2 女首長の婚礼
ああ、早くこの女の正装を脱ぎ捨てたい。
王家に連なる
「さすがの
「お前が女だってこと、普段は忘れてるからなぁ」
兄の活目入彦と豊城入彦が笑い合い、豊城入彦の大きな手が伊賀の頭を優しく叩いた。
「もうっ、兄上はいつまでも私を子供扱いするんだから」
「だって俺たちの可愛い妹なんだから仕方ないだろ。そういえば、お前に縁談はないのか? もうお前が出るような戦はなくなったんだ。お前はよくやったと思うよ」
「豊城兄上にそんなこと言われると思わなかったわ」
伊賀は少し不満そうに頬を膨らませ、豊城を見返した。
「しかしまぁ、父上も伊賀の素行をよく許したものだ。十を過ぎた頃から武器に興味を示した時には必死になって止めさせようとしてたけどな」
「そうそう、母上なんかお前が男装し始めて、しばらく寝込んでたしね」
今となっては笑い話だが、伊賀の男装と武芸の訓練は当然、大王家に大嵐をもたらしたのだ。娘に声を荒げたことのない大王が伊賀を厳しく叱りつけ、王妃は伊賀を隔離して琴や裁縫や舞だけを教えようとした。
けれども、ことあるごとに伊賀は監視の目をかいくぐって武芸の訓練をしている兄たちの元に走り、おまけに姫としての能力や技術も申し分なく身につけたのだ。
「最初に私をかばってくれたのは豊城兄上だったわね。すごく感謝してるわ。武芸も全部教えてくれて……」
それから同母兄の活目入彦も伊賀の武芸の腕前を本物だと感じて、大王を説得し続けた。
大王はしぶしぶ娘の剣と弓の扱いを見たのだが、どう考えても、筋が良いことがわかり、他の娘のように宮殿の奥深くに閉じ込めておくには惜しいと判断するようになった。
そして、活目入彦が狭穂姫と結婚した頃はまだ大王に従わない輩が多く、度々、畿内外で戦が起きていた。伊賀は半ば駄々をこねる形で戦の後方支援に赴き経験を重ね、今では大王軍には欠かせない武人として成長していた。
「ねえ兄上、私は誰かの妻にはならないと思うわ。戦はいつ起きるかわからないし、私は父上や兄上たちを守りたいの。将軍たちはともかく、他の兵よりよっぽど私の方が戦上手よ」
伊賀の決意は固かった。やっと父がこの大和を平定し、この国を広げて豊かにしていく基盤ができてきたのに、気を緩めて武装解除するわけにはいかない。
父の治世が終わり、いずれかの兄が王位を継承しても同じことだ。命ある限り、伊賀は剣と弓で父や兄、そして大和の民を守りたかった。
(私は大王の娘。結婚相手は王家の人だけど、男装して戦が得意な姫を妻にしたいなんて思う男はいないでしょうね)
この年になっても縁談がないのはそういうことだ。姉たちは皆、王族の若者に嫁ぎ、妹も数ある相手を選んでいる最中なのに。
伊賀は咲き誇る桃の木を眩しげに見つめた。
すると活目入彦は妹の横顔を見て腕を伸ばし、伊賀をぎゅーっと抱きしめた。兄として本当は、もうお前は戦わなくていいんだよと言いたかった。才色兼備の妹に相応しい王家の青年と娶せて、残りの人生を血と鉄の臭いとは無縁のものとしてほしかった。
しかし、八年近くも五十日鶴彦として生きてきた妹がそんな想いを喜ぶはずがないとわかっている活目入彦は、黙って妹の豊かな髪を撫でている。
伊賀は兄の無言の優しさに感謝し、微笑みを返した。
「お話し中、失礼いたします」
簾の外から宮女の遠慮がちな声が聞こえ、豊城入彦は簾を寄せて顔を外に覗かせた。
「どうした?」
「はい。阿多姫が是非とも伊賀姫にお会いしたいと申しております。中庭の桃の木の下で待っているそうです」
隼人族の女首長には以前から興味を持っていた。今日初めて宴の末席から姿を見たが、恐ろしく華やかな顔立ちの中に鷹の目のような鋭い眼光を放つ異質な女性だった。隼人族は武術と航海術に優れていると聞く。
伊賀はどういうわけか、話したこともないのに阿多姫に親近感を抱いたのだった。
「兄上、ちょっと行ってくるわ。私も阿多姫と話してみたかったの」
「ああ、行っておいで」
伊賀は身なりを整え、胸をドキドキさせながら中庭へ急いだ。
宴席では男たちは楽人の奏でる調べに合わせて歌い、陽気に酒を飲み交わし、女たちはそれぞれ歓談している。将軍たちですら武装を解き、昼間から酒を飲んでいた。数年前に比べるとすっかり平和になったものだと、伊賀は思った。
桃の木の下は、風で落下した花びらで埋め尽くされ、薄紅色の世界が広がっていた。
「伊賀姫ですね? 突然お呼びしてごめんなさい。でも、せっかくの機会を逃したくなかったの」
軽やかな声が伊賀に投げかけられた。大和には見られない衣装を着た女性が、小川の畔からこちらに向かって歩いてくる。額に太めの布を巻きつけているのが目立つ。隼人族は元々は南方出身だという。太陽の光のような笑顔で大きく手を振る阿多姫を見て、伊賀の顔も自然と綻んだ。
「阿多姫、私もお会いしたいと思ってました。改めて、結婚おめでとうございます。大和に来たのは初めてなのでしょう? 南山背と違う?」
「うちの領域は北部に大きな湖があるの。
二人は桃の木の下に腰を下ろした。
阿多の衣も奇妙な柄だが美しいと思った。大きな袖口と裾には朱色の線の刺繍が施され、特に帯は複雑な組紐と宝玉で飾られている。背中には同じく朱色の渦巻きが刺繍されていた。
「隼人族の
「面白いわね。大和にはそういう模様はないから。ところで、聞いてるかもしれないけど、私のこの姿は本当の私じゃないの。普段は男の衣を着て――」
「知ってる。数々の戦に行って、武功を挙げたんですってね」
「……驚いた? 認めてくれるのはごく少数で、他の人からは狂人扱いよ」
伊賀は苦笑して肩をすくめてみせた。隼人族の女首長から自分はどう思われているのだろう。
しかし、阿多は頭を横に振り、何かを懐から取り出して伊賀に示した。それはよく磨き上げられた鉄の短剣だった。
「私も同じよ。一族を守るために武器を取って戦う。首長として当然でしょ?」
ああ、そうか。似た者同士だから、不思議と惹かれてしまったのかもしれないと伊賀は納得した。
朱色の組紐が括り付けられた鞘に短剣を収めると、阿多は再び大切そうに懐にしまった。
「まぁ、あなたのように男装はしないけど。隼人族では女も戦うのがそれほどおかしなことじゃないから」
「それは、羨ましいな」
「その代り、朱の粉を顔に塗って出陣するのよ」
「へぇ……。ねぇ、今度、手合せしない? どこか広い場所で。ほんとは今すぐにでもこんなひらひらした衣は脱ぎ捨てて、剣の稽古をしたいとこだけど」
「いいわね! じゃあ、南山背に戻って色々片付けたら、やりましょう」
約束よと言って、阿多は微笑んだ。そして、自分の額を覆っている朱色の布を解くと、きれいに畳み直して伊賀に差し出した。
「私にくれるの? 大事なものじゃないの?」
「お近づきになれた印よ。武埴安の妻は、大王の娘、伊賀姫に恭順の意を示します」
「どうしよう、私、お返しできるようなものは……」
思いがけない贈り物をもらい、伊賀は慌てて自分の身を確認した。そうだ、これがいい。伊賀は首から下げていた水晶玉の飾りを外して、阿多の首に掛けてあげた。水晶は木漏れ日の光を吸収して細かく星のように煌めいた。
「こんな高価な首飾りをいただくわけにはいかないわ」
外して伊賀に返そうとする阿多の手を押しとどめて、伊賀は言った。
「水晶も魔除けだからおあいこでしょ。大和と南山背の友好の証にはぴったり」
「……ありがとう、伊賀姫」
それから二人は、宮女が呼びにくるまでおしゃべりに興じたのだった。
そして、伊賀が宮殿内に戻り、簾が巡らされた部屋に向かっている時、その可憐な姿と美貌を遠くからじっと見つめている若者がいた。
(あれはきっと桃の木の下で会った天女に違いない。間近で見たわけじゃないが、面影があるような気がする)
少年時代を脱し、精悍な武人に成長した武渟川別は久しく忘れていた甘い記憶を不意に思い出して動揺した。名前もわからぬあの娘には、ほぼ間違いなくもう夫がいるはずだ。今日は婚礼の宴ということで、一族が揃っているが、日が落ちた後になればそれぞれの宮殿に帰っていく。
手の届かない相手だという事実が、武渟川別の情熱を一気に燃え上がらせた。
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