【32】約束

 しっかりと髪を乾かした羅凍ラトウは、髪を普段のように高くにまとめる。風呂場で髪をまとめてから出るのは習慣だ。

「よし!」

 誰に言うでもなく、彼は風呂場を出る。


 風呂場の戸を閉めるなり、羅凍ラトウは予想外な彼女の姿を見て、つい笑ってしまった。

「何してるの?」

 彼女は布団に包まり座っている。

「だって……湯冷めすると風邪ひいちゃうし。冷え込んできたし」

 どうやら哀萩アイシュウは、風呂上りにすぐ寝てしまうのが習慣らしい。彼女の習慣を知らない羅凍ラトウには相当楽しいらしく、笑い続けている。

「もう……かっわいい~なぁ……」

 ゆるむ口元をキュッと締め、足早に近寄りギュッと抱き締める。

 布団の上からでも、湯上りのあたたかさは哀萩アイシュウに伝わったようで、

「あったかい」

 と、彼女の口調が和らいだ。

「もっと、あっためてあげようか」

 うれしそうな羅凍ラトウに、彼女はぎこちなくうなづく。その反応に今更照れながらも、羅凍ラトウは布団に入り込み、彼女を抱き締める。

 ちいさい体は、想像以上に冷えていた。縮こまっていたせいか、彼女の手が胸元に当たる。

「あったかい?」

「うん」

 ちいさな彼女がよりちいさく思えて、羅凍ラトウ哀萩アイシュウがかわくて仕方がない。

「ヤバイ。幸せすぎて昇天しそうなんだけど」

「私も幸せ」

 ふと、ふたりの間にあった彼女の腕がスッと消えた。直後、羅凍ラトウは背に彼女の手を感じる。

「ねぇ」

「ん?」

「髪留め取って……って、言ったら……」

「取るよ」

 ハルカが来てからは、寝るときも外さなくなった髪留め。それをためらいなく、スルリと外す。

「きれいね」

哀萩アイシュウこそ」

 彼女は息を呑むようにハッとして、すぐにうつむく。

「明るくて、ちょっと……恥ずかしい、かも」

 羅凍ラトウには、信じられない状態だ。高鳴っていた鼓動が更に高鳴る。哀萩アイシュウが腕の中にいて、照れているなど──そんな中、彼女は『消して』と微かな声で言った。


 羅凍ラトウのかんたんな動作で光を一瞬にして失い、聴覚が敏感になったのか──ふたりは互いの呼吸をより感じていた。視界がなくなり、世界が変わったかのように、引き寄せられていく。羅凍ラトウは再び彼女を抱き締めた。

 明かりを消したときに一度離れた彼女の手が、スッと戻ってくる。伝わる、彼女の体温。

 暗闇で研ぎ澄まされた触覚が、充分なほど彼女の存在を伝えるが、もっとと欲が駆り立てられる。ずっと好きだった。ずっとずっと、好きだった。長年、彼女を思い続けて、思い続けるしかできなかった。今でも大好きだ。それこそ、彼女がいてくれれば、言葉通り何もいらないほどに。

 互いの服を乱し、胸元と首元を重ねる。肌が触れ合う幸せを、羅凍ラトウは感じる。


 ──あのときが本当に夢だったら……今頃、正夢だったと思えたのに。


 より幸せを求め、彼女の胸元を保護する物に触れようとしたと同時、断片的な記憶が早送りで巡ってくる。


『私たち、親になるんですね』

 妊娠の報告のとき、ハルカから言われた言葉。鮮明に思い出され、羅凍ラトウはハッとした。

 決して、軽率な気持ちではない。むしろ、彼女となら子を望むほど。しかし、それは望んではいけないと、理解している。許されないと自戒してきた。

「どうしたの?」

 それは彼女もよく理解をしているはずだ。

 見上げた彼女を見て、羅凍ラトウは苛まれる。何も考えなかったわけではない。やっと会えたと歓喜し、このまま一緒にいたいと思っていただけだ。


 ──何を、願っていたんだろう?


 喫茶店を出てから、何度も唇を重ねるタイミングはあった。だが、その度にとまどった。行動に移さなかったのではない。できなかったのだと、羅凍ラトウは痛感する。

「心中なんて、おかしな奴らのすることだと思っていたけど……今ならわかる」

 羅凍ラトウは彼女を抱き寄せる。離したくないと、やさしく包む。

「明日はもうないとすれば、俺は何も迷わない。最期ならと……。でも、俺は巻き込んで傷つけたいわけじゃない。大事な人くらい、きちんと大切にしたい」

 数秒間、時が止まったかのように強く抱き締めたあと、羅凍ラトウはスッと力を抜き、彼女の衣服を整え始める。

「ごめん。俺は……明日帰る。哀萩アイシュウを、俺は幸せにできないんだ」

 彼女から手を離し、羅凍ラトウは布団から出る。彼女に背を向け、立つ。悔しさで震えている。堪える涙を落とさぬよう、涙声を隠そうと、無理に笑おうとする。

「幸せを願うだけなら俺は、『兄』でいい」

 哀萩アイシュウは暗闇に慣れてきた視界で、ぼんやりと羅凍ラトウの背を見つめる。起き上がり、部屋に差し込む微かな明りに目を向けた。

「星でも見よっか。ここ、きれいに見えるの」

 彼女はあえて明るく言う。彼の性格を把握した上でのことだろう。

 立ち上がって手を差し伸べると、彼は涙を落としたと悟られたくないようだった。




 ふたりは手を繋ぎ、外へ出る。


 真夜中の冷たい空気で、握る手はより強くなった。

「来世なんて信じないけど」

 夜空を見上げながらポツンと羅凍ラトウは呟く。

「また生まれるときがくるなら、そのときは哀萩アイシュウと幸せになりたい」

「何それ」

 彼女は笑う。けれど──同じく星空を見上げると、それも悪くはないのかもしれないと彼女には思えた。

「じゃあ、約束しましょ」

 声を弾ませる。ふと、ふたりの視線は合う。

現世イマをきちんと、お互いに生き抜くことを」

「うん……約束する」

 彼女の強い瞳に彼は誓う。彼女を振り回した結果になったにも関わらず、彼女はそれを責めなかった。彼女の強さに惹かれていたのだと、羅凍ラトウは改めて恋に別れを告げた。

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