5 南山背への訪問
水垣宮のとある仄暗い一室に、豊満な胸と腰のくびれを強調した衣装の女の声が気だるげに響いた。
「あの隼人の女首長、何を考えてるのか、いまいちわからないわ。香具山ではうちの姫たちと楽しそうにしてたけれど」
「大王、いっそのこと
大将軍の大彦は、大王にしな垂れかかる妖艶な密偵を一瞥して言った。副将軍を務める彦国葺も、それが良いでしょうと頷く。
しかし、草香はふっと笑みを漏らした。
「嫌よ、面倒だもの。他の人を行かせてよ」
「そういえば、伊賀が武埴安の館に招かれているらしいな。阿多姫とあの子は通じるところがあるんだろう」
草香の髪を撫でている大王を見て、彦国葺はため息を付いた。
「お言葉ではございますが、だからこそ用心するにこしたことはありません。油断させて姫に危害を加える魂胆かもしれません」
大和の平安をもたらし、着実に国を豊かにしている尊敬すべき大王ではあるが、最近ではどこからやってきたのかもわからないこの女を寵愛し、偵察を行わせている。
しばらく姿を見せないと思えば、身を潜めて情報収集に従事しているらしい。そして、忘れた頃に現れては大王の寝所に侍るのだ。始めのうちは、大王は色香に溺れているだけかと思ったが、大王は周辺地域や土蜘蛛などに関する未知の情報を知っている。つまり、女はきちんと密偵の責務を果たしていると考えてよいだろう。
とは言え、大彦も彦国葺も素性の知れない草香を完全には信じていなかった。
「伊賀姫が南山背へ赴く際は、私も同行いたします」
「では、俺も。可愛い妹の身が気になりますので」
機密会合に出席していた豊城入彦も名乗りを上げた。一度、武埴安の本拠地を直接見てみたかったこともあるし、伊賀の同行者の中に武渟川別もいると聞いて、これは監視が必要だと考えていたところだ。
「お前も行くとなると、王宮の守りはどうする? どうせ五十狭芹彦と武渟川別も連れて行くのだろう?」
「大将軍と
それほど心配する事態ではないと豊城は考えている。経験豊富な将軍たちを手こずらせるような危険な輩はもはや王宮周辺にはいない。ただ、南山背の武埴安の勢力を除いては。
その後、若い将軍たちが留守の間の王宮の守りをどうするか形式的に話し合い、機密会合はお開きとなった。
初夏の空の色をそっくり映したような碧い水面の上を、白い水鳥が不規則な弧を描いて飛び交う。巨椋の入江――それは湖というよりも海に見える広大な風景に、伊賀は感嘆した。
波打ち際に近づいて湖を覗き込むと、思ったよりも水が澄んでいて、少し先まで続く浅瀬の底までよく見えた。時折きらりと光るのは淡水魚だ。
「気に入りましたか?」
「ええ、こんなに色が豊かな土地は初めて見ました」
王宮からの客人たちの後方で、この地を支配する武埴安が眩しそうに目を細めた。
新妻と違って感情の起伏が控えめで、常に微笑みを絶やさない若い王族は自分の領地に愛着を持っており、大王の娘にも喜んでもらえて素直に嬉しかった。戦が嫌いな武埴安にとって、大王の力で大和から山背までの騒擾がとりあえず払拭されたことは喜ばしく、今後は領地をより豊かにしていくことに専念するつもりだ。
南山背の湖は風景だけが自慢ではない。水面下も周辺の陸上も美味な食材の宝庫である。武埴安は尊い客人たちの舌も楽しませようと、今朝、配下の隼人たちと一緒になって魚介類を採ってきていた。
「夕餉を期待しててね。自慢の食材でおもてなしするわ」
阿多は夫に代わって伊賀たちに南山背の様子を説明し、自分もよくこの入江で魚を採るのだと言った。
「この前、加理志が素潜りの話をしてたけど、わざわざ海に行かなくてもいいわね。もう水温も高いし、明日でも入江で魚採りしてみる?」
「面白そう!」
「お前、泳げるのかよ? 溺れて無様な姿見せんなよ」
武渟川別がいちいち伊賀に突っかかるのは日常茶飯事で、五十狭芹彦はにやにや笑いながら二人を眺めている。無視すればいいのに、伊賀が律儀に応酬するものだから武渟川別もちょっかいを出すのを止めない。
「言ったな。じゃあ、どっちが多く魚を採れるか勝負しよう」
「ああ、負ける気がしねぇ」
伊賀と武渟川別の間に火花が散った。どうしてこうも子供じみた争いが勃発してしまうのかと、豊城入彦は五十狭芹彦に向かって泣き真似をしてみせた。
武埴安の館は規模こそ小さいが、水垣宮の作りと大差なく快適に生活ができる空間となっていた。数代昔に南方から移住させられてきた隼人族たちとも良好な関係を築いているらしく、武埴安と加理志を始めとする阿多の仲間はよく冗談を言い合ったりしている。
宴のための膳はどれも素晴らしかった。王宮の宴ほどの豪華さはないが、素材の味がしっかりと堪能できて、質実剛健を絵に描いた彦国葺でさえ始終上機嫌だった。
「こうして阿多を妻に迎え、隼人の民たちも協力的に働いてくれています。これからは我が領地の豊かな食材を
「それはありがたい。大王もきっと満足されますよ」
「実は贄だけでなく、我らが奉仕できるものがあるのですが……」
武埴安は言葉を切って、隣に座る阿多に視線を向けた。阿多はわかっているというふうに微笑んだ。
「それは私が明日、皆様にご紹介します。武人の皆様にとっても朗報かと思いますわ」
直接見た方が大王にも報告しやすいだろうということで、日が落ちてしまった今日は紹介しなかったらしい。武人に関係すると聞いて、伊賀はあれこれと考えを巡らせた。朗報なのだから大王家に役立つものに違いない。
「もしかして、以前、軍事会合で話してた鉄の供給のことかな」
心のこもったささやかな宴が終り、別棟の客室に引き上げた伊賀たちは阿多が見せてくれるというものを予想し合った。
「それはあり得るね。まぁ、鉄の塊を見せられてもそれほど驚きはしないけど」
「水軍の船はどうだ? そしたら五十日鶴彦、お前の遠征の夢が叶えやすくなるな」
「どちらにせよ、武埴安の統率力は要注意だ。やわな見かけだが、うまく隼人族を従えている」
年長者たちはそれぞれの考えを一通り述べると、夕餉の際にもらってきた酒と肴に手を出し始めた。
軽く酔いが回ってくると、豊城が腕を武渟川別の肩に掛けて引き寄せる。
「ところでよー、未来の大将軍はいつ嫁をもらうんだ?」
「なっ……! 唐突にそんな話題ですか!?」
その場全員の視線を一斉に浴びることになり、武渟川別は取り乱して魚の干物を器から落してしまった。
「仕事と関係ない酒の席だぞ、そういう話をしないで何を話すっていうんだ。縁談くらいあるだろ?」
「ま、まぁ、ないわけじゃないですけど」
「へー、それは初耳だな。どこの娘だ?」
伊賀は色恋沙汰とは無縁の年月を送ってきたが、仲間の縁談話に好奇心を覗かせた。武渟川別の妻になるのは一体どんな娘なのだろう。こいつ子供っぽいから、大人びた年上がいいんじゃないか、などと勝手に心の中で嫁に条件を付けていた。
大彦が息子に持ちかけた縁談は二つ。葛城方面と伊勢の有力者の娘が相手だという。
「それは悪くないな。で、どっちも承諾するのか?」
豊城と共に妻帯者の彦国葺が真面目くさって訊ねると、武渟川別はむせて口に含んでいた酒を吐き出した。
「なんでそこで動揺すんだよ。きたねーな」
五十狭芹彦が呆れて自分の懐から布を取出し、武渟川別に放り投げた。
「今のところ断ってるよ」
「どうして? その娘たちに良くない評判でもあるのか?」
例えば、私みたいに……と伊賀は心の中で付け足した。娘が病弱だとか素行に奇妙な点があるとか、余程の理由がなければまともな縁談を断ったりしないはずだ。しかし、特に変な噂があるわけではないという。
ではなぜと豊城も不思議に思ったらしく、武渟川別に理由を問いただした。大彦にも面子というものがあるだろうに。
武渟川別は俯いて、口ごもる。
「いや、だから、その……。俺には……」
なかなか先を言わない仲間の様子を見て、五十狭芹彦はあることに思い至った。
「もしかして、惚れてる女がいるとか?」
「……」
沈黙が肯定を示していた。やたらと赤い顔は酒のせいだけではないだろう。
豊城はひとしきり爆笑し、根掘り葉掘り訊こうとした。
「誰だよ、その相手って? どこまで関係が進んでるんだ? それとも、手が出せない身分か? っていうと、俺と五十日鶴彦の姉妹に限られちまうな」
「誰かわかってたら苦労はしないよ。王宮でちょっと見かけただけ。すごく可愛くて、淑やかな感じで……。でも、もし大王の姫だったら皆もう人妻だし、そうじゃなかったとしても、どこの誰か突き止めるのは不可能だよ」
いつも子供っぽく馬鹿なことばかりしている武渟川別でもこんなふうに真剣に恋をし、悶々と悩んでいるんだということを知り、伊賀は新鮮な気持ちになった。少なくとも誰かに恋い焦がれるなど、自分には経験のないことだ。
そして伊賀は兄に笑われながらも慰められている武渟川別を見て、なぜだか寂しさを感じた。
(別に私には関係ないことなのにね)
しばらく酒盛りが続きそうなので、伊賀は退出を告げて自分の部屋に戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます