4 香具山と隼人族
嬉しい知らせが阿多姫から伊賀へ届いたのは、武埴安と阿多姫の結婚から数か月後のことだった。
生活が落ち着いてきたので、数人の隼人の部下を連れて大和へ遊びに行くという。私的な訪問だから宴は不要だし、軽装で会いましょうとのことだ。伊賀は自分の宮殿の一角を客人用に用意させ、阿多との約束である手合せのために使いやすく手入れが入念にされている武器を選んでおいた。
翌日には阿多が来るという日、伊賀は定期的な軍事会合に出席した。大将軍の大彦を始めとして、豊城入彦、五十狭芹彦、彦国葺などの将軍や上級職の者、そして武渟川別と伊賀が加わる。
今日の議題は新しい武器の調達方法だった。武埴安の支配する南山背には鉄が豊富に存在するらしく、武埴安に供給を増加させるよう依頼することとなった。
会議終了後、若い武人たちが部屋に残り雑談をしていた。
「今後、大王軍はどうあるべきか、そろそろ考えた方がいいんじゃないか?」
班長級の兵士に監督されながら訓練している兵士たちを眺めながら、武渟川別が何気なく言った。いつの間にか酒を持ち出した五十狭芹彦は、部屋の柱に寄り掛かってにやにやしている。
「拝聴しましょう、武渟川別殿」
「お前も後で何か発言しろよ」
「はいはい。それで?」
「ああ、大王は一気に勢力を拡大したいようだけど、俺は畿内の平定を徹底すべきだと思う。例えば、
その場にいた全員が、かつてこの地を支配していた女王を思い浮かべた。御間城入彦大王がその軍事力を背景に、弱体化した壱与の国を降伏させてから幾年も経ているが、降伏を受け入れなかった者たちがどこかに潜んでいるというのが武渟川別の考えだ。
すると、伊賀は眉をひそめて反論した。
「血眼になって探すほどの勢力じゃないだろ。だいたい、何のために父上が尾張の大海姫と最初に婚姻を結んだと思ってるんだ。東も抑えてるし、南の紀伊だって父上に妃を差し出した。北部の南山背も武埴安殿が守備してるのに、残党が勢いを増すとは思えない」
「そうやって油断してると痛い目にあうぞ。同盟なんていつどうなるかわからないし」
「じゃあ、いつになったら安心できるんだよ? それよりも、水軍を増強して、できるだけ早いうちに遠方の地域にまで大王の威光を知らしめるべきだ」
「どこにそんな余力があるんだ」
「だからさっき、武埴安殿から鉄を流してもらうって話になったじゃないか!」
一歩も主張を譲らず、伊賀と武渟川別の議論は平行線をたどったままだ。そこで、五十狭芹彦が苦笑して、仲介に乗り出した。
「えーっとね、君たち。俺たち有能な将軍の前だってこと忘れてないかい? 将来を語り合うのはいいことだけどさ、まずは己の技量を上げてほしいなぁ、なんて」
「そうだぞ。五十日鶴彦は弓をもっと練習しろ。武渟川別は打撃系全般」
年長の彦国葺まで追い打ちをかけてくるので、伊賀も武渟川別も黙り込んでしまった。
「……すみません」
「つい、熱くなってしまって」
素直に頭を下げたものの、二人はこの日、視線を合わせることはなかった。
数人の従者を伴って現れた阿多は、装飾品の類は貝の腕輪を身につけただけの簡素な出で立ちだった。
「元気そうね、伊賀姫。ちょっと日焼けした?」
「そうかも。ずっと外で弓の練習をしてたから」
「私、弓は得意よ。後で一緒にやりましょう。その前に隼人の仲間を紹介するわ」
伊賀の宮殿に招かれた阿多は、後方に控えている従者たちを振り返った。
随分と色黒の人たちだなと伊賀は思った。一番手前に座っている隼人の若者が、好奇心に満ちた瞳で伊賀を見ている。
「失礼いたしました。我が名は
加理志が畏まって自己紹介をすると、阿多はけらけらと笑い出した。
「お前もそんなまともな口がきけるのね!」
「はっ、王女の御前にございますれば」
ますます加理志は平伏して答える。
「伊賀姫、この男は普段はとんでもなく遠慮のない物言いなのよ。ご覧の通り、日焼けがすごいでしょ。海に潜るのが得意で、本当は人ではなくて魚なんじゃないかと思うわ」
「……では、阿多様のお望み通り、本性を現しますかね」
加理志は口角を吊り上げて、畏まっていた姿勢を崩した。胡座をかいて宮殿の中をきょろきょろと見回す様は、なるほどさっきまでの彼より遥かに自然体に見える。側で控えている宮女は眉をひそめたが、伊賀は人懐っこく野性的な雰囲気の加理志に良い印象を持った。
「気に入ったぞ。とりあえず俺に対しても遠慮はいらない。……私も普段はこんなだから」
「うちの姫よりすげえな!」
伊賀が堂々と男言葉で話すと、隼人の若者たちは目を瞠った。
自分たちの主人も首長として一族を率いて、必要とあらば武装するが、見かけも言葉も女のままである。
「ところで、伊賀姫は生の魚を食したことはある? 海に潜ったことは?」
阿多が訊ねると、伊賀はいやと頭を振った。
「もう少ししたら夏だから、次は武埴安の館に遊びにきてよ。皆で河内の海に行って、魚を採って、新鮮なまま食べるといいわ」
「大丈夫、泳ぎは俺たちが教えてやるさ。海人の連中もいて面白いぞ」
「それはいいな。楽しみにしてるよ」
伊賀は思いがけない誘いを受けて高揚した。
他の隼人の若者は、
翌日、伊賀は阿多を訓練場に案内した。一緒に弓の稽古をするためだ。
すると、訓練場には何人かの先客がいた。
「五十日鶴彦、そちらの姫はもしかして武埴安殿の奥方かい?」
彼女らに気づいて近寄ってきたのは五十狭芹彦だった。いつものように、女を魅了する爽やかな微笑みで客人に軽く頭を下げる。
「阿多と申します」
「婚礼の席では、遠くから拝見しました。武埴安殿との暮らしはいかがです?」
「夫は私と違って穏やかな人なので、隼人族からも慕われています。安心しました」
「……ということは、あなたは気性が激しいのですか?」
五十狭芹彦はからかい半分に問いかけた。確かに、彼女の瞳は鋭く、弓を片手に立つ姿は一筋縄ではいかなそうに見える。
一方、阿多は長身の大和の武人に笑みを向けられ、奇妙な感情が沸き起こっているのを感じた。見慣れた隼人の男とは異なる顔立ち、洗練された武装姿……。これ以上見つめられるのは嫌だという気持ちと、そのまなざしに抗いがたくもっと眺めていたいという気持ちが、阿多を動揺させた。
「あなたこそ、将軍には見えませんね」
阿多は問いには答えず、無理に笑顔を作って言った。
「よく言われますよ。よかったら、弓で勝負しませんか? 俺が負けたら、お好きなものを差し上げます」
「ちょっと、五十狭芹彦! 阿多姫は俺に稽古をしてくれるって」
阿多が困っているのではないかと思い、伊賀は五十狭芹彦に文句を言ったが、阿多は首長の顔つきになって五十狭芹彦を見上げた。
「受けて立ちましょう」
「ということで、悪いけど阿多姫は借りるよ。おーい、武渟川別! 五十日鶴彦に弓を教えてやってくれ」
早速、藁人形の標的に射撃を始めた五十狭芹彦と阿多に、伊賀は呆気にとられ、それから突然可笑しさがこみあげて笑い出した。
阿多姫が大和に来てから数日後、伊賀の提案で香具山まで歩き、食事をして戻ってくることになった。水垣宮から
結局、阿多と五十狭芹彦の弓対決は五十狭芹彦が勝ち、将軍の面目を保ったのだったが、何事にも適当で女に優しい五十狭芹彦が女の客人に一切手加減しなかったという噂はたちまち王宮内に広まった。
「少しくらい勝たせてあげればよかったのに」
香具山に向かう途中、伊賀が五十狭芹彦に言うと、彼は心外だというふうに眉を上げた。
「あれー、五十日鶴彦ならわかってくれると思ったんだけど。君が武渟川別と勝負して、あいつが君が女だからってわざと負けたら、どう思う?」
「……それはすっごく嫌だ」
「でしょ?」
そう言われてみれば、この将軍の態度が正しかったと理解できた。
でも、ここで武渟川別の名が出てきたのは意味がわからない。伊賀は五十狭芹彦の代わりに弓術を教えてくれた武渟川別の態度を思い出して、ちょっと不機嫌になった。
(別にあいつに手加減してほしいなんて、ぜんっぜん思わないけど、人を馬鹿にしたような言い方はないんじゃない? 子供がおもちゃで遊んでるみたいだとか、矢を遠くまで飛ばせないなら手に持って敵に突っ込んだらどうだとか……。あー、もうっ、実戦経験がないくせに生意気だわ!)
手にした剣の鞘で草むらをバシバシ叩きつけていると、背後からふわりと誰かに抱きつかれた。
「伊賀、どうしたの? 可愛い顔が台無しよ」
後方から顔を覗かせたのは阿多だった。その表情がいつになく女らしく朗らかなことに、伊賀は気づいた。
「阿多こそ、何かいいことあった?」
「え、特にこれと言っては……。でも、こうして皆で散歩するのは楽しいわね! あれが香具山でしょ?」
「うん。お腹空いてきたかも」
同行する宮女たちがたくさんの美味しい料理を籠に詰めて持ってきてくれている。護衛に兵士を付けることになっていたのだが、武渟川別と五十狭芹彦も一緒に来ると言い出したため、兵士はいない。もっとも、並みの兵士よりも伊賀と阿多の方が余程強いのだが。
香具山の麓に到着すると、ちょうど山の真上から太陽の光が幾重にも降り注ぎ、神々しい雰囲気を漂わせていた。山はそれほど高くはなく、丘と言った方が適切かもしれない。
中腹の開けた適当な場所を選んで、伊賀たちは昼餉を楽しんだ。
「それ美味そうだな。いただきー」
「何すんだよ、それ俺の好物なんだぞ!」
大事に取っておいた鹿の燻製を、武渟川別に横取りされた伊賀はお返しに鴨肉を武渟川別の木箱から摘み上げた。
「仲が良いのね、二人は」
阿多が笑うと、成人したのに食べ物のことで争っている大王の娘と大将軍の息子は、口を揃えて反論した。
「違う! 誰がこんな大食いなんか!」
「あり得ねー。食い意地張ったガキじゃねえか!」
「君たち、今、どれだけ低級な争いしてるかわかってる? お父上たちが見たら、泣いちゃうよ」
と説教じみたことを言いつつ、五十狭芹彦もちゃっかり武渟川別から果物を取り上げて、阿多に手渡した。
「ありがとう、五十狭芹彦」
阿多は掌にすっぽり収まった果物のような瑞々しい気持ちに、心地よさを感じた。
ゆったりと流れる白い雲や、勢いよく飛んでいく様々な鳥を無心で見上げながら、伊賀たちは香具山での時間を過ごした。
「ちょっと待って」
帰路につくため伊賀の隣を歩いていた阿多が、下山する途中で言った。阿多は肩から掛けていた
阿多は大事そうに領巾を見つめ、歌うように呟いた。
「これは大和の国を作ったもの。大和の国を作ったものはこれ」
「どういう意味なの?」
「言葉通りよ。香具山は天から降ってきた神の山なんでしょう? この山の土は大和の源なんだと思って、少し持ち帰りたくなったの」
「面白いこと考えるのね、阿多は。でも、楽しんでくれたみたいで良かった」
この時、伊賀は阿多のこの言動を、単純に香具山散歩の思い出のためだと思っていたが、阿多の熱い視線が前を歩く五十狭芹彦に注がれていることには全く気づいていなかった。
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