【8】何もなければ(2)

 恭良ユキヅキの母も父も、誰なのか定かではない。大臣にはぼやかされた感がある。どうしても、あの王の連れ子だと沙稀イサキは思えない。母が、あんなにかわいがっていたから。


 苦しみに沈んで、溺れそうになる。

 王の連れ子でないなら、『兄』だと恭良ユキヅキに知られたくはないと溺れていく。恭良ユキヅキには、同じ苦しみを味わってほしくないと、それだけを願って。

 ──ああ。

 なんとか浮上して、息を吸う。

 ──瑠既リュウキを『実兄』と疑わない恭良ユキヅキに、できれば出生を伏せたままでいたかった。

 瑠既リュウキと双子という事実を恭良ユキヅキが知れば、同じく『兄』と意識されてしまうのではないかと、沙稀イサキは恐れた。

 ──いや、『兄』と認識されなくても……。

 無意識でも瑠既リュウキと比較されることが怖い。双子は何かと比較される。詮索されないか、失望されないか──髪の毛の色も、瞳の色も、身長も、声も。

 ──俺も、何もなく成長できていたら……。


 追いかけてしまっている幻影。リラに変わった色彩を目にする度に、『これが本当に自分なのか』と長年苛まれ、いつしか意識してしまった『本当の自分』の姿。

 ただ、傭兵になってからの沙稀イサキに、じっくり想像する暇はなかった。瑠既リュウキと再会してからだ。存在しない姿を具体化しようと追いかけている。瑠既リュウキを目の当たりにして、見えなかった幻を瞳に映したような衝撃を受けていたから。

 その夜、沙稀イサキ瑠既リュウキの姿が頭から離れず。あれだけ似ていたのに、現状は明らかに、違うことだらけになっていて。

 十センチ以上の差があった身長。剣を握っていないだろうに、力強そうなゴツゴツとした手。失われていない、クロッカスの色彩。外見ばかりでなく、想定していなかった声の低さ。

 離れて成長していたからこそ、違いは顕著だった。突然出現した『本来の姿』を前に、一瞬にして強烈な嫉妬が湧いていた。羨望に変わったクロッカスの色彩。奪えるものなら、奪いたい衝動に駆られていて。

 父に憧れて長く伸ばし続けていた髪が、無性に虚しくなった。長い髪が沙稀イサキにとって、ただひとつの『自分の存在』の肯定だった。──はずだったのに。いつの間にか、貴族であることを誇示する唯一の手段であり、腰までの長さは贖罪になっていた。


 恭良ユキヅキとともに辛い想いを乗り越え消化したと思っていたが、幸せにかまけていただけだったと痛感する。隙をうかがい、牙を磨いていた。大臣にひとりで出かけるように言われたとき、沙稀イサキは奇襲を狙われていると本能で察し、防衛本能で拒んだのかもしれない。


 羅凍ラトウの言葉を思い出しながら自らの記憶を重ね、沙稀イサキは再び襲われた疑念の消化方法を探る。

 幸い、上の空でも体は動いてくれている。ストレッチを日々行うのは、恐怖心からだ。体が動かなくなるのを恐れている。あんな体験は、もう──。

 できるだけ行きの船の中と同じ行動をするが、時間を流すだけのものとなっていった。




 夜、布団に身を包んでも、頭の中を疑念が巡る。ひとつを消すと、新たな選択肢が幾つか浮かんで、それらがまた沙稀イサキを苦しめる。

 疑って否定して、思い出して、また疑う。はやくに正解を導きたいと、何度も何度も繰り返す。


 ──会いたい。


 苦しみの中で、愛しい人を求める。そうして、初めて心が触れ合えたと感じた日のことを思い出す。




「『姫』、だなんて……付けないで」

 恭良ユキヅキがそう言ったあと、ふたりは互いの痛みを受け止めるように、手が動いた。互いの頬に、伝う涙に触れた。

 頬から手、手から瞳へと視界が動き、見つめ合う。

 初めて互いの心に触れたようだった。長い間、異性として意識をしてきたのに。何日も一緒に、それこそひとつのベッドで眠ってきたというのに──これまでにないほど、思いが高ぶる。

 沙稀イサキは頬にあてた左手を奥に動かし、耳たぶに触れた。やわらかい──伝わる感覚に鼓動がよりはやくなる。

 そういえば、まだ沙稀イサキからは何もしていないと気づく。胸が張り裂けそうなほど想っているのに、伝えようしてこなかったと。

 正直に言うなら、可能だったなら。沙稀イサキは告白にしても婚約の申し込みにしても、口づけにしても、自らしたかった。待っていたい質ではない。思い返せば、尚更に悔しい。

 心に大波が押し寄せる。ただ、唇に唇を重ねるのは、懐迂カイウの儀式が終わるまではできないと理性が働く。泉が容認するのは、婚約のときの一度きり。ただ、逆を言えば、唇以外なら容認するということ。

 沙稀イサキは左手を耳たぶから後頭部へとずらし、瞳を閉じて右耳に口づけをした。

 ふと、恭良ユキヅキの手から力が抜ける。ちいさくもれた声はなんとも刺激的で、頬を、首を合わせて想いを伝えようとしていた沙稀イサキの劣情を煽る。

恭良ユキヅキ

 耳元で囁き、恭良ユキヅキを抱き寄せた。沙稀イサキとしては、当然、この場でどうこうは考えていない。幾日も同じベッドで寝ていて、一度もこういう状況にならなかった。いや、しなかったからこそ、軽くでも恭良ユキヅキに好きだと伝えたい一心だった。

 精一杯の色気を出し、誘う。恭良ユキヅキを照れさせたくて。不甲斐なさを払拭したくて。──たが、恭良ユキヅキを見て沙稀イサキの理性は飛ぶ。

 腕の中にいたのは、言葉を発せないほど呼吸の仕方を忘れたような女性で。恋慕してきた面影なく、身を委ねるような姿で。箍が外れた。

 耳を、首を、想いを解放していくように口先で触れていく。呼吸や体温などの変化を感じながらも、愛おしいという想いで思考が占拠され、一気に押し寄せてくる感情を伝えようと行動していく。

 手を伸ばしてはいけないと、許されないと思っていた反動は大きく、理性も飛んでしまっていれば制御は不可能。

 沙稀イサキは自身の上半身を露わにし、恭良ユキヅキのドレスを少し下げ鎖骨に唇を落とす。滑るように骨に沿っていったとき、ふと、左の首に何かを感じた。何かと理解しようとして、沙稀イサキの動きは停止する。

 それは、温度を保持しないやわらかな髪と、微熱を持つような心地よいあたたかさと、浅くてはやい呼吸。

 恭良ユキヅキが応えている。──そう理解して、沙稀イサキに理性が戻る。襲ってきたのは、自己嫌悪。まざまざと覚えている己の行動に、生きた心地がしない。

 誘ったのは、意図してしたこと。恭良ユキヅキが照れれば、沙稀イサキは照れずに好きだとか、かわいいだとか言えるだろうと踏んでいた。

 けれど、この有様だ。

 恭良ユキヅキの部屋とはいえ、こんな床の上で本能のままに求めるような真似をした。取り返しのつくところで立ち止まれたからまだいいものの、もし、と考えるだけでゾッとする。懐迂カイウの儀式を中止させるなど、恭良ユキヅキに泥をぬるようなものだ。浅はかすぎて、情けない。恭良ユキヅキへの想いは、そんなに軽んじているものだったのかと涙がにじむ。

沙稀イサキ?」

 動作が止まった沙稀イサキをふしぎに思ったのか、恭良ユキヅキが覗き込む。クロッカスの瞳が伝えてくるのは、不安で。こんなにも不安になりながらも、受け止めようとしてくれていたのだと沙稀イサキの後悔に拍車がかかる。ただ、その気持ちとは裏腹に、両手はしっかりと恭良ユキヅキを求めていて、強く抱き締めていた。

「俺は……恭良ユキヅキを愛している」

 初めて口にした想いは、告白というよりは懺悔のようで。恭良ユキヅキにどう伝わったかはわからないが、沙稀イサキを抱き締め返してくれた。

 沙稀イサキは幸せを噛み締める。同時に、この幸せを壊すような軽率なことは二度としないと胸に刻む。

 抱いていた腕の力をゆるめ、恭良ユキヅキのドレスを整えた。恭良ユキヅキは目を見開いて、何度も瞬きをしていたが、

「怖くなかった?」

 と、沙稀イサキは申し訳なく思いながら聞いた。

 力で恭良ユキヅキを抑え込んだつもりはない。だが、沙稀イサキはやるせなる。拒みたくても力の差が、あまりにも歴然だから。

 すると、恭良ユキヅキはいつものように、にこりと笑って、

「私は、沙稀イサキを疑うことはないわ」

 と芯を強く持っているかのように、ハッキリと言った。

 これまでも、恭良ユキヅキはそうだった。沙稀イサキが落ち込んでいるときに限って、恭良ユキヅキは毎回こう言う。

 とてつもなくショックなことを知って崩壊寸前であったのに、恭良ユキヅキはもう乗り越えていた。

 沙稀イサキは改めて、これからも恭良ユキヅキを『鴻嫗トキウ城の姫』として敬意を払っていこうと決意する。




 ああ、はやく恭良ユキヅキに会いたいと願う。会えば、また強くいられるような気がしていた。愛おしい想いもあるが、それ以上に光が見える気がした。今の沙稀イサキは暗闇に呑まれそうになって、もがいている。

 光が見えれば、闇は消えていく。昔、沙稀イサキが絶望から立ち直ったときのように。

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