【6】長い時間(1)

 何かが聞こえた気がして、沙稀イサキは目を覚ました。咄嗟に体を起こし、左手で剣を握る。警戒しつつ周囲を見渡してから、薄暗く見慣れない室内の風景に、ふと船に乗ったことを思い出す。

 体の力を抜き、ため息ととにもれたのは、

「は……あはははっ」

 嘲笑──のはずだった。笑い声はいつの間にか消えていて、涙があふれている。


 解放されたと思っていた。けれど、それは思い違いだったとひとりで目覚めて気づく。

 目覚めが悪い。どうしようもなく。

 こういうときは、サッとでもシャワーを浴びてしまった方がいいと、沙稀イサキは体を重たそうに動かす。


 脱衣所に剣を置き、鏡が目についた。おもむろに近づき、覗き込むように凝視する。何度見ても、変わらない。わかっているのに見てしまう。鏡を見る度に沙稀イサキは『これが本当に自分なのか』と苛まれる。

 髪を無理に染められたのは、一度だけだ。大臣が『人前に出るから』と言った。根元から離れた部分は、まだクロッカスだったからだ。

 根元の伸び続ける色も、瞳の色もリラに変わっていると自覚していた沙稀イサキには、そのまだ残っていたクロッカスの部分を消されたくなくて、抵抗した。だが、それに対する大臣の言葉で、沙稀イサキは抵抗を止めた。

「では、か?」

 意味は似ているが、沙稀イサキにはまるで違う言葉だ。大臣が本気で言っていると感じれば、抵抗を止めた体は震えた。

 染めたのは一度だけなのに、ずっと同じ色で伸び続けている。染めた部分はもう、とっくに残っていないだろう。

 切りそろえながら伸ばしたクロッカスの髪が、ようやく胸元まで伸びたのが七歳だった。父の容姿を真似るように腰まである長い髪に憧れて、あと少しになった。父と同じように腰まで髪の毛が伸びたなら、父に会えるような気がしていた。

 それが、腰まで伸びたときは。それどころではなく。生きられるかどうかの毎日になって。平和が訪れ落ち着いてからは、腰までの長さを維持してきた髪の毛を見て、無性に空しくなる。

 父には、会えない。亡くなっているのだから。


 そんなことはもうわかっているのに、いつまで経ってもこの長さを維持している。

 もし、父に会えたとしても──我が子だと認めてくれるかも、わからないのに。


 鏡の前からスッと離れ、浴室へと足を踏み入れる。


 七歳だったあの日、大臣が涼舞リャクブ城に向かった理由を、沙稀イサキは成長するにつれてわかった気がしていた。沙稀イサキ瑠既リュウキ涼舞リャクブ城に行ったことがない。父に会えないなら、せめてその生家に行ってみたいと思ったが、母のせいで唏劉キリュウが亡くなったと聞けば、行きたいとは言えなかった。だから、大臣は涼舞リャクブ城が攻められたと知って、援護に行ったのだ。


 深呼吸を一度して、シャワーを強めに出す。ザッと体が一気にぬれる。


 いずれ沙稀イサキたちが大きくなって、時が経てば。いつか涼舞リャクブ城に行けるようにと、大臣は思っていたのだろう。落魄し、それは叶わなくなったが、鴻嫗トキウ城のために戻ってきてくれたのだと察しがつく。

 大臣は唏劉キリュウを知っているようだから、涼舞リャクブ城に近しい者だったのかもしれない。いや、あの腕前だからこそ、唏劉キリュウと親しかったのかもしれない。いずれにせよ、大臣が過去を話さないのだから、沙稀イサキには父と大臣の関係性はわからない。どうであったにせよ、涼舞リャクブ城と鴻嫗トキウ城を天秤にかけた瞬間があったのだろうと思っている。

 大臣がいなければ、沙稀イサキ瑠既リュウキも、どうなっていたかわからない。そういう意味でも、大臣には感謝しかない。反抗しつつも尊敬し、師と仰いでいる。


 シャワーを浴びている時間は好きではない。沙稀イサキにとっては最も嫌いな時間だ。最も己を汚らわしいと感じる時間。過去を洗い流すように、浴びるようなものだ。


 涼舞リャクブ城は落魄し、墓地もないだろう。まぶたを閉じれば、目にしたことのない土地が荒れたままで広がる。

 父に会いたいと沙稀イサキがどんなに願っても、墓前に立つことも叶わない。荒野でもいいと、涼舞リャクブ城の跡地に向かいたい気持ちはずっとある。けれど、落魄まで鴻嫗トキウ城が追い詰めたと思えば、向かうこともできない。跡地に足を踏み入れれば、汚してしまうのではないかと恐れている。


 いつの間にか、この髪の長さが贖罪だ。


 シャワーを浴びているときは、何よりも虚しくて、苛立たしい。歯を食いしばらなくては、いられなくなる。何て愚かだと、込み上げてくる感情に壊れそうになる。

 急いでシャワーを止め浴室から出て、タオルで髪の毛の水分を吸い取る。香水を首や胸に吹きかけ、沙稀イサキは力を失ったように、その場で倒れ込んだ。


 恭良ユキヅキと寝るようになって、少しはまともに眠れるようになっていた。シャワーを浴びる時間も好きになれた。

 愛おしい手が、肌が、触れる体や髪を、愛おしい瞳が映す姿を好きになろうと思えた。

恭良ユキヅキ……」

 会いたいと想いが込み上げ、涙があふれてくる。愛おしい人を想えば、どんな傷も癒えた。苦しみや悲しみを感じないでいられる。恭良ユキヅキが数時間いないだけで、過去に苛まれる。

 ルイから与えられた香りに包まれて、沙稀イサキは船に乗る前の会話を思い出す。

 ──そうだ、瑠既リュウキに何か……。

 我に返ったかのように体と目元を拭き、身支度を整える。そうして、何も食べていなかったと気づいた。

 意識をしっかりと保って鏡を見る。姿見程度に軽く確認だけをし、沙稀イサキは食堂へと向かう。




 時刻は二時になっていた。遅い昼食だと思えば、ちょうどいい時間だ。五十人くらいの座席、ちいさめの食堂と言っていいだろう。遅い時間のお陰か、半分以上の席が空いている。

 見渡しても、ルイはいない。別の食堂に行ったのかもしれないが、この時間では待ち合わせをしなくてよかったと沙稀イサキは思う。

 奥の窓側の席に座り、メニューに軽く目を通す。すぐに近くにいたメイドを呼び、注文をする。


 そうして、無難に食事を終えて、部屋に戻る。広さは八畳ほどと、沙稀イサキが過ごす部屋にしては少々狭い。広めの部屋は珍しくひとつしか空いておらず、部屋を取るときに沙稀イサキは、もうひとつの部屋はこのくらいで充分だと判断した。傭兵を経験したことのある沙稀イサキにとって、ひとりで移動時間だけを過ごすだけなら、どんなに狭くても苦ではない。

 ラグの上に座り、剣の手入れを始める。沙稀イサキ自身の部屋にもラグがあった。肌触りこそ違うが、同じアイボリーで居心地はいい。懐かしさから心が安らぐ。

 剣の手入れを終え、今度は日課のストレッチを一通り行う。ストレッチは徐々に筋トレになり、沙稀イサキはすっかり汗を流していた。体を動かしている間は気分が晴れていたにも関わらず、一連の筋トレが終わりに近づき、沙稀イサキは憂鬱になっていく。

 シャワーを浴びたいと気持ちと比例するように、拒む気持ちが込み上げている。

 まったく、とうんざりする。毎度のことだ。ただ、湧き上がる感情に嫌気が差す。嫌な感情は連鎖するもので、次第にこの汗臭さが鼻につき何とも不快になった。

 己を奮い立たせて浴室へと向い、素早く衣服を脱いで熱いシャワーを浴び始める。体の臭いをはやく消したいと強い衝動に駆られる。すると、幻臭に襲われる。

 いくら泡立ててみても、泡の香りを塗り潰すように悪臭が立ち込める。錯覚だと理解はしているが、衝動的に押し寄せる苛立ち、虚しさに堪え、歯を食いしばる。耐えていても、思い出す過去に引きずられそうになる。

 そうして、ため息がもれる。いつも、ここで立ち止まる、と。

 最も己を汚らわしく感じている。独房にいたころ、出た直後を思い出して。何て愚かだと、冷静になればあれだけ酷かった悪臭は消えている。

 微かに震える体を抑え込むようにシャワーを止める。重い足で浴室から出て、沙稀イサキは静かにタオルで体を包む。

 安堵を感じれば、瞳を閉じて深呼吸を一度。心を落ち着かせるために香水をかけ、身支度を整える。気休めに、香水をまた胸に一吹き。

 時計を見ると、いつの間にか八時を過ぎている。沙稀イサキは夕食へと向かう。

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