【28】箔

 羅凍ラトウが王の間に着く直前のこと。

 王の間の扉が見え──扉が開いた。


 誰かが出てきた。

 派手なドレスのうしろ姿に、羅凍ラトウはドキリと足を止める。だが、黒い髪は垂れ、頭上には見慣れた王冠はない。

 ──まさか、ね……。

 そう、が髪をほどいたところを想像もできなければ、見たこともない。まして、自らほどくとは考えにくく。だが、母が父と何かがあり、髪型が崩れるなど最も考えにくい。

 母かと思い足を止めた体の反応に、羅凍ラトウは苦笑する。母ではないと判断したにも関わらず、誰かと疑問すら抱かない。ただ、これから父に顔を出さなくてはいけないのだからと、深呼吸をして気持ちを整える。

 母は恐怖の存在だが、父は苦手な存在だ。

 母は個を全否定するが、父には生から否定されている気がする。母と対面しているときと同様、生きている心地などしない。

 呼吸が止まりそうになりながら、羅凍ラトウは精一杯、平常心を保とうと努める。


 トントントン


「どうぞ」

 たった三文字の言葉に、羅凍ラトウの体は強張る。それでも入室を許可されたのだから、入らなければならない。

 ドアノブに伸ばす手が震える。数えるほどしか会ったことがないのに。それこそ、ふたりきりで会ったことなど、片手で足りる。

 叱咤されたことがあるわけではない。むしろ、その逆だ。羅凍ラトウは父の視界にまともに映されたことがない。

「入ります」

 己への言葉かのように言い、グッとドアノブのつかみ扉を開ける。すると、足元がすぐに見え、羅凍ラトウは驚き顔を上げた。

 貊羅ハクラは玉座に座ったまま、遠くにいると思っていた。けれど、羅凍ラトウを待っていたかのように、扉の前で立っていた。

「お、呼びで……しょうか」

 スムーズに声が出ない。

 それはそうだろう。羅凍ラトウ貊羅ハクラに直視され続けているのだから。

 ──これまでは俺がいくらずっと見ていたって、少しでも見ようとしなかった癖に!

 動揺した羅凍ラトウは、視線を逸らす。

「私が君を呼んだ。そう……間違いない」

 呼吸を意識して行わないと、過呼吸になりそうな息苦しさ。

 目の前にいるのは──初めて救ってくれるのではと期待した人であり、息子と思ってくれていると思った人であり、見てほしいと願った人であり、羨望の人であり、諦めた人であり、血縁を憎んだ人であり、生き方までつくづく似ていると痛感している人だ。


 ──ハルカさんの妊娠を聞いたときも、周囲が祝福してくれたときも、喜べなかった。無事に子が産まれたとしても、父上と同じように愛せないと思っていた。だけど……。


 一歩、貊羅ハクラが踏み込んできて、羅凍ラトウの思考は止まる。心臓も止まりそうに感じていたが、貊羅ハクラは開きっぱなしの扉を閉めただけだった。

 安堵と同時に沸き上がったのは、静かな怒り。


 ──俺と同じような、こんな思いを抱えさせるなんて嫌だ。もし、俺が産まれてくる子を愛することができたなら……俺は、この人とは違うと、思える……か?


 再び視線が合う。少し背の低い父から視線を離せず、体が固くなっていると、

「君の人生は、私よりも酷なものになってしまったかもしれないね」

 と、予想だにしない言葉がかけられた。

 あり得ないことの連続で、羅凍ラトウの頭は混乱する。

捷羅ショウラから……話は聞いた?」

「いいえ」

「そうか。君は私と違うから……きっと悲しむんだろうね」

 話が見えず、更に羅凍ラトウが混乱していると、突然その名は聞こえた。

哀萩アイシュウに会いたいと、今でも思う?」

 ワントーン低い声にドキリとする。

 羅凍ラトウは、貊羅ハクラから哀萩アイシュウが実の娘だと聞いたわけではない。貊羅ハクラ捷羅ショウラに言っているのを、立ち聞きしてしまっただけだ。

 それに、羅凍ラトウの想い人を貊羅ハクラが知っていると思ってもいなかった。それだけ無関心だと思っていたし、知れば邪険にされるだろうとも思っていたから。

 混乱が混乱を呼ぶが、羅凍ラトウは即答する。

「はい」

 父が言わんとしていることが聞こえてきそうだと思いながらも、ここで偽れる羅凍ラトウではない。

 次第に羅凍ラトウの瞳が潤んでいく。会いたいと願うだけで、押し殺してきたはずの感情があふれそうになる。

ハルカさんを裏切る行為だとしても?」

『諦めろ』と同義の言葉。それに加え、従う返答をすればたった数秒前の感情を覆すことにもなり、それは、父と同じ道を辿ることと同義であり──羅凍ラトウは葛藤しながらも、やはり本音は覆せない。

「会いたいです」

 涙は今にもこぼれ落ちそうなほど、瞳いっぱいに溜まっている。それでも、こぼすまいと堪えていると、左肩を軽く叩かれた。

「やはり君は私の息子だ、羅凍ラトウ

 父は笑っていた。

 張り詰めていたものが、プツリと切れた。


 初めて向けられた父の笑顔と『息子』という言葉は、とても卑怯だ。


 我慢していた涙は、堰を切ったようにボロボロと落ちていった。羅凍ラトウが誰かの前で号泣したのは、初めてだ。




『とは言え、独断で私も哀萩アイシュウの都合を左右できない。だから、追って連絡するよ』

 眩しいほどの笑顔で告げた貊羅ハクラは、その日の夜に羅暁ラトキ城を去って行った。


 翌日、捷羅ショウラの就任式が開催された。

 愬羅サクラがイソイソと用意をしたものだ。


 愬羅サクラは変わった。

 外見の派手さが抜けていた。

 羅凍ラトウをはじめ、凪裟ナギサハルカに向けていた棘もなくなっていた。


 ──昨日、父上の部屋の前で見たうしろ姿は……まぎれもなく母上だったのか。

 羅凍ラトウは父がいなくなってから変わった愬羅サクラを見て、貊羅ハクラからの呪縛が解けたかのように見えた。

 また、貊羅ハクラ貊羅ハクラで『父』として罪悪感を持っていて、それを解消してから出て行ったとうっすら感じていた。




 数日後、羅凍ラトウ宛てに手紙が届く。差出人には『箔』と書かれている。

 ──誰だ……。ハク、ハク……ハク

 脳内で合致した瞬間、羅凍ラトウは慌てて封を開ける。哀萩アイシュウのことが何かしら書いてあると察して。

 便箋は二枚重なっていて、一枚目には日時と場所が記されていた。重なっていたもう一枚には、何も書かれていない。

 ──えと……これは、つまり……。

 届いた手紙は、哀萩アイシュウが会うと了承したことを示している。

 記された日時は、翌日の早朝だった。

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