第一四節

 通常経営が開始し、ジャパリパークはいつも通りの営業を開始した。

 ミタニの死去に関して言えば、矢張り落ち込んでいる研究員も多かった。だが、嘗ての三人の思いが、ミタニも同じだったと思うと、その涙を振り払い立ち向かうように進み始める。

 決して、無駄では無いのだ。


 だが、結局の所ミタニの空いた穴は大きい。

 結果コクトは総務課の業務を一時的に減らし、研究重視の態勢で動く事を余儀なくされた。


 無論、このままで良い訳も無い。

 コクトも身体は一つのみ、嘗てはともかく、大拡張したジャパリパークという大企業を一人で回すのには限界がある。

 其れを見据え、コクトは考えていた計画の実行を早める事にした。


 それは……。


「カコ」

 研究所内で、コクトは少々癖毛の強い紺色のロングヘアの女性、カコを呼び止める。

 クリップボードを片手に振り返った彼女は、コクトに一礼をして何かと伺った。


「以前から続いていた研修だが、今時期に置いて君を一人の研究員に任命しようと思う。簡単に言えば正社員雇用なんだけどね」

「え、あ、ありがとうございます!」

「良いよ良いよ。それで、此処は慣れたかい?」

「ええ、研究員の方々も優しいですし、何よりフレンズが身近に居てくれて、その、楽しいと言いますか。所長さん達のご指導もあって……ぁ」

 ふと、カコは何かを思い出したかのように口籠もる。

 大方ミタニの事だろう。コクトの手が空いていない時は基本的に彼が見てくれていた。カコもカコなりにその話を出す事に、それも相手が相手なだけに少々気負う事があるのだ。

「なに、気にしなくて良いさ。アイツも、そう言ってもらえるのが一番嬉しいだろうからさ……ケホッゲホッ」

「うぇ!? 大丈夫ですか?!」

「悪い悪い、珈琲飲んだばかりでちょっと咽せた」

「び、びっくりしたぁ~……」

「……ははっ」

「な、何ですか?」

「いや、肩の力が抜けたというか、殻が割れたようで安心したよ」

「え?」

 無意識……なのかも知れない。

 だが、職場にて場に慣れるというのは、大きな進歩でもある。カコも今では少しずつ敬語や話し方が気さくな風に成りつつあったのだ。


「何でも無い。ああ、一応だが、研究員に成った際の役職なんだが」

「えっと、取り敢えず平……社員?」

「それは~……、事務所の方だったらね」

「研究員は……所員ですかね?」

「合っては居るが、大体は違うな」

「えっと……チーム事に職名が別れたり?」

「臨機応変型なんだ。其処まで制限した役職はうちには無いよ」

「え、じゃあ、後は……」



 一言だった。

 コクトは、彼女に面と向き合ってそう言い放った。

 まるで、自分が上司を職名で言うような、それでいて、自信も信頼も含まれるような言い方で。


「……、」

(……うーん。そうなるか)

 因みにそれを聞いた本人は、挙動を止め思考が停止していた。カッチーンと、氷漬けのように固まり、寸分も動かなくなっていた。開いた口は大きく開いて塞がらず、見開いた目の瞳孔は爛々と開いていた。


「お、おーい。ふくしょちょー。カーコさーん?」

「……う、うぇ、えぇぇぅ……ぇ??」

 目がグルグルと回り、次第に焦るように蒸気を噴き出す。プスンプスンッと蒸気音が鳴ると、プシュゥ~と口の開いた風船のようにショートし出す。


(なーんか、死ぬ程業務を押し付けられた俺みたいに成ってるな)


「……ハッ! ひっひっふー……ひっひっふー……」

「うん、呼吸違うね。君も大概見ていて楽しいな」

「そ、そうですかね……いやいやいや!! 私ですか!? 私なんですか!!!?」

「あえて言うよ。君だからだよ」

「……え?」

 カコに対するコクトの顔が変わる。

 気の抜けたような目では無い。真剣で、真っ直ぐで、今のコクトに至っては自分でもいえる事なのだろうが、彼の言葉に嘘やペテンは無い。

「俺は、君だからこそ、副所長を任せていきたいと思う。君の目はとても良い目だ。だが、その目を強く使い続ければ孰れ見たくも無い物も……深淵のような酷く深い裏側まで見てしまうだろう。そうなれば其処の主は君を見返し取り込もうとするだろう……」

「えっと……それは?」

「今は気にしなくて良いよ。でも、此れは教訓として聞いておきなさい。もし、淵の底まで追いやられたなら、その時、

「……はい……?」


 コクトはそれだけ告げると、元の気の抜けたような窶れた目の彼に戻る。

 先程までのは何だったのかと言いたくなるようなその切り返しも、困惑する彼女にとっては気がかりに成るような瞬間が無かった。


「ま、取り敢えずは副所長となる訳だが、正式な就任は来期となる。それまで知識と教養、後は経験を良く積んでおきなさい。怠けていれば普通の子に抜かされるからね」

「は、はい!! ……あっ! すいません、時間ですので失礼します!!」

「うん、呼び止めてごめんね。頑張れ」

 コクトの言葉に、彼女は一礼をして立ち去る。

 そんな彼女の姿を見て、コクトはその背中に向かって小さく吐き捨てた。


「ホントに、純粋だ。見ていてコッチが心配してしまうように、脆く儚い……」


 研究者は、時に子供のような純粋な考えが一番の材料とも言われる。だが、それでもそれは時に喉元に刺さり来る研ぎ澄まされた鋭利な刃としても襲いかかる。

 純粋という力は、時に脅威に対して無頓着という無防備さも有るのだ。


 でも、それでも、願わずには居られないのだ。


「どうか、君の将来に幸が有りますように」


 彼女への救いは、きっと何処かに有る。


 でもそれは、悪鬼羅列に立ち向かう彼では無く、純粋無垢で、意固地な、彼女の理解者なのだろうから。


   *


 ――対比と、言うかも知れない。


 人生を投げ出してでも誰かの願いを叶えようとする者と、

 人生を費やし純粋な思いを成し遂げようとする者。


 この男とて、今の原動力は嘗ての妹の願いで有り、そもそもとして彼自身に己の行動動機は無い。残酷な話ではあるが、今の彼は自分の為に生きていない。そもそも、その一生を投げ捨てている勢いだろう。


 対し、彼女はどうであろう。

 純粋無垢のように見えても、その純粋な願い故の奥深い闇が在るのではないのだろうか。純粋性は汚染されやすいが故に、最も考慮すべき点だと誰かが言った。嘗ての天才性と同じくして。


 故に言おう。

 例えどんな場所に立とうとも、苦難は常に前に立つ。

 そして、それを救える者は、欲深くとも二択を選ぶという選択をしてはいけない。何せ、人の手に掬い取れる物など、限られているのだから。

 ならば、どちらを救う。


 この難問に対して、男はいとも簡単に答えを選択した。


 ――己の犠牲で、誰かが救えるのであれば、喜んで死地に向かおう。前へ進む者の背に這いよる闇を、一身に受け止め、、と。


   *


 ――ガッ……ガガッ


 ――ア……ガァ……ガガガッ


 ――ギ……ガ……ギィ……ガァ


 ――……ィ……ァ……ィ……


 ――……………………………………………………………


 ――…………………………………………


 ――……………………………


 ――…………………


 ――………






 ――イア……イア……


   *


 コクトは夢を見ない。

 否、正確には、夢を見る状況が無い。

 彼は自分に対して酷く過酷で、睡眠時間など殆ど無いに近い。

 仮に寝たとしても、人の睡眠とはレム睡眠という浅い眠り中――つまりは、意識が微かに残っている睡眠状態で無ければ夢を見る事は無く、過酷な労働後の睡眠は熟睡状態に陥る事が殆どで、そうなってしまうと夢を見る事は無い。


 コクトもそれに近く。

 かといって時間が来れば自身の身を強制的にでも起こさせる。


 だからこそ、夢など見る事は殆ど無かった。


 筈だったのだ。


 その日だけは違った。

 汗まみれになりながら、研究所のソファーでゆっくりと身体を起こす。

 寝ていたはずなのに、妙に寝覚めが悪い。

 いつもの事と言えば違いないかも知れないが、それでも今日は最悪だった。


(……アレは、一体)

 頭を押さえ、苦悶の表情を治そうと、誰もいない研究所を歩き給仕室の洗面台まで向かう。

 洗面所に立ち、自分の顔を鏡で見る。


 ……酷い顔だ。


 感想はその一言だった。

 目の下のクマは頗る黒く、窶れたような表情は死人の顔に近い。

(……私も、意外と酷く心が弱い人間らしいな)


 ミタニの死去以降、コクトは何かに没頭するかのように仕事をしてきた。何かを忘れるように、何かを気にしなくて済むように……いや、違う。

 それに近いが、それには遠く、ただもっと、酷い物。


 彼は人間だ。

 人体構造が如何に跳躍していようとも、その心は人間で有り、彼の心とは誰よりも弱い物かも知れない。耐え続けた物は、器には収まりきらず、グツグツと溢れ出していた。


「……、」

 冷水を顔にぶつけ、目を覚まさせる。

 びちゃびちゃと音を立てて流れ落ちる水滴を少し見つめると、水を止めてタオルを片手に顔の水を拭う。


 いつも通りの、表情の一切が変わらない当たり前の顔。

 今まで少し笑えだしたはずなのに、今はどうにも笑顔を作るのは難しい。

 その中でも一番嫌だと思うのは、作り笑顔だけは完成し尽くされている事だった。


 ただ、作った笑みを鏡に見せていると、瞳辺りに残った水滴が流れ落ちていく。


「……、」


 大きく溜息を吐き捨て、タオルを使用済みの籠の中に投げ込む。職場に戻ろうと洗面台周りを片付けていると、ふと鏡越しに映る彼の肩当たりで、とんがった薄焦げ茶の耳がピョコンッと映る。


 コクトはそれの正体に気がつけば、小さく溜息を吐き捨て、その正体にこう言った。


「今日は……ちょっと新しいゲームが入ったんだ。遊んでいくかい?」

 コクトの言葉に、耳が反応するようにピョコピョコ動き、その正体が顔を出す。


 最近になって、よく遊びに来るようになったフレンズ、キタキツネ。今の彼にとってはある意味休息の一時の一人となっている。


「何のゲーム?」

「RPGっていう、簡単に言えば旅をしながら強くなって、ラスボスを倒すんだ」

「……楽しそう!」

「だろ? 協力プレイも出来るんだ、この前のギンギツネも連れてきたらどうだ?」

「今日は実験って言ってた。でも、ここには後で来ると思う」

「君は朝早いの大丈夫なのか」

「……うん」

 少し、今までとは違う間があった。よく見れば目を擦っている。未だ眠いのだろう。


(何というか、ゲームを楽しんでくれるのは嬉しいけど、徹夜明けに未だゲームしてるようで、何となく微妙な気持ちだな)

「……どうしたの?」

「ん?」

「……何でも無い」

「? そうか」


 彼等は互いに所長室である彼の部屋へと歩いた。途中、キタキツネのギンギツネへの愚痴や、どのゲームが面白かったのか、色々話した。基本無口だと言われていたフレンズであるキタキツネだが、意外と良く喋る。それだけ熱中できた物で、熱く語れるのは中々に、勧めた本人としても嬉しい所だった。


 部屋に着けば、箱からゲームハードを取り出しテレビに接続し、起動させる。中に入れられたソフトを起動すれば、テレビから少しレトロチックな音楽が流れ出した。

 今ではテレビに対して何ら驚く事が無くなった。

 と言うのも、どうやら一度「テレビを解体したい」と言いだしたギンギツネに対してキタキツネが全力で止めに言った事があるらしく、その後に支給された古いテレビを解体して、正確にはわからなくとも「そう言う複雑な何かで出来た物」と言う事は理解したらしい。

 それからはリモコンを自由に扱ったり時偶テレビ番組を見に来たりと、先進的な姿が多く見受けられた。


 人類史でも、人の根源である『ホモ・サピエンス』は「動物達とは違った進化を目指した」と考えられている。もし、動物もこのような先進的な進化を遂げたのであれば、有る意味無い未来でも無かったのかも知れない。

 そう考えると、フレンズ化とは現象では無く、パラレル的な進化の一つなのかも知れない。


 とも成ると、コクトの中には、それが別物と言うよりは、最近は本当にこの地球上に生息してきた同じ生物として、本当の意味で考えを巡らせるようになってきた。

 言うなれば、新しい物には親近感は湧かないが、古い物や懐かしい物、知っている物に関してで言えば妙な理解があるという物だろうか。


(……まぁ、本当の意味での「理解する」って言うのは、簡単じゃ無いんだろうな。私ももうちょっと……?)

 ふと、肩に何かが当たる。

 いや、当たると言うよりは乗りかかるような、それに近い。


 其方側を見れば、それは肩に頭を乗せるキタキツネだった。

 良く聞き耳を立てれば「スー……スー……」と吐息を吐く音に、力の抜けた手から、コントローラーが落ちている。

 朝早くから来ていた為にか、どうやら疲れて寝てしまったようだ。

「……全く」

 そう吐き捨てたコクトだが、苦労や面倒と言った負の感情は無かった。

 彼はゆっくりと彼女を座っていたソファーに寝転がせ、落ちたコントローラーを拾い上げる。


 カチカチと、今まで進んだ場所でセーブをする。

(そう言えば、最初の頃はセーブなんて知らなかったから、カイロにとことんどやされたなぁ……あの目ん玉飛び出るような顔が懐かしいよ)

 ふと嘗ての記憶を思い出しながら、セーブを終わらせ電源を切る。

 毛布を持ち出して彼女に掛け、魔が差したのか彼女の頭を優しく撫でる。少し微笑んだような気もしたが、特にそれ以上何もする事は無く、彼は自分の仕事机に戻り、黙々と作業をし出した。


   *


 ――酷く醜い人生を送ってきました。

 多くの物を取りこぼし、流れ落ちる物に必死に手を伸ばしていた筈が、別の方向へと手が伸びてしまっていました。何も引き寄せる事は出来ず、出来た物が有るとすれば、不幸や厄などでしょう。今思うと、私の存在意義に不安を感じてしまうのです。

 ですが、それでも時偶横に居てくれる誰かがいます。

 私は、隣に立つ誰かの為に、真っ当な道を進めるでしょうか。いえ、真っ当では無くとも、私は隣人に、私の隣に立とうとする誰かの為に、未だもう少し、頑張りたいと思うのです。

 この悲惨な人生を送った私が、人並みの幸せを求める事は、きっと善い事では無いでしょう。


 でも……。


 それでも……。


 それでも…………。

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