6 秘め事

 なんとか約束の時刻前に仲間との酒盛りがお開きになり、五十狭芹彦は安堵して目的の場所へ急いだ。

 月が湖に映し出され、夜風が心地よく頬を撫でていく。

 正殿から最も遠く、湖と林の間に建てられた木材置場の小屋に向かい、周囲を確認してから中へ入る。

「待ってたわ、愛しい人」

 五十狭芹彦は胸の中に飛び込んできた隼人の女首長をしっかりと抱きとめた。ここに来ることに迷いがなかったわけではない。相手は強力な王族の正妻だ。夜更けに忍んで逢引をするなど、大王の将軍としてあるまじき行為である。

 しかし、阿多を目にした瞬間、禁忌を犯すことへの躊躇いが消滅してしまった。無駄のないしなやかな体から漂う甘い香りが、五十狭芹彦の感覚をさらに麻痺させた。

「どうしちゃったんだろうな、俺は。こんな許されない危険な恋に落ちるなんて、自分に限ってはないと思ってたよ」

「苦しかった。もう会えないんじゃないかと思ってたの」

 初めて大和の若き将軍に出会った時、阿多は全身に何か熱いものがほとばしったような感覚を味わった。弓の勝負は真剣そのもので、それが彼の心を表しているのだと気づいた頃には、阿多は恋の苦しみに苛まれるようになっていた。

 人知れず激情を抱えなければならなかったのは五十狭芹彦も同じだった。隼人の女首長には前から興味を持っていたが、それはあくまでも職務上の関心でしかない。だから、言葉を交わした瞬間から恋に囚われてしまったらしいと自覚したことは、今まで飄々と生きてきた五十狭芹彦にとっては敗北に等しかった。

 狭くほぼ暗闇の小屋の中で、二人はどちらからともなく床に横たわり、互いの素肌の温もりを求め合った。

「阿多、俺は何に身をやつしてでも君に会いに来るよ」

 声を潜めた逢瀬が終わりを迎える頃、五十狭芹彦は汗で額に纏わりついた阿多の髪を丁寧にかき分けた。半ば放心状態で五十狭芹彦の腕に収まっている阿多は震える声を出した。

「ああ、駄目よ。夫に知れたら全てが終わるわ! こんなこと、今日を限りにしなきゃ……」

 武埴安は十分に自分を慈しんでくれる良き夫だ。彼には何の落ち度もないにも関わらず、阿多は結婚してから間もなく別の男に抱かれてしまった妻として自責の念に駆られていた。

「本気で言ってるの? 俺を愛してくれてると思ったのに、それは嘘なんだね?」

 五十狭芹彦は悲痛な面持ちで阿多を覗き込んだ。できることならこのまま隠して、大和に連れ去りたいほど狂おしい。それなのに、阿多は関係を終わらせようと言う。

「俺は隼人族の女に恋するなんてあり得ないと思ってたんだ。でも、今はこんなにも君が愛おしい。手放せるわけがない。俺は命ある限り、君を裏切ることはしないよ。だから――」

 五十狭芹彦は阿多の手を取り、その指先に唇を寄せた。

 真剣な眼差しに見据えられた阿多の心は揺れていた。どうしようもなく、この大和の将軍を欲していることは否定できない。頭ではいけないことだとわかっていても、愛されているという幸福感が止めどなく溢れてくるのだ。

「あのね、私、少しだけまじないができるのよ。こっち見て」

 阿多は五十狭芹彦の頬を両手で挟むと、目を閉じて口づけた。しばらくの間、触れるだけの口づけをして、阿多は微笑んだ。

「どんな呪いをしてくれたんだい?」

「将軍のあなたが出る戦は、必ずあなたが勝つわ。……これが私の愛の証よ」

 武人にとって最高の名誉と存在価値は、戦の勝利だ。五十狭芹彦は武人の気持ちを理解している阿多に感謝を込めて、力強く抱き締めた。

「ありがとう。これで君をどんな敵からも守れるね」

「私だって、誰かにあなたを傷つけさせたりはしないわ」

 夜明けが近づく頃、朝焼けの色に染まる湖に水鳥たちが鮮やかに舞い降り、再びまどろみかけた二人の耳に羽音が響いた。


 朝方はまだ少し水温が低いということで、伊賀たちは魚採りではなく、先に武埴安が大王へ提供できるあるものを見せてもらうことになった。館からしばらく東側へ歩いて行くと、丘の麓辺りにいくつもの建物が並んでいた。大きさは様々だ。カンカンと何かを打ち付けるような音が響いている。

 阿多は建物の一角に客人たちを連れて行き、中を覗いた。

「お疲れ様。ちょっと入るわよ。作業は続けて」

 作業をしている人々に声を掛けると、阿多は客人を中へ入るよう促した。

 広いとは言えない建物に足を踏み入れると、伊賀はそこが工房であることを知った。作業人は隼人族で、彼らは真っ赤に燃える何かをひたすら打ち付けている。周りを見渡すと、見慣れた道具が並んでいた。それは美しく輝く鉄剣だった。

「これは武器工房ってことか?」

 豊城が訊ねると、阿多は「ええ、そうよ」と頷いた。

「丘の麓に並ぶ建物は全て我が武埴安の監督下にある武器武具工房なの。ここら辺は鉄剣の製作所だけど、向こう側の三軒は弓矢を作ってるわ。槍や盾、それに甲冑の工房もあるわ。好きなように見ていただいて構いません」

 伊賀は感嘆した。出来上がったばかりの鉄剣は惚れ惚れするほど、鋭く、鏡のように磨かれている。他の工房を覗いてみても、やはりため息が出た。

「凄いな……。これだけ集中して生産できるなんて」

「伊賀、驚いたでしょ? ここにある武器は全部、大王に捧げるために生産してるのよ。鉄は今までも大王に供給してきたけれど、武埴安は南山背でも武器を作ってしまったらいいんじゃないかって考えて工房を建てたの」

 両手を広げて、伊賀は誇らしげに工房を披露する。ここで作られるもの全てが父に献上されるのだと思うと、伊賀もまた嬉しさを隠せず、阿多に抱きついた。

「すごいよ! いつから工房群を建ててたの? 武埴安殿の考えでしょう?」

「そう。南山背を治めるようになってから、わりと早い段階で着手してたみたい。巨椋の入江や東部の山々には色んな種類の豊富な資源があるってわかって、隼人を動員して整備させてたのよ」

 土着の隼人族と武埴安との交渉に当たったのが、首長である阿多であり、その時に武埴安が阿多を妻に迎えたいと申し出たという。

 もしこれから、大王が大和の外に威光を知らしめすために軍を派遣することになれば、武埴安の武器や武具はその助けになるのだ。

 父は安心するに違いないと、伊賀は思った。

「だいぶ暑くなってきたから、魚採りでもしましょうか」

 十分に工房群を視察した後、阿多が伊賀に声をかけた。

 いいわねと応じると、豊城と彦国葺が東部をもう少し見に行きたいと言い出し、阿多は付き添いの隼人を一人付けてやった。

 湖の畔では加理志たちが魚採りの準備をして待っていてくれた。むき出しの上半身は顔と同じく日に焼け、武人のように引き締まっている。

 笑顔で手を振るその姿に、伊賀は一瞬、見惚れてしまった。あんなふうに屈託なく笑いかけてくれる人は兄の豊城くらいなものだ。いくら男装して兵士と一緒に訓練をしていても、伊賀が大王の姫だということに変わりはなく、周りの人たちはどうしても丁寧に接してしまう。

「伊賀姫は泳げるんだっけ?」

「多少はね。魚採りはしたことないけど」

 男たちは上半身裸だが、伊賀と阿多は女の海人が身に付ける衣に着替えていた。

 太陽がちょうど頭上に来ていて、遮るもののない湖の水面に惜しげもなく光が降り注いでいる。

 そっと水面に足先を浸けると始めのうちだけはつんと冷たく感じたが、ゆっくり深い方へ進んでいくにつれて気持ちよさが勝ってきた。伊賀は大きく息を吸い込むと、ふわりと水の中へ体を潜らせた。

 あまり遠くまで泳ぐことはできないが、湖の下は宝石箱のようにたくさんの生き物が生息していて、これならば狭い範囲でも捕獲に困ることはなさそうだ。伊賀は体を反転させて、一度水面から顔を出した。

「どう? たくさんいたでしょ?」

 いつの間にか隣に浮上した阿多がにっこり笑っている。

「楽しいわね。水の中は久しぶり。阿多はいつもここで魚採りしてるの?」

「夏の間はね。自分で採った魚が夕餉の膳に出てくるなんて、素敵だもの。なんといっても美味しいし!」

 すると、後方で軽く水飛沫の音がして伊賀と阿多が振り返ると、加理志が両手に何か掴んでいる。加理志はそれを二人に向かってひょいと放り投げてきた。

「殻を強く引っ張ると剥がれるから、そしたら中身をそのまま食ってみな」

「えっ、このまま?」

 生で貝を食べるということに驚いた伊賀は、藻がついたままの貝をまじまじと見つめた。阿多は慣れているらしく、殻を取ってするりと食べてしまう。恐る恐る殻をこじ開けると、白っぽい弾力ある身が横たわっている。

「……甘い」

 思い切って貝を口で吸いながら食べると、軽い歯ごたえと甘さが美味しく感じられた。

「塩があればもっといいんだけどね。ということで、姫たちも自分で何か採ってみたら?」

 魚採りは初めてという伊賀のために、加理志は水面下にいくつか仕掛けを設置してあると教えてくれた。貝は岩場に張り付いたものをそのまま取ればいいが、魚はちょっと難しい。

 阿多は加理志から銛を受け取ると、早速周辺を偵察しに泳いでいってしまう。

 伊賀も捕獲物を入れる袋状の網と小さな道具を受け取り、再び水の中へ体を沈めた。岩場を通り過ぎる時に、貝を見つけたので掴む道具で剥がして取ってみた。素潜りが得意なわけではないので、こまめに息継ぎをしに浮上し、また潜る。

 仕掛けを見つけるのも一苦労なので、水底に視線を集中して泳いでいると、突然、体が何かにぶつかって横に流された。

(あ……、武渟川別だ)

 そう思った瞬間、腕をぐっと掴まれて引っ張られてしまう。

「お前さー、周り見てなかっただろ!?」

 上半身を水面から出すやいなや、武渟川別は伊賀を怒鳴りつけた。

 確かに武渟川別の泳ぐ気配に気づかずにぶつかってしまったのはこちらに非があるものの、避けてくれなかったのだから武渟川別も悪いと思う。伊賀は顔をしかめて、そう反論した。

 そしてその答えが「どう考えてもお前のせいだ」というものだったので、伊賀は怒りに震えて無言で水の中へ飛び込んだ。

(はぁぁ? 全くもって意味がわからない!)

 あまりにも頭にきたので、もし武渟川別が将軍職を拝命する際には真っ先に異論を唱えてやると心に誓ってしまったほどだ。

 しかし、意味がわからないと思っていたのは武渟川別も同じだった。ただし、それは自分の心の中の感情と不確かな既視感のせいだ。

 そもそも水中で武渟川別が伊賀と接触したのは、伊賀の言う通り、武渟川別が伊賀の姿を見つけていながら回避しなかったからだ。

 いや、正確に言うと回避できなかった。

 五十狭芹彦と共に素潜りに挑戦して、伊賀よりも多く魚介類を採ろうと意気込んでいたところ、前方に伊賀の姿が見えた。水中で魚のように気持ち良さげにたゆたう伊賀の衣も揺れる。そして、武渟川別は大きく開いていた伊賀の首筋から胸元をうっかり見てしまったのだ。普段はほとんど意識したことがなかった胸の膨らみが露わになり、不思議と色気を醸し出している。

(くそ。あいつ、こんなところで女だってこと見せつけなくてもいいじゃねぇか)

 心の中で悪態をついた武渟川別だったが、視線を外すどころか、伊賀の姿に引き寄せられるかのように近づいていく。そして、気づいた時には伊賀と衝突していたというわけだ。

 だから本当は今回のことは、伊賀にとってはとばっちりを受けたとしか言いようがない。しかも、武渟川別が思わず伊賀の胸の谷間を覗いてしまったと知ったら、伊賀はたぶん武渟川別と「一生、口をきかないからな!」と怒りを爆発させたかもしれない。

(それにしても、昔、どこかで同じようなことがあった気がするな……)

 思い切り無視された武渟川別は、変な既視感にもやもやしながら浜辺へ戻っていった。

 それから三日間の滞在は充実したものとなった。採ったり釣ったりした魚が夕餉に出され、昼間は剣や弓の試合をしたり、湖畔を散歩したり隼人族の舞いを鑑賞したり飽きることがなかった。

 ただ、水中で伊賀の女らしい姿を目撃して以来、武渟川別は一人で気まずさを感じ、伊賀と目を合わせようとしなかった。話しかけられても、「ああ」とか「おう」とか、適当に聞こえる短い返事だけで済ませ、すぐに顔を背けてしまうので、伊賀に訝しがられた。

「五十日鶴彦と何かあったのか? まぁ、何かあるのはしょっちゅうだけどさ」

 いつも以上に距離をとっているように見えたらしく、五十狭芹彦は気になって尋ねてみたが、武渟川別は「別にどうもしねーよ」と不機嫌そうな顔をするばかりだ。

(絶対何かあっただろ、あいつら……)

 五十狭芹彦は首を傾げてこちらを見ている阿多に、肩をすくめてみせた。

 南山背を去る日、武埴安と阿多は配下の隼人族を引き連れて見送ってくれた。その上、手土産までたくさんくれて、伊賀は胸が熱くなった。

「ぜひ、また遊びにいらしてください。武器と甲冑の提供については、改めて正式に使者を派遣します」

 武埴安は丁寧に頭を下げた。その横で阿多が泣きそうになりながら愛する男を見つめている。秘密の逢瀬はあの晩だけになってしまった。毎晩、夫の側を離れていては不審がられてしまう。本当は人目を忍んで愛を交わしたかったけれど、その代わりに昼の間、二人はできるだけ近くにいて話をした。

 湖の中では、こっそりたくさん触れ合うことができた。その時、五十狭芹彦は阿多に告げた。

「俺は将軍だから、口実をつけて各地を回ることができるんだ。だから必ず君に会いに来るよ。大和からここまで半日あれば来られるしね」

 阿多がぼんやりと考え事をしていると、武埴安が阿多の肩を引き寄せた。悲しそうな顔をしている妻を見て、良き友人となった大王の娘との別れを惜しんでいるのだと思ったのだ。

「阿多、会いに行きたければ行ってもいいんだよ」

 武埴安はそうささやきながら、妻の美しい黒髪に口づけた。

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