10 真夜中の求愛

 いつ出陣の命が下ってもおかしくないということで、各人とも戦の準備に余念がなかった。

 伊賀は自分の部隊の編成や兵士の健康状態の最終確認を行い、翌日の夜、一人で王宮の東側にある潔斎場へ向かった。そこは三輪山から湧き出る泉の水を引き入れ、沐浴できるように作られた石造りの区画だ。

 阿多と再び相まみえることなく敵として討伐に赴かなければならないことは、辛くて苦しかったが、伊賀の心は既に戦場に向いていた。

(絶対に阿多を殺さなければならないわけじゃない。すぐに降伏してくれさえすれば……)

 そういえば、ずっと五十狭芹彦が浮かない顔をしていた理由がわかった。将軍として早い段階から南山背攻略の情報を得ていながら、伊賀や武渟川別には伝えられなかったことを気に病んでいたらしい。特に伊賀は阿多と仲が良かったため心苦しかったと言っていた。

 潔斎場の扉を開けると、軽く立ち込めた湯気が伊賀の身を包み込んだ。

 真夏であればそのまま水浴びという状態だが、稲刈りが終わる頃になれば水に浸かるのはかなり厳しい。ここ数日は将軍たちが順番で潔斎をしているので、一日中、火が焚かれている。

(私で最後だからちょっとゆっくりしよう)

 潔斎のための沐浴ではあるが、湯に浸かって体を清められるのは嬉しい。伊賀はきつく縛ってまとめていた長い髪を解き、一つ一つ武装した衣服を脱いでいった。重く体に貼り付いていたような衣装を脱ぎ捨てると、心身が軽くなった気がして、伊賀はほっと溜息をついた。

 長い髪を左耳に寄せて緩く縛り、そっとつま先を湯に入れる。じんわりとした温かさが心地よく、そのままもう片方の足も湯に浸けた。

 前に進むと浴槽は奥の方が深くなっており、腰を屈めるとちょうど肩まで湯がくるようになっている。伊賀は浴槽の縁にもたれかかって天を仰いだ。湯気の合間から濃紺の空が見える。

 死ぬかもしれないという可能性は考えないことにした。戦に赴く以上、それはいつでも誰にでも起こりうるのだし、考えて恐怖でいっぱいになってしまったら戦うことができない。

(大丈夫。大彦殿の指揮下なんだから、無茶な作戦にはならないわ。問題は、あいつよ。こんな大事な戦に初陣って、大彦殿も大胆な決定をしたものね。確かにそろそろ実戦を経験しないと、将軍になっても古参の兵士たちから舐められちゃうけど……。でも、私が面倒見ることになるんでしょ? 武埴安軍よりも、あいつの方が不安材料だわ。絶対むやみに突っ込みたがるにきまってる)

 そんなことをつらつらと考えて、伊賀はもう一度、空を見上げた。

 少し長く入りすぎたかもしれない。これ以上、湯に浸かっていたらのぼせてしまう。伊賀は水をかき分け、浴槽から上がった。

 体についている水分を拭くため壁に掛けていた白い衣を手に取り、袖を通していると、カタンと扉が動いた音が聞こえた。


 そこにいるのが誰なのか、武渟川別は咄嗟に判断できなかった。

 昨日のうちに潔斎を済ませようと思っていたが、用ができてしまい、今夜に延期になった。こんな夜中なら誰もいないだろうと潔斎場にやってきたところ、先客がいたというわけだ。

 長い黒髪を片耳の横から流し、湯上がりの衣を纏ったばかりの娘の姿が湯けむりの中から立ち現れると、武渟川別の全身がぞわっと震えた。

 美しいという言葉では言い表せないくらい、その娘は際立って麗しかった。顔を傾け、髪を梳く様。肌蹴た衣の間から覗く白く豊満な胸。

 そして、少し寂しげな眼差しが大きく見開かれ、武渟川別を凝視している。

(三輪山の天女だ……)

 かつて王宮の桃の木の下で見かけた初恋の人に似た面影をしている。いや、まじまじと見つめ返すと、似ているのではなくあの天女に間違いないと確信した。

 戦の前の潔斎にやってきたというのに、武渟川別の心はたちまち高揚し、再び会えたという喜びであっという間に満たされていった。

 しかし、今の時期、潔斎場に来るのは大王軍の関係者しかいないはずだ。日の神を祀る豊鋤入姫とよすきいりひめならば祭事の前に沐浴するかもしれないが、近々、彼女が執り行う祭事がある予定はない。

 では一体この娘は誰なんだ。武渟川別は酔ったように目の前の娘に近づいていった。

「……武渟川別? なんで君がここに? 出て行ってくれよ」

「え……!?」

 おかしい。今聞いたのは男言葉だ。天女の口から出てきたのが男言葉だった。

 女なのに男の真似事をしている人物がたった一人いる。その事実にぶつかり、武渟川別はある名前をつぶやいた。

「五十日鶴彦なのか、お前……」

「そうだ。俺以外あり得ないだろ! わかったならさっさと戻ってくれ!」

 人生最大の衝撃だった。少年の頃から密かに恋い慕い、手の届かない存在だと思っていた天女が、四六時中一緒に軍事訓練をしてきた五十日鶴彦だったとは何かの間違いではなかろうか。

 見間違いか、それとも夢かともう一度、娘の姿を見たが、どう見ても勝ち気な顔立ちは五十日鶴彦である。それなのに、全身から雫を滴らせ、薄衣が肌にまとわりついた姿は艶めいていて、女の匂いが強調されている。

 頭ではあり得ないと拒否しても、武渟川別の心は素直だった。

「……ちょ、ちょっと!?」

 武渟川別は濡れるのもかまわず、伊賀を抱き締めていた。裸同然の伊賀の体は思いのほか柔らかく弾力があった。これが天女の正体だったのかと思うと、妙に納得できた。いつも側にいた女に惚れていて、長い間気づかなかったなんて、とんだ大馬鹿者だ。

「活目入彦殿の婚礼の時、お前を初めて見た。桃の木の下で、俺はお前に――」

 その続きは言わずに、武渟川別は伊賀の唇を塞いだ。再びとろけるような感覚を味わい、武渟川別は夢中で伊賀に口づけた。

「ずっと好きだった、伊賀」

 しかし、どんなに激しくしようとも伊賀は唇をぎゅっと固く結び、武渟川別を拒否し続けた。

(武渟川別が私を好き……? 意味がわからない。私と張り合って、馬鹿にしたり喧嘩したりしてた奴が!?)

 伊賀は力いっぱい腕で武渟川別を押しやり、顔を上げて言った。

「あり得ないわ。だって、あんた、私の姉妹の誰かに惚れてるって言ってたじゃない」

「だから、それがお前なんだよ!」

 初めて武渟川別は伊賀の女言葉を聞き、ますます愛おしさが募った。家族以外の男には聞かせたことのない言葉だということに優越感を覚え、体をのけぞらせている伊賀を離すまいとして引き寄せ、また唇を重ねる。

 湯気に包まれていることもあり、次第に熱を帯びてきた武渟川別は勢いに任せて、伊賀の両肩を掴んだ。

「伊賀、戦が終わったら俺の妻になってくれ」

「え……?」

 さきほどからずっと体を硬直させて自分の身に起こっていることを理解しようとしていた伊賀は、人生で初めての激しい口づけに続く求婚にひどく動揺し、そしてとうとう武渟川別を拒否する行動をとった。

「ふ……ふざけんな! 俺にまともに剣で勝てないくせに、俺の夫が務まると思ってるのか!?」

 怒気を含みながら言いつつ、伊賀は片足を武渟川別の足に引っ掛け体勢を崩しにかかり、渾身の力を込めて武渟川別を投げ飛ばした。

 ばしゃーん、と浴槽から派手な水飛沫が上がる。

「おい、何すんだよ? 求婚しただけだぞ!?」

「断る! 全力で断る!」

 やり過ぎたと一瞬罪悪感が生まれたが、伊賀は浴槽に背を向けて叫んだ。目尻に涙が溜まっていたことは、武渟川別には見えない。しかも、伊賀自身、どうして涙が出てきたのかわからないのだ。

 伊賀は濡れたまま着てきた衣を薄衣の上に引っ掛けると、猛烈な速さで潔斎場を飛び出していった。

 呆気にとられながら浴槽から這い上がった武渟川別は、縁に腰掛け、深い溜息をついた。

(剣の勝ち負けは夫婦になるのに関係ないだろ……)

 いかにも伊賀らしい断り文句に、武渟川別は泣き笑いするしかなかった。

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