒な兵士たちが申し訳ありませんでした」

「いえ、戦場ですから。捕まったのは私の未熟さのせいです」

「……あなたらしいですね。妻のことを聞きましたか?」

 愛妻が敵将に斬り殺されたというのに、武埴安は不思議と微笑んでいた。その顔の裏にはどれほどの悲痛な心情が隠されているのか。

 伊賀は俯いて、「聞きました」とだけ返答した。この場で必要以上に感情を出しては、自分も武埴安も辛くなるだけだ。

 武埴安は幕を掲げて外の様子を窺う。戦場のざわめきが風に乗って聞こえてくる。もうすっかり夜の帳が下りていた。

「戦は明日に持ち越しですね」

「ええ」

「伊賀姫、ここであなたを返すこともできますが、こう見えて、私は腹黒い人間なのです」

 どういう意味だろうと首を傾げると、武埴安は真剣な表情で伊賀に告げた。

「あなたには我軍の人質になっていただきます。武器は既にないようですが、身に付けている武装も解いてください」

「それはできない」

「ご自分で脱がないなら、控えている隼人の女たちにやってもらうまでです」

 そんな女がどこに……と思った瞬間、背後から口を塞がれた。異様な臭いがしたと思った直後、伊賀の意識は奪われていた。


 前方で踊るように華麗に敵を薙ぎ倒していた伊賀が忽然と消えた。武渟川別は敵と対峙するのとは全く別の恐怖を味わった。

「五十日鶴彦!? どこだ!?」

 襲いかかる敵兵を無視し、武渟川別は伊賀を探し回った。

 しかし、空は闇に包まれるばかりで、伊賀が現れる気配はない。そうしているうちに、一時休戦を知らせる太鼓の音が響いてきた。

「大彦殿、彦国葺殿! 五十日鶴彦の姿が見えません」

 自陣に戻り、慌てて二人の上官の元へ飛び込むと、意外な答えが返ってきた。

「五十日鶴彦は武埴安軍に捕らわれ、人質になっている」

「武埴安は五十日鶴彦の身柄と引き換えに、我軍の即時撤退を要求してきた」

「……真偽の程は? 嘘の情報ではないのですか?」

「いや、敵の伝令は五十日鶴彦の剣と甲冑を運んできた。捕らえられたのは本当なんだよ」

 武渟川別は顔をしかめ、落ち着きなく陣内をうろつき回った。あの伊賀があっさり捕まるはずがないと思ったが、剣と甲冑はまさしく彼女のものだった。

 自分が守ってやるべきだったのに、敵の手に渡ってしまうとは……。

「それで、五十日鶴彦はどうするのですか?」

「大王の命は逆賊を討つことだ。武埴安の首を取るまで、帰還することは許されないぞ」

 普段は当然だと思える彦国葺の発言が、今では随分と冷酷な仕打ちに感じられた。武埴安軍を壊滅させるまで戻らないということは、撤退はあり得ないということだ。たとえ伊賀が大王の愛娘であっても関係ない。伊賀自身が武人としての生き方を望み、そして、大王もそれを受け入れた。だからこそ、大王は娘をこうして決定的な戦に送り出しているのだ。

 明日の早朝、予定通り再び総攻撃だという作戦を告げられると、武渟川別は「わかりました」と頭を下げて退出した。

(伊賀は俺が取り戻す……!)

 武渟川別は天を仰ぎ、一際輝く宵の明星を見つめた。

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