【7】痛いほど(1)

 夜中に沙稀イサキは目を覚ます。衣服を身につけないまま眠ってしまったことよりも、臭いが気になる。目覚めは最悪だ。香水をつけなかったことが仇となった。

 気怠そうにシャワーを浴び、普段と変わらずにゆっくりとストレッチで体を動かす。筋トレをしながら時間を確認し、シャワーを浴びて、きちんと身支度を整える。そろそろ乗り換えだ。


 楓珠フウジュ大陸に着き、ルイがいるかと見渡すが、すでに行ったあとのようだった。梓維シンイ大陸行きの搭乗手続きをし、念のためもう一度、ルイの姿を探す。結果は変らず、沙稀イサキは船に乗る。

 朝食を食べながら、大臣に祝いに行ってはどうかと提案されたときのことを思い出す。祝いというのは大臣の推測だが──そう、沙稀イサキ恭良ユキヅキの結婚式に、いるはずの羅凍ラトウの妻がいなかったのは、沙稀イサキも気になっていたこと。

 大臣は憶測のまま『めでたいこと』と言ったが、沙稀イサキ羅凍ラトウから何も聞いていない。羅凍ラトウなら喜ばしいことを知らせてくれると思っている──のだが、それよりも沙稀イサキは違和感を抱いていた。それは、羅凍ラトウの表情。

 挙式に参列してくれていたとき、いつになく表情が固く見えた。笑ったときも無理をしているようだった。元気がないというか、生気がないというか、とにかく羅凍ラトウらしくない表情ばかり。

 大臣は今回の目的を『祝い』と決めつけたが、こうして機会を作ってくれたと沙稀イサキは感謝している。

 ──ゆっくり話すには、いい機会だ。

 羅凍ラトウに想う人がいたのは、知っている。娶ることは、できないと言っていた。羅暁ラトキ城で婚礼があったと、ひとつの情報として聞き沙稀イサキは驚いたが──やはり、相手は想い人ではなかったのだろうか。

 羅凍ラトウの表情は曇ってしまっていた。もし、その原因が結婚なら、いや、大臣の言っていた通りだったなら。

 どう想像してみても、わからないというのが正直なところ。沙稀イサキ羅凍ラトウの結婚観が違いすぎる。会って、じっくり話すのが一番だ。




 船を降りると、城下町に羅凍ラトウがいると、沙稀イサキはすぐにわかった。羅凍ラトウの華やかな外見は目を引く。

「ありがとう。わざわざ出迎えてくれたんだ」

 沙稀イサキが駆け寄ると、羅凍ラトウは苦笑いするかのような表情を浮かべた。

「折角会えるなら、気の休まるところで会いたかったから」

 元気のない羅凍ラトウに、沙稀イサキはやはり違和感を覚える。羅凍ラトウにしては大人しすぎる。ただ、そう思ったのは束の間。沙稀イサキ羅凍ラトウらしいと思える言葉を聞く。

恭良ユキヅキ様と結婚したのには、驚いた」

「俺も」

 沙稀イサキ羅凍ラトウを見て、いたずらに笑う。すると、

「何それ、自分のことでしょう?」

 と、羅凍ラトウがやっと笑った。

 ふたりで笑いつつ、沙稀イサキ羅凍ラトウの笑顔に安心する。できることなら、このままの羅凍ラトウでいてほしい。

「ねえ、どこかで手合わせ願えない?」

「え? ああ、うれしいな」

 自然な笑顔が羅凍ラトウに咲いて、沙稀イサキは腹を割って話せる気がした。


 羅凍ラトウ沙稀イサキを案内したのは、羅暁ラトキ城の東側。草原が広がり空気が澄んでいて、空は高く見える。

「清々しいね」

 沙稀イサキが程よく冷たい風を仰いでいると、羅凍ラトウは剣を抜いた。

「お願いします」

 ためらいなく真剣を抜いた羅凍ラトウに、沙稀イサキも腰の剣を抜く。

「お願いします」

 一瞬にして、沙稀イサキからおだやかさが消える。鋭く、羅凍ラトウを見据えた。ふたりが手合わせをするのはあいさつ代わりだが、羅凍ラトウから真剣を抜くのは初めてだ。

 ジリジリと羅凍ラトウから闘志が伝わってくる。こういう羅凍ラトウも初めてで。もしかしたら、羅凍ラトウは本格的に剣と向き合っているのかもしれないと、沙稀イサキは感じた。

 もし、そうだとしたら。沙稀イサキは同じ剣士として土俵に立たなくては失礼だと判断する。これまでの羅凍ラトウとは違うのだから。

 沙稀イサキが一歩、踏み込もうとしたそのとき、意外にも羅凍ラトウから剣が伸びてきた。沙稀イサキからすれば不意打ちで、反射的に剣を弾き返したが体制がグラリと崩れる。パッと右手をつき体制を瞬時に立て直すが、羅凍ラトウを見て不自然さを感じた沙稀イサキは剣を止める。

「どうしたの?」

「だって」

 羅凍ラトウの動揺は明らかだ。それは、沙稀イサキの右手の甲から流れ落ちる血のせい。

 沙稀イサキは先ほど、体制を立て直すため右手をついたときに血が流れていると目にしていた。羅凍ラトウの剣に触れたのだろうと推測し、やはり羅凍ラトウは筋がいいなと感心しただけで。痛みもなければ、悔しさもない。かえって、まだ実践に至って初期で傷を負わせてくれたのかと、うれしくなったくらいだ。

 それなのに、目の前の羅凍ラトウは申し訳なさそうに目線を下げている。

「手当……してもらおう」

 剣士同士なら、勝敗がついてからしかあり得ない台詞に耳を疑う。あり得ないことだ。このくらいの出血で勝負を投げ出すなど。

 それに、もし実践だとしたら尚更だ。出血がどんなに多くとも、血に怯めば隙をつかれて確実に襲われる。──それは、自らの命を差し出す行為と変わらない。

 だから沙稀イサキは、考えを改めざるを得なかった。ああ、そうだ。羅凍ラトウは教養の一環として剣術をしているだけだと、沙稀イサキは思い直す。真剣を抜かれて、すっかり勘違いをしてしまったと反省して。

 羅凍ラトウの言葉で、勝敗は沙稀イサキの不戦勝になる。沙稀イサキはおもむろに剣を鞘に収めた。

「今日は俺も手加減なしで、互いに憂さ晴らしになればと思ったのに。放棄させてしまったね……すまない。俺は切るのも切られるのも慣れているから、その、何とも思えないけど……」

 人を切った感覚は手にこびりつき、いつまでも残る。沙稀イサキは嫌と言うほどそれをよく知っている。けれど、見たところ傷は浅い。この程度であれば『切った』感覚は羅凍ラトウになかったかもしれない。沙稀イサキからすれば、そのくらいのかすり傷。

 ふと、沙稀イサキは白い軍服を着ていたと思い出す。どうも軽装備の感覚のままでいけない。サッと見た限り血は服についておらず、沙稀イサキはハンカチを取り出すと手早く止血をする。

「俺の、覚悟がないせいだ」

 ポツリと羅凍ラトウが呟く。

「痛感した。何が足らなかったのか。人を切る覚悟だ。俺は、初めて手合わせしてもらったときに真剣を人に向けるだけでもためらっていた。切る度胸なんて到底なかった。今日だって……覚悟して剣を抜いたはずなのに、怪我をさせるなんて思ってもいなかった。俺は……何に対しても覚悟が足らないんだ」

 羅凍ラトウは剣を強く握ると、静かに言う。

「向き合ってみる。自分の弱さと。……ありがとう」

 率直な言葉に、沙稀イサキは気恥ずかしくなり視線を逸らす。まっすぐに、こんな風に言える羅凍ラトウが羨ましい。

羅凍ラトウは強いよ。自分を弱いと認められるんだから」

 意外な言葉だと言うように、羅凍ラトウが目を丸くする。

 変わったと心配していた羅凍ラトウが、変わらずにいてくれたと沙稀イサキは安心し、つい本音がもれる。

「俺は人を羨んでばかりだ」

「え? 沙稀イサキは充分……」

「そんなことはない」

 沙稀イサキ羅凍ラトウを見上げる。

「俺は虚勢を張って強いふりをする。自分の弱さも認められないで。昔から……もがいているだけだ」

 だから、強いのは羅凍ラトウの方だと言ったのに、羅凍ラトウはふしぎそうな顔をした。いつになく素直に言えたが、うまく伝わらなかったようで。沙稀イサキは少々照れ臭くなる。

「少し、休もうか」

 沙稀イサキは歩き出す。知らない道だか、ここに案内した羅凍ラトウがいれば、どこに着こうが羅暁ラトキ城に行ける。

「あ、でも……」

「大丈夫だよ、このくらい手当しなくて」

 羅凍ラトウの戸惑った声を流すように、沙稀イサキは言葉を出した。──にも関わらず、羅凍ラトウの動揺は残ったまま漂ってくる。

 ──困ったな。

 沙稀イサキ自身が羅凍ラトウと同調し、動揺しそうになる。だからこそ、あえて。羅凍ラトウのように明るく振舞おうと努める。

「このくらいの傷、止血をしなくても致死量に達しもしない。……心配しすぎ」

 大袈裟に背伸びをしながら沙稀イサキは笑ってみる。ただ、これで羅凍ラトウが一緒に笑えるはずはない。

 羅凍ラトウは何も言わないまま沙稀イサキについて行くように歩き始めたが、その様子が『やっぱり、変わっていないな』と思えて。沙稀イサキは安堵し、微笑む。

羅凍ラトウがさ、素直なままでよかった」

 これまでも正直に、沙稀イサキは思った通りのことを言っているのだが──どうも羅凍ラトウに伝わっている気がしない。沙稀イサキは考える。どう言えば、伝わるのかと。

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