追悼 安らぎの時間 Moment.

第一章 静かな場所で by_Inari.

   一


 ジャズの音楽が流れている。

 落ち着いた音色は、薄暗く狭いバーの片隅に設置されているアナログレコードから、時折ジジッという雑音を混ぜて響いていた。

 店内にはカウンター席のみ用意され、バーカウンターにはロックグラスに琥珀色のウイスキーが注がれ、中にはプカリと丸い水晶のような氷塊が揺れている。その隣には、カクテルグラスに注がれた桃色と白乳色が混ぜ合ったかのようなマーブルの色味を持つカクテルが注がれている。

 バーテンダーの姿は見当たらず、店内には一人。店に似合わぬ白衣の姿と女性とも変わらぬ長い黒髪を靡かせ、手の指先に包まれたロックグラスをゆらゆらと弄び、琥珀色のウイスキーの中で泳ぐ氷塊を揺らしている。


 カツンッ……カツンッ……。

 奥から、足音が響いてくる。

 木製の階段を一段一段踏み、降りてくる誰か。


 木製の壁にへだたれた階段の先から現れたのは、彼とは相反し、白い髪を腰より下まで伸ばし、ピクッと動く獣のような突き上がった耳、フワフワと弾力の強そうな尻尾と、白一色のセーラーブレザー姿。ミニスカートはヒラヒラッと揺れている。


「来たか……」

 彼女の姿を見ずに、青年は小さく吐き捨てた。


「「来たか……」じゃありませんよ、コクト。突然呼び出したかと思えば」

「そう言うなって、オイナリ。……座りなよ。こう言うときくらい、酔わないと気兼ねなく話なんて出来ないだろ?」

「……まぁ、では」

 渋々、彼女は彼の隣のカウンター席に歩み寄る。スカートの後ろ丈に手を添え、背もたれは無いが柔らかい素材のクッションに腰掛けた。


 目の前に置かれたカクテルグラスを一見し、彼を見返す。彼はその目線にコクッと頷き返した。其れが合図なのか、彼女はカクテルグラスに指を添え、もう片方の手をそこに添え一口。

 柔らかな唇に触れたカクテルグラスは傾けられ、寸分だが彼女の口の中を通り、下の中で泳ぎながら、喉を通る。

「……甘いですね」

「『ルジェストロベリー・コラーダ』。ココナッツの味わいとパイナップル、牛乳を合わせたカクテルさ。……とは言った物の、カクテルは知らないか。酒の分類だけど、ジュースと合わせて呑むって言えば解るだろ?」

「えぇ、それに、然程強くは無いようですね」

 その一口の後に、口元に手を当てて小さく賞賛するオイナリ。その姿を小さく微笑みながらに、彼もまたロックグラスの中のウイスキーに一口つける。


「ですが、本日はこのような理由でお呼びになった訳でも無いでしょう?」

「……なぁ、オイナリ」

 彼は、グラスをカウンターに置き、小さく息を吐き捨てながらに語りかける。その横顔を見つめ、どんな言葉が出るのかと眺めているオイナリだったが、その姿は何処か深刻そうな訳でも無く、何か、懐かしくも感じるような人の当たり前の状態という言葉が似合う……穏やかな表情だった。


「私だって人間なんだ。時には酒に弱りたくなる。こんな時にしか話せないことがあるって言っただろ? ……少し、洒落た話をしようじゃ無いか」

 手の中に持ったロックグラスを揺らし、また中で漂う氷塊を見つめる。


 彼のそんな言葉を聞き、彼女は少し目を見開くように驚いた。

 だけど。

 そんな彼を見てか、彼女は小さく吐息を漏らすと、その口からまた漏れるように小さく吐き捨てた。

「……コナユキ」

「え?」

「今日の私は、コナユキです」


 彼女と彼と――そして、少女とのだけの約束の名前。

 そのもう一つの名前である時、それは、彼女にとって何者にも縛られない、女としていられる時間だった。


「……そうだな、コナユキ」

 彼はまた、小さく笑った。

 そんな彼の儚げな笑みに、彼女も釣られてか小さく微笑む。


 こんな時間は何時以来だろう、と。コナユキは心の中で過ぎ去ってきた瞬間を思い詰める。友を失い、義妹を失い……ボロボロの躰で進み続けてくれた、一人で護り抜いてきてくれた。


 ――そんな少年に、少女としてせっせる時間。


「こんなにゆっくり話せる時間。今まで無かったから、何を話せば良いのでしょうね」

「何、思いついたら喋れば良い。時間も、仕事も、何もかも忘れて酒と共に酔う。其れが大人の特権さ。ゆっくり、認めながら時間を掛けてこの瞬間を味わえば良い」

「あら。ですけど、貴方お酒はそこまで呑まれていましたか?」

「遮光で呑む場が増えてね。何、齢二十歳を小さく過ぎ去りながら、今では親しむ程度には隣人として付き合っているよ」

「それって、もしかして私とは社交と?」

「真逆。社交も嗜みも……酒は言葉を増やす。要らない物も、欲しい物も……抑えてた物も」

 彼は、儚げな瞳でロックグラスの中の氷塊を眺めた。


 揺れ動き、薄暗い部屋の中の微かな光を浴び、暖色の小さな輝きを照らし出している。

「なら、少し私も酔いましょうか」

「何故だい?」

「だって、私も建前上は神様ですよ。抑えたい物もありますよ。……それに」

 カクテルグラスのふちを、指でなぞる。

 肘を突いた腕の掌に頬を乗せ、微睡むような瞳がカクテルグラスを見つめていた。仄かに赤らんだ頬の近くでは、口が小さく笑みを浮かべている。


「今この瞬間に、貴方と話せる言葉があるのなら、酔わなきゃ語れませんよ」

「そっか……、口うるさくならないでくれよ? 最近じゃカコとミライからの言葉責めに耳鳴りが起きそうで怖い」

「ふふっ。お二方は熱心ですからね」

「ああ。あの熱意は、なんとも懐かしいね」

「貴方だって、近しい歳でしょう?」

「始まりから此所に居るんだ。歴史は人を古くしてしまう」

「まぁ。それなら私は? 貴方より年上ですよ?」

「……参った。年上からも年下からも小五月蠅く責め立てられてしまっては鳴る耳も止まぬよ」

「まぁ酷い」

「事実じゃ無いか」

「いえ、違いますよ」


 そう、彼女は微笑みつつ彼の横顔を見つめながらに言った。

「女性は、いつまでも子供のように居たいものです。愛する者の隣に居るなら、尚更に」

「ははっ。愛されているか? 私は」

「ええ、愛していますよ」


「嗚呼、全くどうにも……彼奴らにも愛されていると良いのだがな」

 そう言って、彼は天井を見つめた。

 哀しそうな、小さくあきれを含んだ儚げな瞳で、木天井を。


「(そういう意味じゃ無いのに……)」

「何か言ったか?」

「別に。何も」

「? そうか」

 小さくムクレた頬。

 彼は、そんな彼女の横顔を……首を傾げながらに眺めていた。

 だが、小さく息を吐き捨てると、彼はまた前を向きグラスに口を付ける。

 そして、カウンター席をグルリと一八〇度回し、カウンターにもたれ掛かるように肘を突きながら、片手にロックグラスを掲げ、壁を見つめた。

「忘れていたな」

「何をですか?」

 彼に対してか小さく不機嫌みを表してか彼とは反対にカウンターの方を見つめているコナユキ。そっぽを向くようにして彼に問いかけるが、彼は気にすること無く微笑みながらに吐き捨てた。

「乾杯だよ」

「今更、ですね」

「良いんだよ、これは祝杯さ。今日という日に」

「何か、祝い事でもあったのですか?」

「無い」

「なら何故?」

「何気ない一日。今日の終わりと、明日の始まり。今日この場所で君と出会えたこと。何でも良い。その時、その瞬間。些細なことでも良い。小さな一つの祝杯は、約束の一杯とも成るのだ」

「……約束の、一杯ですか」

 瞳を細め、彼女は指先で摘まむようにしてカクテルグラスを持つ。先程までのムクレが消え、再び小さく微笑んでいる彼女。今日という日は、きっと彼女にとっても特別になるのだろうか?

 だが其れは、誰にも解らない。


 でも。

(貴方と共に過ごせる日が在るのなら、私にとってその日は……)


 底をカウンターテーブルから離し、小さく掲げられたカクテルグラス。

 隣では彼が彼女とは相反した方向を向きながら、その顔にはいつもの不敵な……でも何処か、満足そうな笑みが浮かび上がっていた。


「「乾杯」」


 何か、特別な声が上がる訳でも無かった。

 グラス同士を軽く当てることも無かった。

 ただ、小さく一言。その言葉だけを吐き捨て、彼女達はグラスに口を付けていた。


「……あぁ」

 その一口を付け終えた青年は、また椅子を回してカウンターの方向に戻る。

「旨いな」

 次に吐いた言葉は、心からとも思えるような、重々しいトーンの声だった。

「まあ、もうお酒の魅力に取り憑かれてしまいましたか?」

「真逆、お酒は一人で飲んだ所で、旨みなんて無いよ」

「なら、どうして?」

「君が隣に居てくれる。唯それだけで、酒は味を変えてしまうんだ」

「……ッ!?」

 突然の言葉に、一層頬が赤らむコナユキ。

 酔いの性だと顔を左右に振るい、またコクッとカクテルに一口付ける。


「言葉選びが上手い事ですね」

「冗談では無いつもりだけどね」

「そ、そういう言葉は、想い人に語る言葉では無いでしょうか?」

「想い更ける人なんて、もう君しか居ないだろう?」

「……ぁ」

 そうだった。

 彼女は今になって、今日この日の理由を理解した。

 彼は、酒に暮れる事などしない。それは、どんな場所でも弱音を吐く事は無いし、押し殺す事に長けてしまった心を持っているからだ。

 そんな彼が、心許せる者。

 それは単純な優位列を並べても、残っている者は最早片手にも満たないのだろう。


 人なのだ、彼も。

 どれだけ取り繕い、どれだけ解れを縫い直した所で、その生地は人という素材で出来ているのだ。


「……弱いなぁ、私も」

「そんな事、無いですよ」

「あるさ。女に涙を流させてしまったら、男失格だろ?」

 頬に流れる、一筋の雫。

 透明で、透き通った心を映し出すような、綺麗な水滴が、一粒、一粒とカウンターに付着する。


「全く、貴方は少し言葉を選んで欲しいです。私は貴方が想う程、良い女ではありませんよ」

「女さ。君は優しい、純粋な女の子だよ」

「女の子ですか……ふふっ、こんなにも年が離れていますし、種族も違いますけど?」

「変わらないよ。どれだけ離れていても、此所に居る限り、君は僕が守るべき女の子の一人だ」

「酷い人」

 そう言って、彼女は彼の肩にふと、もたれ掛かる。

 涙は無い。だが、その表情の見えぬ少女を肩に、彼は小さく微笑む。


「酔ってしまいました。だから、今日だけは貴方の隣に居させて下さいませんか?」

「ああ。俺も酔ってしまったよ、コナユキ。今は酔った私の心の隣に居て欲しい」

「ええ、構いません」


 バーのカウンターで、男に寄り添う女が一人。

 その背中は、何処か哀しげで、弱々しかった。

 女はその尾を小さく揺らした。

 男は、酔った女の頭を優しく撫でた。


 今日だけの、特別な時間。

 だけど。


(いつか、貴方が解きはなたれた時は……その時は、ずっと)

 少女の心を持った女は、切に想う。

 この時間の、永遠の延長線を。


 其れがいつ、訪れるか。

 それとも、永劫に訪れぬのかは解らない。


 でも、それでも。

 その思いが冷めるまで、ずっと。


 ――貴方の隣で。


   二


 ジャパリパーク。

 パークセントラル跡地。


 数年、数十年。

 それ程までに時間が過ぎたその場所は、嘗ての輝きの残骸が転げ回り、建物は老朽化し、場所によっては崩壊した物もある。


「……、」

 その場所で、白き髪靡かせ、白一色のセーラーブレザー姿をした少女が一人。尖ったような耳と、白くフワフワとした尻尾を揺らして、その跡地を歩み回っていた。


 嘗ての面影が消え、今は無き夢の残骸に、表情を変えず、歩み回っていた。

 大きな建物や、巨大な円状の遊覧器具。


 数果てぬアトラクション達は、今では寂れ果てている。

 そんな跡地の中を歩み続けていると、ふとある場所でガサガサッと何かが音を立てていた。


 その音に耳を傾け、その発信源へと歩み寄っていく。

 そこは、きっと何かの建物があった場所だった。


 きっと、地下が存在していたのであろう、一軒家らしく建物は、その一階が丸々と消え、地下の階が天井を吹き抜けにて露わになっていたのだ。


 その中を覗き込んでみると、彼女はふとある者に出くわした。

「……おや」

「……ん?」

 首から提げた傘帽子に、鬼のように髪の中から飛び出している二つの耳。焦げ茶色の主体としているようなセーラー姿と、真ん丸としている尻尾。


「なんじゃ、御主かオイナリ」

「「御主か」じゃありませんよ。何をやっているんですか? イヌガミギョウブさん」

 イヌガミギョウブと呼ばれた彼女はニッシッシッと悪い笑顔を浮かべ、またガサゴソとその場所を漁り上げていた。

「酒の臭いを嗅ぎつけてのう。此所には面白い酒が山程あるぞ」

 多少呆れながらに、彼女はスタッと地下階に降りる。中は壁の木々が腐食し崩れ落ち、木製のカウンターと席が一つ。

「地面の下の、部屋、ですか?」

「さあのう。じゃが、人間は面白い事をする。……ん? なんじゃ、器か」

「わわっ!?」

 イヌガミギョウブが興味なさげに放り投げた何かを、慌ててオイナリはキャッチした。その手の中に放られたのは、埃を被っており、ふちが小さく欠けているだけのカクテルグラスだった。

「……?」

 首を傾げる彼女は、ふと、まるで其れが身についているかのように、唯一残った席に腰掛け、カウンターにグラスを置いて、肘を突いた腕の掌に頬を乗せた。

「……ん? 何をしとるのじゃ?」

「いえ、なんか……懐かしい気がしまして」

「ほぅ。御主西洋の酒に興味があるのか?」

「西洋ですか?」

「なんじゃ識らんのか。その器は西洋の器でな。何を入れるかは知らぬが、その小さな器に酒を入れ込んで呑んでいるらしいぞ。まぁ、そんな小さな器にコツコツ入れて何が楽しいのじゃろうなあ?」

 イヌガミギョウブは興味なさげに吐き捨てていた。

 だが、そんなグラスを指先で摘まみ持ち見つめながらに、オイナリは小さく微笑みながら吐き捨てる。

「きっと、時間を掛けて味わっていたのでしょうね」

「味をか? 少量程度ではのう……酔わねば変わらぬじゃろ?」

「さぁ、でも……」


 風が、通り抜ける。

 風は彼女の白く長い髪を揺らす。

 風が運ぶ音に耳を傾け、小さく微笑みながらに彼女は、何処か懐かしげな表情で語っていた。


「きっと、甘く切ない時間を味わっていたのでしょうね」


 永遠に続いて欲しいと望む瞬間。

 だが、時とは有限であり、望んでも永遠は来ない。


 だから、その小さな瞬間を、味わい含むのだ。

 そして、きっと……。その幸せな時間に認めながら、瞬間を想うのだろう。


 そのグラスを掲げて。


「『乾杯』」

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