【30】憧れ
周囲の視線を感じ、
「嘘がよかったの?」
「違う」
横に首を振る
「冗談がよかったんなら、冗談にしてもいいよ」
「嫌だ。そうじゃなくて……っていうか、え? 本当に? え、本当にいいの?」
うれしさのあまり混乱し始めた
「髪」
そう言われて、初めて
「切ればいい?」
貴族が生家との絶縁を願うなら、真っ先にすると判断したのだろう。意思表示が足らなかったとばかりに、迷いがなさそうに言う。
その様子がおかしかったのか、
「私、
楽しそうに笑う彼女を前に、
「『も』? 『も』って何。いや、言わなくていい。聞きたいけど……聞きたいけど、言わなくていい」
混乱し、何を言っているかさえ把握できていないようだ。明らかに動揺する
いつの間にかパフェを堪能するより、再会したうれしさを堪能したふたり。喫茶店を出て歩き始めると、どちらともなく、手を繋ぐ。
「俺、からかわれてるだけでもいいやって思える。いや、嫌だけど。そうじゃない方がそりゃ、うれしいけど……」
幸せに動揺する
「じゃあ、からかってるだけにしようかな」
途端に手を離し、彼女が走り出す。
「捕まえた。本気だと言わせてやる」
幸せすぎて怖くなる。
ふざけてじゃれ、彼女と笑い合う。そんなわずかな時間が過ぎて、ふと笑いが止まったとき──向かい合った彼女の無防備さに
彼女との関係性が変わった。
今更ながら意識した
「どうしたの?」
何度か、これまでに似たようなことを体験した気がした。ドクドクと鼓動を感じながら
「ううん」
とはいえ、彼女が出て行く前の
それに、咄嗟に離れてしまったのは、心の片隅に罪悪感があるからだということまで、気づいてしまった。
「そういえば、となりの家に……父上がいるんだよね」
あからさまに
「あ~……」
「今日は……不在にするって」
父の配慮、つまり思考を読まれていたと思えば、
「そう……」
つくづく親子だ──と、
「鍋が食べてみたい」
「何それ」
彼女が笑う。
「いいじゃん。食べてみたいんだ」
城内で鍋は出ない。だからと言って、城下町で食べられるものでもない。貴族と離れたところでは、度々食べられるものだと
どんな味なのかは、想像がつかない。ただ、彼女は知っているはずだし、彼女と食べるならおいしいと妙な確信を持っている。
「じゃあ、今晩は鍋で決まりね!」
鍋は冬の定番だもんねと、
やっぱり、
立ち寄ったことのないような店に何軒か入り、食材を買う。野菜をいくつか買うだけで結構な重さになると初めて知り、重い物をすすんで持ち、ちいさな家の並ぶ方向へと歩く。
楽しい時間は足早に過ぎて行き、日が暮れ始めていた。
「ここよ」
こじんまりとした店のような大きさの家だが、彼女がひとりで住んでいるなら、広い方なのだろう。外見のちいささに驚いた
自室よりも狭い印象だ。けれど、憧れてきた普通の生活がこういうものだと目の当たりにして、喜びが沸いてくる。
個室のような鍵を締めると、彼女はすでにキッチンに立っていた。その光景を、
しかし、幸せに浸るのは束の間。彼女の不得意なことを思い出し、キッチンへと向かう。
「座ってていいよ」
なぜか彼女は得意げだ。だから、
「だって、
余計な一言に、
「ん……っとに!
彼女は包丁を強く握り、うつむく。
「知ってるでしょ?」
彼女からすれば、ニ十センチ以上背の高い彼から、幸せが降り注いでいるように感じたのかもしれない。
「ん?」
トントントン
カチャリ、コトン
野菜を切る音から、鍋のふたを置く音や食器の並ぶ音へと、
幸せを象徴するような音だ。
おだやかで心地よい時間は過ぎていく。
食事中、
誰かと一緒に食事がしたいと望みながら生きてきた。それが、叶った瞬間だ。
ずっと想いを寄せてきた人と何を食べるかと話し、食材の用意をして、ともに作り、談笑をして食卓を囲む。
こんなひとときを、過ごせると思っていなかった。
幸せそうな彼を、彼女は湯気を挟んで見ていた。
湯気のお蔭で照れが多少なりとも軽減されたかと思えば、彼女にはおかしいとしか言えない出来事だった。
夢のような時間だったが、現実だ。
日はとっぷりと暮れ、時計は眠る時間がやってくると刻々と告げている。
食事の片づけを終えると、彼女は慣れたように風呂の準備を始める。それが
「先に入る? それとも、一緒に入る?」
「先に入る! ……いや、やっぱりあとにする」
一緒には無理だと即答したのに、風呂上りの彼女を想像して直視できないと答えを変える。すると、彼女は後者は冗談だったと笑い流すように、
「じゃあ、お先に」
と、風呂場へと姿を消す。
そうして取り残されてから唖然とし、異常に慌てたと振り返る。
就寝前に風呂に入るのは自然なことで、一般的には自らが用意するのも自然なことだ。──自覚していた以上に、根本が貴族だと嫌気が差す。
雨の音に似た、シャワーの音が聞こる。
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