第一五節

 とある日。

 黒斗は、本島に私用の用事に来ていた。


 今までとは見慣れないスーツ姿に、黒髪ロングの髪を後ろで軽く纏めている。人前に出る為に不十分の無い服装を装いながらも、彼は一つのビルの中から出てくると、鞄から一つのハードカバーの本を取り出した。

「……やっとだよ、櫻」


 その本を少し物悲しく見つめると、鞄の中にしまい込み、彼は歩き出した。


   *


「戻ったぞー」

 事務所内にコクトの声が流れる。

 それを耳にした職員は皆々「お疲れ様でーす」と反唱してきた。


 自分の席に座り、事務業務の資料を見つめ、手早く処理を済ませていく。本来一時間で終えられるような溜まった事務作業を五分で終わらせると、コクトはまた席を立ち「行ってくるー」と言い事務所を出た。

 その小さな時間の中で当たり前のように働いていた職員達は、ふと疑問を抱き始め、最後には誰かが声に出してその疑問を言った。


「今日あの人公休じゃありませんでしたっけ?」


 流れ作業のように事務を終わらせたコクト。

 当たり前のようなその流れに、職員達は頭の上に疑問を募らせていた。


   *


 ジャパリパーク保護区内。

 フレンズ専用大図書館。通称ジャパリパーク動物大図書館。


 ジャパリパークには、人と同じような公共施設を幾つか配備されている。それは、彼女達の興味という成長の兆しを自分たちが奪わないようにする為にも設計された場所で有るのだ。


 公共施設とは言うが、運営の大体はガイド部や、住み着いたフレンズなどが自主的に行っている事が多い。彼女達の興味は職に対しても大きく、またはフレンズ化の際の動物としての特性の反映によっては進んでする者も居る。

 保護区の本質は「人の手をなるべく省いたフレンズの自立性の主張」を表立たせており、雑多に言えばフレンズのみの文明改革を考え入れた物だったりもする。


 干渉的で不干渉。

 その曖昧なラインを確定させ、どの部分までを干渉値とするかも、昨今のジャパリパーク内では大きく討論されている。


 そんな場所の一つで有り、ある種のフレンズにとっての学の祭典地でもある大図書館で、コクトは段ボールを両手に図書館内の児童書のコーナーに来ていた。

「コクト殿、図書の整理であれば私にお任せ戴ければよろしいのですが」

 付き添うように後ろから着いてくるフレンズ。

 それは、このジャパリパーク大図書館で司書代行を務めるヘビクイワシだ。


 自らと書記と呼称し、その呼び名通りフレンズの中でも文才や書集などの才能は特筆物だ。適任中の適任である彼女だが、フレンズ化という中での特性で、こう言った人類学における才能を持つフレンズは珍しい。


「いや、大丈夫。それに、この本は私が贈呈したい本なので」

「贈呈書ですか? でしたら、あちらにフェア用の台がございますが……」

「そこまで大それた事はしなくても大丈夫だ。それに、この本は当たり前のように有るのが善い。良ければ、少し読んでみてくれないか? 感想を聞きたい」

「良いのですか? では、一冊お借りしますね」

 コクトはヘビクイワシに一冊のその本を渡す。

 段ボールから出された本は、確かに児童書向けのB5判ほどの大きさで、ハードカバーには鳥の絵が描かれている。王冠を頭に載せた鳥が大きく出されており、回りには小さな鳥が数羽飛んでいる、自然そのものを描いているような可愛らしい絵本だった。

「鳥の本ですか……とりのおうさま……後に書いてあるのは?」

「あーそっか、英語だもんな。失敗した。タイトルは『とりのおうさま King of Birds』まあ、後の方は単にタイトルを外人にも解るように追加して貰っただけだから、気にしないでくれ」

「そうでしたか……ですが、著者のお名前が書かれていないのですが」

「……、それは、それで良いんだ」

 意味深にコクトが隠す。

 ヘビクイワシにとってはそこまで気にする程の疑問では無く、内容に興味を持ち始めていたので、特に彼女は言及する事無く、納得した。

「では、済みませんが一読させて頂きます」

「ああ、行ってらっしゃい」


 ヘビクイワシは読書スペースに本を一冊持って行く。

 コクトはコクトで、段ボールの中からもう一冊取り出すと、本棚の影に向かって歩き出した。

「お前も見るかい?」

「……っ!?」

 そこに居たのは、またもやキタキツネだった。ただ、服装が少し違い……イヤ、凄い程に違い、軍事時代の迷彩柄の服に耳が出るフレンズ専用のヘルメットを装着していた。

 彼女は渡された本を手に取ると、特に何も言う事無くシュバババッと姿を消すようにして読書スペースに向かって行った。

(あの子、ゲームに触発されるタイプだったかな? でも、絶対にアレの影響だろうなぁ……)


 何にしても、蛇はのめり込みやすいという物だ。


 コクトはまた段ボールの場所へと戻り、中から本を取り出して本棚に挿す。二冊程入れると、残りをバッファー(下の補充分の引き出し)にしまい込んだ。

 ふとコクトも、差し込んだばかりの一冊のその本をもう一度取り出す。

(そう言えば、なんだかんだで初出版だったな。……初版本だぞ、櫻)


 コクトは、本のページを開く、絵柄が子供向けながらも、鳥たちの姿はリアル調に近い。絵本をイメージするとポップな絵柄をイメージするかも知れないが、実は昨今はリアル調の物が多かったりもする。文字体は無論全てひらがなで、その点に関してで言えば確かに子供向けと言える物だ。


 中を読み進め、目を通して行く。


 自然とコクトも、はまり込んで、そのまま最後まで熟読してしまった。


(しかし、こう見るとどことなくダークネスだな……まあでも、何というか、うん)

 読んでいた彼は、その本に対して、どことなく思い入れをしていた。

 言葉にするには難しいような、彼でも口に出して言える言葉が見つからないような。だが、それでも何かが彼の中でキッチリとハマるような、何処と無い感覚があった。


   *


 作業を終え読書スペースに戻ると、約二名(匹?)が先程の絵本を読んでいた。表情が見えるが、そのなんともいえない物悲しい顔が妙に胸に来る。


「あー……どうだった?」

「あ、え、いえ……その、とても良い作品でした。その優しさが胸に来る物で、良い王様だったと思います。物語の世界観も感慨深い物で、とても良い物です」

「あー……まあ、結構ダークだったか」

「は、はい。素直に少々感情移入してしまい、涙も出てしまい……」

「コクト、これ、可哀想……」

「あはは……まあ、でも、謂わばそう言う誰かの為に頑張る人も居るって物語なんだ。難しい話しになってるかも知れないけど、悪い物じゃ無いだろ?」

「はい、本当に良い作品です……コクトさんが書いたのですか?」

「違うよ。それは……私の、大切な人が書いた作品さ」

「そうでしたか。此処に寄贈するという事は、余程思われている方なんでしょうね」

「ああ、思ってるよ。今でも」

「むー……」

「どうした、膨れっ面で」

「何か、ずるい」

「あはは、悪かった悪かった。お前達も大事な友達だからな、そう怪訝にならないでくれ、キタキツネ」

「んー……」


「コクトさん。やはりこの作品、あちらのフェアに出させては頂けないでしょうか?」

「んー。流石に内容が内容だし、余り表立つ物でも無いと思うけどな」

「良いのです。寧ろ、この作品は考え方を変える一つの作品でも有り、優しさの本当の意味も解るかも知れないんです」

「んー……まぁ……じゃあ、任せるよ」

「ええ、お任せ下さい」


 ヘビクイワシの言葉に、コクトは挫けた。

 彼とてそう持ち上げられるのは嫌な気はしないが、少し複雑な考えも合ったのだ。


 だが、本人としても、その作品が多くの人の目に映るのは嫌な気がしなかった。寧ろ、万人達にその本を見て欲しいとも思っていたのだ。

 そう、本当に、純粋に……。


   *


 夕方頃。

 作品のフェア展示の手伝いを終え、コクトとキタキツネは大図書館から出て帰路についていた。


「……、」

「未だ拗ねてるのか?」

「別に」


 頬を膨らませているキタキツネ。妙にとげとげしていながらも、コクトと共に歩いていた。


「あの絵本。そんなに大事なの?」

「んー……、まあ、あの絵本を書いた人が、形になって欲しいって思ってたからかな?」

「どういうこと?」

「絵本作家が夢だったんだ。でも、書けなくなった。だから、せめて昔書いた本を絵本に出来ないかなって、形では無く本当の意味で売られる本に出来ないかなって思ってたんだ。その人の願いは、今の私の願いでもある。だから、一緒に叶えて上げられないかって思ってたんだ」

 コクトは、少し遠くを眺めながらに話す。

 そして、ポケットからある物を取り出した。

 以前作った、ルーペ状のペンダントに、羽が三つ付いたネックレス。


「……何、それ? それも、その人の?」

「これは、その人の為に作ったプレゼントなんだ。大事な物、大事な物なんだ」

「……なんか、コクトの言い方良くわかんない」

「そうか? まあ、そうかもな……」

「……、」

 コクトは、そのネックレスを片手に、ガラス板のような所を眺める。ガラス板の先と、薄らと映し出されたコクトの顔は、どうにも不可解な構造を成しているようにも見えた。


「……なら、それ、渡さないの?」

 キタキツネは、率直に聞いて来た。

 少し言葉の節々が尖っており、どことなく冷たくも感じる。


 だが、コクトは相反して、悲しそうに微笑み、キタキツネに向き直って吐き捨てた。


「良いんだ。もう居ないから」

「……え?」


 迂闊だったのだろうか、キタキツネの顔は不安げな表情になる。

 そして、彼女にも、正確にはわからずとも、それはどことなく感じ取れた。

 寂しそうで、今にも泣き出しそうで、それでも耐えて、苦しんで……自分の痛さを隠しながら、突き進んでいるような彼の、そんな一面が、ほんの一瞬だけだが感じ取った。


 申し訳なくなる。

 そんな辛そうな顔をさせるつもりでは無かった。


 どんな言葉を取り繕うとしても、喉から声が出なかった。

 ネックレスを再び見つめ出した彼の横顔は、とても儚げで、脆そうであったからだ。


 何かを言ってしまったら、壊れてしまいそうな程に。


「……っ」

「あっ、キタキツネ。また新作のゲームが届いたんだ。今度はギンギツネも呼んで三人でやらないかい?」

「え、あ……」

「もしかしたら、ギンギツネが未だ居るかも知れない。折角だ、社宅にも開いた部屋があるし、良かったら泊って行きなよ」

「え、でも……」

 不安だった。

 また、あんな顔をさせないか。


 怖かった。


 この人が、苦しんでしまうのかも知れないと。


 でも、それを全て打ち砕いてしまうような衝撃が、優しい衝撃が、彼女へと響いた。


「あ、えっと……」

 口詰まるキタキツネに、コクトは背中にポンッと押し出すように手を当てて、優しい声で言い放った。

「良いんだ。大丈夫。私は、大丈夫。それでも私は、君たちには笑っていて欲しいんだ。そこまで私は脆くないよ」

「あ……」

「心配してくれてありがとう。君は本当に優しい子だ。本当に、私の事を心配してくれて、嬉しいよ」


「……うん」

 見抜かれていた。

 もしかしたら、この思いさえも見抜かれているのかも知れない。でも、そこに恐怖は無い。寧ろ、この目の前に居る彼を思ってこその想いだった。

 でも、本当に酷い。

 その心配さえも打ち砕いて、安心させられてしまった自分が、そんな風に笑う彼が、どうしても嬉しいと思ってしまうのだから。


「それに、意気消沈しちゃったからこそゲームでさっぱりしよう。だから、私の元気の為に、付き合ってはくれないか?」

「……わかった。でも、僕強いよ?」

「あはは、お手柔らかに」

「うん!」


   *


「おっ! このモンスター中々にレベル高いな。行けそうか?」

「ポーションも飲んだ。大丈夫」

「ちょ、ちょっとー!! 皆どこよーー!?」


 社宅内。

 中ではコクト、キタキツネ、そしてギンギツネの三人がテレビゲームを楽しんでいる最中だった。


「ギンギツネ、後ろ見てみなよ」

「えっ? うわぁぁぁいたぁぁぁぁ!!!!」

「回復呪文唱えておくぞー」

「あ、危なかったぁ~……」

「コクト、攻撃系ある?」

「範囲攻撃なら高いのがある。ただちょっと離れてて欲しいかもな」

「了解」

「うぅぅ~……、もう、こうなったら私だって!!」

「あっ」

「あっ」

「えっ」


 ちゅどーんっっっ!


「ギ、ギンギツネが……」

「くそっ! 何でこんな、こんな事に……」

「流石に聞いてなかった私が悪いけど、変に感情移入しないで! 後そう思ってるなら助けてよ!!」

「ごめん今のでMPゼロだ」

「取り敢えず、私倒しちゃうから、ギンギツネは死んでて」

「死んでて!?」

「あーはいはい、今ポーション飲んでMP回復するから待っててくれ~」


 和気藹々と、三人で楽しむゲーム。

 色々と苦難困難は多いが、それこそゲームの醍醐味ともいえるのでは無いだろうか。そう、思える程に、この瞬間を心から楽しんでいたのは、他でもない彼女達だろう。


 だが、多少の不純物を含めても良いのであれば、それは彼も同じだった。


「クリアー」

「おー、おめでとう」

「私、何回死んだ?」

「まあ、最初よりは上手くなってると思うぞ?」

「僕もそう思う」

「そうかしら? 次は何やるの?」

「案外私達よりも楽しそうだな」

「そ、そう?! あはーあははははー」

「僕も楽しい」

「そっか、そりゃぁ良かった」

「コクトは?」

「ん?」

「コクトは、今、楽しい?」

「……嗚呼、本当に、楽しいよ」


 嘘じゃ無い。

 嘘な訳ない。


 彼女が来てから、辛い事もあったが、それを持ち直せるような楽しさもあった。

 彼女が居てくれなかったら、きっと折れていた。


 繋ぎ止め、救い上げ、手を引いてくれたのは他でもないキタキツネだった。


(君に出逢って無かったら、きっと私は……機械にでも成っていただろう)


 楽しそうな顔を横目に見る。

 いつでもどこにでも、彼女は現れ、私に言葉をくれる。

 辛そうな時には隣に居て、唯々、一緒にいてくれる。


 泣き言を聞く訳でも無く、解決を図るのでは無く、ただ一緒に居て、ただ一緒に笑おうとしてくれる。


(ありがとう)


「ほら、流石にそろそろ寝るぞ?」

「えー、ゲームしてたい~」

「私も寝たいわ。もう目が疲れちゃって」

「別に今日で出来なくなる訳じゃ無いんだ。また、一緒にやろう。な、キタキツネ」

「むー。でも、コクトが言うなら寝る」

「ふふっ、ありがとう」


 本当に、ありがとう。


   *


 その日の夜中。

 コクトは社宅で事務仕事を片付けていた。

 隣の部屋ではベッドの上でキタキツネとギンギツネが仲良く寝ている。

 彼は、彼女達を寝かせた後に残された仕事を何とか終わらせようとしていた。


「……ふぅ」

 一息、吐き出す。

 仕事は何とか終り、また明日には事務所で新しい資料整理と研究所での進捗確認が待っている。

 仕事など日に日に増え、収まりなど無いが、今日はいつもと違って気分が良い。


 そんな自分の状態が解らないまま、彼ベランダに出る事にした。


 理由は無い。

 黄昏れたかっただけなのかも知れない。


「……、」

 真っ暗で静かなジャパリパークを見渡す。

 光は米粒程度にしか見えず、その光も次第に消えていく。


(残業か? させないようにもうちょっと私が頑張るべきか)

「余り、無理をしてはいけませんよ?」

 ふと、隣から誰かの……女性の声がする。

 其方側に目線を映せば、そこには懐かしき姿のフレンズが居た。


「オイナリか、久しいな」

「貴方が久しいだけで、私神々はいつも誰かのそばに居る者です」

「無神論者に言われても困る」

「えぇ、でしたね」

 彼女は彼の隣に立ち、同じく夜景を眺める。


 二人のキツネとは違い、服、尻尾、耳に至るまで白だ。

 元々白とは神の使いという謂われを持ち、白蛇なども嘗ては讃えられている。だが、オイナリ自身は神の一柱であり、ある意味で言えばその白は使い達の模範なのかも知れない。


「……、心中お察し致します」

「どーも」

「辛くは無いのかしら?」

「辛くないと言えば嘘になるが、まあ、今はちょっと違うな」

「……あの子達ね」

「お前の使いはキツネでもあったな」

「全員が全員って訳でも無いわ。人が色々居るように、あの子達もあの子達の考えがあるもの」

「そっか」


 黒斗は今までとは違ってぶっきらぼうに言葉を返す。

 ただそれに対して彼女は怒る事も無く、寧ろ何処か距離感の無いようにも見えた。


「そう言うお前はどうなんだよ?」

「え?」

「……櫻と仲が良かったのは、君だろ?」

「……、」

 黙り込む。

 顔色が少し暗くなり、少しの間を開けて語り出した。

「悲しい……ですね。あの娘は、私に対して気兼ねなくお話ししてくれました。当時の貴方も、邪険にする事無く……確かに、あの頃が楽しくで、それを失ってしまったのは、心苦しく思います」

「そうか……」

「ですが、私には、何も出来ませんでした。何故なら――」

「「神が人の私情の為に力を使う事無かれ」だろ? そう言う制約があるからこそ、神話性は成り立つのだから」

「……ッ」

「あんたらは人をあるべき道へと先導するのが役目。善と悪の調停者。だからこそ、人と神との間に私情は無い。良いじゃ無いか。神らしい」

 酷い話かも知れない。

 最も本能的に発する人間が理性的な見解を述べ、理性と秩序の本質である神が本能的な悔やみを語る。

「……責めないのですか?」

「何故だ?」

「仮にも、私は貴方のそばに居た神ですよ。力を行使すれば、あの娘は助かったかも知れないのに」


 神様の力。

 それは神話性によって、逸話によって判断され、神聖高い神の行使力はそれ程に高くなる。稲荷神も例外では無く、行おうと思えば人に襲いかかる危機を振り払える。

 だが、それは私情で有り、彼等神々の道理には反する。

 彼女達は調停者。例えこのジャパリパークの守護者であっても、度を超えた力を私情に任せて使えば均衡など無くなる。


 力には制約があり、力によって私情は消されて行く。それは、人にも言え、力は使命となる。


「救われないのは昔から知ってる。それに、私はそんなものに頼る必要は無いと唱えたのを知っているだろう」

 なら、それらの根本に頼る事は、本当に人のあり方なのか?


「そもそも、人類史に置いて神話とは後に出たものだ。人々の統率を図る為に一つの偶像を創り、信仰を始める事で、面を知らぬ者達の協力を可能としただけのただの創り物だ。それが言葉が通じるようになっても後世までぬけぬけと続き、その信仰の力によって偶像から実像になった神々共が、身勝手にも人々の主権を握ったと豪語しているだけだ。昨今そんな実態の無い虚像を狂ったように信仰する奴らは何だ。願った所で救われたか? 救われていない。あれらは結局人の力によって成し遂げた事を、身勝手にも神々の力と増張し、我々の成果を奪ってきた略奪者だろう。なら、私は自らの手で人を救う。だから医者なのだ。だから医者になったのだ」


 コクトの主張。

 それは、彼の信念の断片とも言うべきだろうか。

 それとも、何かに対する恨みだろうか。


 彼は、彼なりの信念があった。


「……ッ」

 言葉に詰まった。

 オイナリは、言葉が出なくなってしまった。


 神としての反論だって出来るだろう、彼女にはその権利があるし、自分たちが冒涜されたという名実で反論しても良いのだ。

 だが、そんな、怒りの感情が出ない。


 悲しく、恐れたような、その顔。

 表情に表れるようにして出ているその思いを、コクトだって解らない訳じゃ無い。


 負い目。


 近くにいたのに、何か出来たはずなのに、人に触れ、人を知ってしまったからなのか、返す言葉も、反論も、贖罪も、何も出なかった。


「悪いな。私も明日は早い。そろそろ失礼するよ」

 コクトは、部屋の中に戻っていく。


 扉は閉ざされ、電気が消える。


 一人残されたオイナリ。

 彼女は心中で、混濁した感情に深く沈んでいた。


(そう、ですね。私達が、本当に人を導いていたのなら、こんな事には成りませんでした。だって……だって。貴方をそんな人間にしてしまったのは、貴方を構成させるはずの存在が、何も出来なかったのは、私達なんですから)


 瞬間。

 彼女は粒子のようにベランダから消えた。


 一重の夜。


 重く、苦しく、切ない夜が、幕を閉じた。

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