9 大和軍の出兵

 伊賀と武渟川別に衝撃が走ったのは、秋晴れの清々しいある朝のことだった。

 将軍以下の武人たちも召集された軍議で、彦国葺によって南山背への進軍が決定されたと告げられたのだ。

(そんな……!)

 伊賀たちにとっては青天の霹靂のような知らせであったが、よく考えてみれば連日大掛かりな厳しい訓練が続いており、それが出兵の準備だったのだ。

「武埴安殿は我らの臣下としてきちんと仕えてくれているではないですか!」

 ついこの前、水垣宮で武埴安と阿多姫の婚礼を共に祝ったのに、掌を返すような決定に納得がいかず、伊賀は父の大王と大彦を精一杯睨みつけた。

(阿多と敵どうしになるなんて嫌だ! 阿多も武埴安殿も大好きなのに……)

 伊賀の目からは涙が滲み出ていた。

「五十日鶴彦、ではお前は武埴安に与しなければならない相当の理由があるというのだな?」

 大王の代わりに大彦が尋ねた。この場では、たとえ大王の娘であろうと大彦にとっては伊賀も一人の部下でしかない。大彦には伊賀が反対する理由は言われなくとも想像がついていた。

 伊賀は、「それは……」と言い澱んだ。与するとまで言わなくとも、現状を保つだけでは不都合なのかと思うのだが、伊賀も主張する遠征を行うためには直接、南山背を管理下に置いたほうがやりやすくなることは確かだ。

「ようやく平穏な時を得られたのに、また戦をするのは民を疲弊させます」

 伊賀がこの決定に反対する本当の理由は、親友となった女性を撃たなければならないという残酷な仕打ちを避けたいというものだが、軍の作戦に個人的な理由を主張することはできなかった。だから、仕方なく民の疲弊という一般論を持ち出さざるを得ず、伊賀の心は燻っていた。

「民に被害が出ないよう対策は講じている。稲刈りを終わらせたのもそうだし、大和を戦場にするつもりはない。そうだろう、彦国葺?」

「もちろんです」

 彦国葺は頷くと、更なる情報があると言って部屋の外に声を掛けた。誰かを呼び寄せるらしい。

 しばらくして部屋の中へ入ってきたのは、一人の若い武人と草香郎女だった。

 武人は不安そうな眼差しで居並ぶ将軍らを見詰め、反対に草香は堂々と笑みすら浮かべて大王の隣に腰を下ろした。

「この武人は私の配下の者ですが、昨日まで小隊を率いて国境を巡回していました。その時のことを報告してくれ」

 彦国葺に促され、若者は床に額を押し付けるようにして頭を下げた後、はっきりとした口調で話し始めた。

「今回の巡回は西廻りで行いました。そして、大和と山背の堺の辺りにたどり着くと、普段は見かけない武装兵や何かたくさんの物を運搬している大きな車を数台見かけました。部下を散らせてよく見に行かせると、南山背の領地から泉川を伝って武装兵が国境に移動しているとのことでした。それから、隼人族を動かして淡路島沿岸の海人たちも集めているようです。水軍も使うつもりかと……」

 武人が言い終わると、軍議の場にざわめきが広がった。武埴安の領地で軍事的な活動が確認されたということはもはや疑いがない。

「やはりあちらも稲刈りの時期を待って、出撃してくるつもりだったと思われます」

「ぐずぐずしている時間はないな」

「武埴安の謀反が発覚した以上、黙って見過ごすわけにはいかぬ。五十日鶴彦、そういうことだ。お前も討伐軍へ加わって、不肖の息子の初陣を支援してやってほしい」

 大彦はちらと伊賀の隣に座っている武渟川別を見やった。武渟川別はさきほどからずっと険しい顔で前を向いている。

 伊賀は最後の抵抗だと思い、武渟川別の腕を掴んだ。

「おい、武渟川別も何か言ってくれよ。武埴安殿に謀反の気持ちがあったなんて、俺は到底信じられない。君だって――」

「親父の言う通り、謀反なんじゃないのか」

 武渟川別の意外な冷酷な答えに、伊賀は目を瞠った。てっきり一緒に武埴安と阿多を擁護してくれると思ってたのに……。

「で、でもっ……!」

 武渟川別は伊賀の言葉を無視して、大王に視線を向けて平伏した。

「大将軍大彦が息子、武渟川別も武埴安及び阿多姫の討伐軍に加えていただきたくお願い申し上げます」

「……許す。父の名に恥じない戦功を期待しているぞ」

「はっ」

 伊賀は次の味方に声を掛けようと、将軍席に座している五十狭芹彦に視線を送った。しかし、五十狭芹彦は伊賀を見て悲しそうに微笑むと、首を横に振るだけだった。

(五十狭芹彦、何かあったのかしら……?)

 こういう場合、いつもは軽口で他の将軍たちに反論したりするのに、五十狭芹彦は心ここにあらずという風に押し黙っている。

 何とか軍議の流れを変えようと伊賀が必死に考えを巡らせていると、大王の隣で草香郎女が「そういえば」とつぶやいたのが聞こえた。

「何だ、草香。言いたいことがあれば、言ってみろ」

「では、恐れ多くも大王のお言葉に甘えて。武埴安の妻の阿多姫が王宮に遊びに来た時、伊賀姫と共に香具山に行ったでしょう? そこで、阿多姫は何か呪いをかけていたのを思い出したのよ。香具山の土を手に取って……」

 伊賀ははっと顔を上げた。なぜ草香郎女が香具山での出来事を知っているのか。

「草香郎女、あなたは我々のことを監視してたんだな?」

「……別にそういう目的はなかったわよ。霊力に引かれて歩いていたら、香具山にいたってだけ」

「言っておくが、阿多は呪いをかけたんじゃない。香具山の土を思い出に取っておきたかっただけだ」

「何とでも言えるわね。阿多姫の言動を見たのは、私と伊賀姫だけでしょ?」

 草香郎女はたいして興味がなさそうに言うと、大王に寄りかかって目を閉じてしまった。軍議を終わらせようと、大彦が締めくくりの言葉を述べた。

「とにかく、武埴安の軍事行動は危険だ。大王の都が蹂躙される前に火種は消さなければ。総力を上げて事に当たるように」

 武人たちは、「おう」と勇ましく呼応し、大王の御前を退出していった。


 建物の外に出ると、伊賀は武渟川別と五十狭芹彦に向かって突進し、二人の腕を強く掴んだ。

「いってぇな!」

 武渟川別は思い切り顔をしかめ、伊賀の手を振りほどいた。

「武渟川別、どうして反対しなかったんだよ!?」

「反対する理由がないからに決まってんだろ。俺たちは大王の武人なんだぞ。ちゃんと立場わかってんのか?」

「………」

「俺は戦う。彼らによくしてもらったことは事実だし、楽しかったと思う気持ちは嘘じゃない。でも、戦う。お前だって、大王や兄上たちのために女を捨てて、そんな男の姿にまでなって戦ってきたんだろ。その強い意志は嘘だったのかよ」

 武渟川別に正面から切り込まれて、伊賀は言葉を失った。少女の時代からそう育つことに逆らって武器を手に取ったのは、趣味なんていう生半可なものではなかったはずだ。生涯この身を大和の国に捧げて、武人として生きていくと誓ったのは他でもない自分自身だ。

 黙ってしまった伊賀を見て、武渟川別は鼻を鳴らした。

「女の友情なんて馬鹿げたことに拘ってるなら、五十日鶴彦を名乗るのやめちまえ。女に戻って、部屋で泣いてればいいんだ」

「おい、何もそこまで言わなくても。阿多姫と懇意にしてた五十日鶴彦の気持ちも考えてあげないと」

 戦の前に流血事件が起きそうな雰囲気になってしまい、五十狭芹彦は慌てて仲介に入った。

 五十狭芹彦は最初の軍議でこそ上層部の言い分に反論したが、今となってはもはや口を挟むことは諦めていた。阿多と引き裂かれてしまったという現実は、いつの間にか受け止めていたが、今日の軍議で聞いたことは五十狭芹彦の胸を抉り、自責の念に駆られていた。

 南山背が武装を始め、それを大和の武人に発見されてしまい、結果として武埴安を謀反人と決定づけてしまったのは、五十狭芹彦が事前に武埴安と阿多に身内の動向を教えたせいなのだ。

(もし俺が南山背に赴かなかったら、衝突を回避できたかもしれない。阿多に武装させたのは、この俺だ)

 だが、いくら後悔しても時は戻せない。それに、大王はいずれ南山背を武力で押さえるつもりだったのだ。

 五十日鶴彦は反発していたが、武渟川別は冷静に事態を受け入れていた。阿多を愛していなければ、五十狭芹彦もまた武渟川別と同じように、いや彼以上に冷徹に敵を撃つことに全力を挙げようとしただろう。それが武人の努めだからだ。

 五十狭芹彦は武渟川別と対峙した男装の乙女をそっと見守った。

 伊賀はゆっくりと顔を上げた。そう、私は大王の娘。武人として生きる覚悟をしたのだから、その本分を尽くさなければ。

「……いいんだ、五十狭芹彦。こいつの言う通りだよ。俺が間違ってた。だから、武渟川別、戦場を知らない奴が偉そうな口きくなよ」

 武渟川別は伊賀の気迫に息を呑んで見つめた。ついさっきまで、怒りの感情と涙目が混じった迷いの表情をしていた人間とは思えない。今、剣を交えたら勝てる気がしない、と武渟川別は思ってしまった。

 そして、伊賀は不敵な笑みを浮かべて言い放つ。

「初陣がんばれよ。俺の隣にいれば無傷で帰してやる」

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