8 将軍の裏切り

 半日も経たないうちに大将軍が王宮に戻ってきたという知らせは、各人を驚かせた。

 武渟川別は父親の姿をちらと見かけたが、近づいて話しかける前に大王の御前へ上がってしまったため、どこで何をしていたのか聞けずじまいだった。

 一方、将軍として軍議に招集された五十狭芹彦は、大彦の報告を聞いて最悪の事態を想定せざるを得なかった。

「……というわけで、急ぎ戻ってきた次第です」

 大彦が神妙な面持ちで報告し終えると、大王は「ご苦労だったな」と労いの言葉を掛け、しばらく黙ってしまった。

 そして、大王は顔をゆっくりと上げ、将軍たちを見回した。

「あの女は巫女の力を有している。手元に置いているのは何も美貌を愛でたいからというだけではないのだ。……やはり武埴安に邪心があるというお告げであろう」

「それでは、動員の準備を……?」

「いや、その前に稲刈りを全て終わらせておくよう、民に伝えよ。王宮の防備も今一度、見直し、固めさせておくように」

 大王の言葉は静かであったが、五十狭芹彦には草香郎女の歌が絶望の歌に思えてならなかった。四方の国々へ将軍らを派遣する前に、どういう手段であれ大王は必ず南山背を手中に入れるつもりなのだ。

 日が暮れかかっているのを見て、五十狭芹彦は王宮を飛び出した。今から休まずに南山背へ向かえば、深夜には武埴安の館にたどり着ける。

 大彦が南山背に向かおうとしたのと同じ道を、五十狭芹彦はひたすら走った。むちゃくちゃなことをしようとしている自覚はある。だが、阿多に、武埴安に大和の思惑を知らせなければという焦燥感が五十狭芹彦を突き動かした。

 和珥坂を越え、平城山ならやまを突き進み、大和と南山背との堺付近を横たわる泉川に到着した頃には、五十狭芹彦は疲労困憊でふらふらになっていた。

 既に夜は深く、泉川の渡し守も寝静まっている頃だ。泳いで渡ることもできなくはないが、暗すぎて危険だ。どうしようかと辺りを見回していると、渡し守の小屋の後ろに小舟が何艘か引き上げられているのが目に入った。

(櫂もあるな……。後で返すから、ちょっと借りるよ)

 なるべく物音を立てないように、五十狭芹彦は小舟と櫂を担ぎ出して川べりに持ってきた。ついでに、外に転がっていた松明の残骸を拾い、懐の火打ち石で明かりを点けた。これで、なんとか対岸まで渡れる。

 以前、武埴安の館に遊びに行った時に行き来した船の往来筋を思い出し漕ぎだす。

 腕は疲れるが、走り通しだった足を休められるのは幸いだった。それほど幅のない場所を進んだおかげで、なんとか向こう岸に接近できた。船先が砂に引っ掛かった感触を確かめると、五十狭芹彦は船から飛び降りて小舟を引き上げた。流されるほどの水量ではないので、とりあえず放置しておく。

 少し先に進むと、もうそこは武埴安の館の敷地だ。本殿はずっと奥にあるが、入口に当たるこの辺にも見張りの兵士たちが巡回している。

 案の定、兵士の一人が不審な影を見つけて、駆け寄ってきた。

「そこのお前、何をしに来た。名乗れ」

 五十狭芹彦は微笑みながら、武器を持っていないことを示すために両手を広げてみせた。

「俺は大和の将軍、五十狭芹彦だ。至急、武埴安殿と阿多姫に伝えたいことがあり、夜通し大和から駆けて来た。取り次いでくれないかな?」

「夜通し……? ずっと走ってここまで来たのか? 信じられん」

 そう言うものの、兵士は目の前の男が疲れ切っているのがわかったし、何よりも将軍に相応しい立派な体躯と、その身分を示す宝玉を見て、訴えを聞き入れることにした。

「もうお休みになっていると思うが、どうしても今、伝えたい。俺はまたすぐに王宮に戻らないといけないからね」

「わかった。我が君をお呼びしてくるから、ここで待ってろ」

 本殿の一室に案内され、しばらく待つ。夜の静寂の間に、山の梟の鳴き声が物悲しく響いてくる。

 時折襲ってくる眠気を必死に堪えていると、ぱたぱたと複数の足音が聞こえた。

「五十狭芹彦! 何があったのですか?」

「ああ、武埴安殿、阿多姫。こんな夜更けに申し訳ない。俺はすぐに帰るので手短に説明します。……大王は南山背をあなたの統治に任せず、直接支配する心づもりです。他の将軍たちは武器工房の存在に疑念を抱き、軍備増強を主張しています。おそらく稲刈りが終わった頃に、こちらへ攻め入ることになるでしょう」

 息が詰まるような気持ちになりながら一気に言うと、暗がりの中で阿多が近づく気配がした。

「……それを私たちに伝えに、あなたはここへ?」

「そうです」

「しかし、なぜ大和の将軍であるあなたがわざわざ? あなたにどんな利点があるというのですか?」

 寝耳に水という類の知らせを聞いても、武埴安はいたって冷静だった。

 実は破竹の勢いの大和の大王が自分に対してどのような態度で出てくるか、様々な可能性を考えていたので、南山背にもその手を伸ばしてくることは想定内と言えばそうだったのだ。

 だが、大和の将軍が事前にそんな情報をもたらすのは奇妙ではないか。

「俺の意図を疑われるのはもっともです。でも、俺は――」

 五十狭芹彦はそこで言葉を区切り、ほんの一瞬、阿多に目配せをした。

 愛する女を守りたいという偽りのない気持ちが、この行動を起こさせた。それは夫である武埴安に明かすことはできないが……。

「俺は武埴安殿が大王に服していることに、疑いの余地はないと信じているからです。阿多姫からも何度も聞きました。あなたは今の穏やかな状態に満足し、その代わりに喜んで大和の勢力拡大に協力すると。俺は、服従の意思を示している者に刃を向け、無駄な血を流すのはバカバカしいと思ったんですよ。それが、ここに来た理由ですが、信じてもらえませんかね」

「……私は信じる。もし五十狭芹彦殿の言葉が嘘で、稲刈りが終わる頃でなくて、明日、大王軍が奇襲をかけてきたとしても、『南山背を絶対に攻めない』って誓われるよりもよっぽど誠実だと思うわ」

 阿多が静かに言うと、武埴安は面白そうにくすりと笑った。

「その通りだな。攻められることが決定ならば、それがいつかどうかはもはや関係ありませんね」

 しんと沈黙が広がった。五十狭芹彦は阿多を守りたいという意思でやって来たが、彼女をどう守るのかは五十狭芹彦ではなく夫である武埴安の領分だ。これ以上、「敵」となる五十狭芹彦が口を出すわけにはいかない。

 阿多を逃してやってほしいと言葉にしかかったが、五十狭芹彦は自分を殺して沈黙を守った。

「……五十狭芹彦殿。少しだけでもいいから、眠ってはいかがですか? この部屋は好きに使ってください。いつ去っても我々は構いません。伝えに来てくださって感謝します」

「ありがとうございます。でも今から寝たら朝まで目覚めないと思いますよ」

「じゃあ、弖和に起こさせるわ。彼は今日は寝ずの番で日が昇るまで起きてるから。ちゃんと仮眠をとって帰還してください」

 断るなんてあり得ないというふうに阿多が言うと、武埴安は阿多を抱えるようにして部屋を退出していった。

 そしてすぐに弖和が顔をのぞかせ、廊下に控えているから安心して寝るようにと言ってくれると、五十狭芹彦はそのまま仰向けに倒れた。こういう場合はありがたく寝させてもらおう――。

 こうして、五十狭芹彦が体力を回復し王宮に帰還した頃、阿多は気の進まぬ夫を説得し、領地防衛のため密かに武器庫を開放し、軍の動員に取り掛かったのであった。

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