7 反乱の疑惑
伊賀たちが水垣宮に帰ると、王宮に賑やかさが戻った。
夕餉の時間、大王の御前で伊賀は南山背の武埴安の館で見聞きしたことを興奮気味に語り、阿多を始めとする隼人族の身体能力の高さを絶賛した。
「ほう、そんなにすごいのか」
「だって信じられないほど長く素潜りできるのよ。あ、それから阿多姫に弓の稽古をしてもらったわ。ねぇ、私の弓、ちょっとは上手くなったでしょ、兄上?」
「そうだな。武渟川別に追い付くにはもう少し鍛錬が必要だけどな」
好敵手の名が出されたことに伊賀は不満げだが、大王は久しぶりの娘の楽しそうな話に顔をほころばせたままだ。
夕餉が終わり、女たちが退出すると、豊城入彦は続いて退出しようとする弟の活目入彦を引き留めて、大王の側に寄った。
「武埴安のことで、報告したいことがあります。明日の朝、将軍たちと共に会合を開かせてください」
「わかった」
「活目、お前も出席してくれ」
豊城がいつになく真剣な表情であることに気づき、活目はしっかりと頷いた。
翌朝、軍議を開くために人払いがされた部屋に将軍たちが集まった。機密保持ということで、将軍職に就いていない武人たちは排除されており、伊賀も武渟川別もこの場にはいない。
大王に報告する役目を負うのは豊城入彦と彦国葺だ。
「南山背情勢の報告ですが、由々しき事態になりかねないのではと思っております」
「夕餉の席で、五十日鶴彦が話したことに偽りはありません。ただ、武器武具工房の存在は厄介です」
二人の将軍が大王に述べると、大王はため息をついた。
「ああ、言わずともわかっておる。武埴安が大量の武器武具を保有していることに、何の下心がないとは言えない。こちらに提供するという話が事実であっても、全てを放出するとは限らぬ」
「その通りです。しかも、生産工房はそのまま武埴安の監督下にあり続けるのですから、彼はいつでも好きな時に好きなだけ、自分のために戦いの準備をすることができる。南山背は東西と北に水路が開かれ、交通の要所です。我々が北陸へ進出するためには、彼の地を通過しなければなりません」
「……武埴安が素直に通してくれるか、ということですな」
大将軍の大彦が腕組みをして唸る。
今まで黙って話を聞いていた将軍の一人である五十狭芹彦は、不穏な展開に胸騒ぎを覚え始めた。
「それに、五十日鶴彦が言うように、隼人族の戦闘能力は恐るべきものがあります」
「待ってください。豊城殿は武埴安殿の真意を疑っているように思えますが?」
思わず口を挟んでしまった五十狭芹彦に視線が集まる。五十狭芹彦は阿多姫の真っ直ぐな瞳を思い出した。
「俺も豊城殿や彦国葺殿と共に南山背を見てきましたが、武埴安殿も阿多姫も、事あるごとに我らに恭順の意を示していました。そもそも、彼らに大和に反抗する動機などありませんよ」
「ほう、五十狭芹彦殿が我ら以外を擁護するなど珍しいですね。そう思う根拠でもあるのですか?」
彦国葺が目を細めて五十狭芹彦を見やった。そう、五十狭芹彦は自分でもこんな発言をするのは意外なことだと思っている。いつもの自分ならば、大王の威光のために進軍し、危険な芽をさっさと刈り取っていくことに何のためらいもなく、何か特別な思いを抱くこともないのだ。
だが今回は違う。激しく思慕する女とその集団に嫌疑がかかっているのだから、黙っているわけにはいかなかった。五十狭芹彦が根拠について言及しようとした時、やんわりとした口調の声が割って入ってきた。
「まぁ、五十狭芹彦殿の言い分もわかります。大王、兄上、将軍方、まずは南山背の動向をきちんと探ってはいかがでしょう? 今度は密かに。そうすれば、武埴安殿が真に従属に甘んじているのかどうかわかるかと」
活目入彦は穏やかに微笑んだ。軍議で紛糾した話を落ち着かせるのは、いつも活目の役回りだった。弟はどこか武埴安に似ていると豊城は思った。穏やかで全体像を見て、そして妻を心から愛している……。
「活目入彦の提言を受けよう。私は何としても
大王は大将軍の方へ体を向け、北陸道将軍に任命し、重ねて南山背への偵察を命じると告げた。
大彦は王命を承り、深々と頭を下げる。
ひとまず、夏が過ぎ稲の収穫が終わる頃までは様子見をすることになった。
それからしばらく、伊賀たちは通常の軍事訓練を行い、何事もない日々を送っていた。残暑は厳しいが、夕方になれば随分と暑さが和らいでいる。
伊賀は南山背から戻った後、弓の練習に励み、自分から進んで武渟川別に稽古をお願いしていた。上達するためには腹が立つ相手でも教えを請わなければならないと諦めたのだ。
「やった! 連続三回当たった!」
初めて的の中心に続けざまに射撃することができた伊賀は、拳を握って喜びを表した。
「俺の指導方法がうまいから上達しない方がおかしいんだよ」
「ったく、素直に褒めてくれたっていいじゃないか」
「はいはい、良かったな」
訓練に打ち込む日々が戻り、武渟川別の伊賀への態度も元通りになっている。武渟川別は日没の気配を感じて、武器を倉庫に片付け始めた。伊賀も片付けを手伝い、そのうち気になることを思い出した。
「そういえばさ、最近ずっと五十狭芹彦の様子が変じゃないか? 元気がないっていうか。訓練や指揮はちゃんとやってるんだけど、ふとした時にぼーっとしてるよね。五十狭芹彦っていつもヘラヘラしてても隙がないのに、おかしいよ」
「あー確かに。けど、あいつ、何があったのか訊いても答えてくれないんだよな」
何か問題を抱えてるなら遠慮せずに言ってほしいのにと、伊賀も武渟川別も言い合ったが、五十狭芹彦の秘めた悩みは親しい仲間にも決して明かせないものだ。
結局、五十狭芹彦は南山背に足を運べていない。阿多には口実を作ってそちらに行くと言ったものの、実際には日常的な訓練が毎日びっしり詰まっていて、有能な若き将軍である彼が緊急重大な理由以外の口実を作って、どこかへ行ってしまうなどということは不可能だった。
まして明示的に南山背に行きたいなどとは言えないし、将軍以外の武人や兵士たちに南山背情勢が危険かもしれないという情報を教えることもできない。だから、武渟川別にどうかしたのかと訊かれても、五十狭芹彦は口をつぐまざるを得なかった。
九月に入り、ようやく秋風が吹くようになると、今まで沈黙を続けていた大彦が偵察を始めると言い出した。
「伊賀姫の訪問から十分な時間を空けたので、何か動きがあるならよく見えるようになっている頃かと存じます」
「では行け。不審な動きがあれば、速やかに戻るように」
「はっ」
父親である大将軍が留守になったということは、武渟川別にもすぐにわかった。今まで毎日訓練場で自分も剣や弓の鍛錬をしていたのに、どこへ行ってしまったのか。いつもと様子が違うという予感は、通常であれば将軍の行き先は高位の武人たちには伝えられるからだ。
「親父がどこ行ったか知らない?」
武渟川別は将軍の仲間入りを果たしている五十狭芹彦に問いかけた。しかし、五十狭芹彦は「さあ、知らないな」と熱のこもらない口調で素っ気ない。
今頃、大彦は部下の兵士を数人だけ連れて、王宮を密かに出て北上している。自分も一緒に、いや、誰にも知られることなく南山背に向かいたかったと、五十狭芹彦は心の中でため息をついた。
同時刻、剣を帯びただけの軽装の大彦は、自分の息子よりも年若い兵士をよそ目に全く疲れを見せない様子で黙々と歩いていた。
(大王は不肖の息子を、東海道に派遣するとおっしゃっていたが……、あいつはまだ戦の経験がない。伊賀姫にいらんちょっかいばかり出して、本当に仕方のないやつだ。だが……、今回もし武埴安と戦になれば、あいつを出陣させないわけにはいかない。おそらく、大王はそのことも念頭に置かれているのだろう)
大彦にはわかっていた。偵察の結果がどうであろうと、大王は遅かれ早かれ南山背を名実ともに支配下に置くために、軍事行動を命じることを。だから豊城と彦国葺は、大王の意向を汲みとった上で、南山背の動向が不穏だと報告したのだ。
一刻ほど進んだところで、大彦は休息を取ることにした。自分はまだまだ先へ進めたが、随行の兵士たちの歩みが遅くなっていることに気づいたのだ。
(こんなことでは、戦に出ても役に立たないぞ……)
そう思ったが、大彦は黙って木陰に入った。この辺りは
「大彦様、あそこに人影が見えます。確認してきましょうか?」
「ん? あれは……」
兵士の指差す方から、一人の女がふらふらとやってきた。長い紅色の裳を引きずるようにして、長く下ろした髪を振り乱しながら歌っている様子はいかにも異常である。しかし、大彦はその女に見覚えがあった。
それは大王のお気に入りの娘である草香郎女だった。
「お前は草香郎女じゃないか。しばらく姿を見ないと思ったら、こんなところで何をしているのだね?」
大彦は尋ねたが、草香郎女は聞こえているのかいないのか、こちらを見ようともせずに何かを口ずさんでいる。大彦は訝しく思い、草香郎女を目で追った。
「御間城入彦、御間城入彦よ、あんたは知らぬ。身の危うしを。なのにあんたは女遊び」
聞き取れた歌の内容が聞き捨てならないものだったので、大彦は草香郎女の腕を掴んで問いただした。
「おい、その歌はどういう意味だ? お前は大王の寵愛を受けていながら、大王を批判するのか」
すると草香郎女は、にやりと笑って言った。
「別に、あたしは何も言ってないよ。ただ歌っただけさ」
そして再びさっきと同じ歌を歌いながら、するりと大彦の腕から逃れて去って行ってしまった。
「おい、待て!」
不可解すぎる女に驚いた兵士がその姿を追いかけていく。ところが、兵士は息を切らしながらすぐに大彦の元へ戻ってきてしまった。急いで後を追ったにもかかわらず、女の姿はどこにもなかったと言う。
「どうしますか?」
「……あの女のことはいい。だが、王宮へ戻るぞ。さっきの歌を報告せねばならぬ」
どういう意図で草香郎女があんな歌を口ずさんだのかはわからないが、彼女は大王の寵愛を受けている女であり、密偵である。その動向を報告することに間違いはないだろう。
(それに、もしかしたらあの女は呪者かもしれない)
様子がおかしかったのは、神がかり状態だったからということもあり得る。だとすれば、あの不吉な歌には予言の力が宿っているのではないか。大彦は背筋に寒気を感じて、急ぎ王宮へ戻ろうと踵を返した。
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