【5】代替え

 鴻嫗トキウ城を出た沙稀イサキルイは、絢朱シンジュまでの道のりを楽しむように話しながら歩いていた。

 他と交流を一切絶って育ったルイを、沙稀イサキは心配している。ルイのことを思えば、今日は喜ばしい日だ。沙稀イサキには、今日からルイが新しい一歩を踏み出すように感じられていた。

沙稀イサキ様は、昔に渡した香水を……変えずに使ってくださっていますよね」

 ルイはどこか照れて言う。

 しかし、ルイのその感情が誰に向けられたものなのかを、沙稀イサキは理解している。だから、沙稀イサキルイの様子に照れることはない。

 昔、ルイと再会したのは、偶然だった。あれは、沙稀イサキが剣士として城内を自由に歩けるようになった二年後のこと。当時、ルイは十四歳になっていて。

 年下だったはずの女の子が、ずい分大人に見えたと思い出す。

「本当は、瑠既リュウキにあげたかったんでしょ?」

 沙稀イサキのやさしい問いかけに、ルイは赤面していく。図星だ。

 再開した当初、沙稀イサキルイを素通りした。気持ちを整理できなくて。だが、翌日。今度はわざわざ大臣を通して、ルイ沙稀イサキに会いに来た。これには驚いたが、それだけルイはさびしいのかと思い──香水は、そのときにもらった。そのときから、本当は瑠既リュウキにあげたかった物だと察しはついた。

「俺、変えてもいいよ。このまま俺が使っていると、瑠既リュウキにあげられないでしょ?」

 問いに対して、ルイは戸惑いながらも首を横に振る。

「ああ、そうか。今更俺が変えたとしても、もうあげにくいよね。ごめんね」

 一瞬、動きを止めたルイが、今度は高速で首を左右に振る。沙稀イサキは慌てて止めるが、ルイは恥ずかしさからか、頭から湯気が出ていそうに見える。

 こうして元気でいてくれてよかったと、沙稀イサキは心底思う。昔、香水を沙稀イサキに渡そうとしてきたルイを目の前にして、この子のさびしさを埋めたいと受け取ったことを覚えている。瑠既リュウキが帰って来るまでなら、ルイを支えても構わないだろうと当時の沙稀イサキは思ったわけだ。

 沙稀イサキルイは幼なじみだが、沙稀イサキ瑠既リュウキに遠慮をして幼少期からルイとふたりきりにならないようにしていた。沙稀イサキ瑠既リュウキの気持ちがわかったわけではない。沙稀イサキが恋心を知るのは、ずっとあとのことだ。だが、大切な人を想う気持ちは、なんとなく想像がついた。それだけのことだ。

 大切な人が何年もいないさびしさは、沙稀イサキも知っていた。だから、再会したルイから香水を受け取って、瑠既リュウキのいないさびしさをルイが少しでも感じないでいられたらいいと願った。──あれから沙稀イサキは、ルイがいつでも寄りかかれるような存在としているように心がけた。沙稀イサキからすれば、ルイ瑠既リュウキと婚約したときから、家族の一員。家族が支え合うのは、当然のこと。

 ルイは落ち着きを取り戻したのか、恥ずかしさに耐えながら沙稀イサキに言う。

沙稀イサキ様は悪くないです。やさしすぎるんですぅ……」

「そう?」

「そうです! 私のことをわかっていて、ずっといてくれていじゃないですかぁ……」

「いや、うっかりしていた。瑠既リュウキが帰って来たら、すぐに変えるつもりだったのに」

 沙稀イサキルイに気づかれていたと知り、軽く笑う。

「何か、あげるの?」

 はやくあげなよと催促したつもりが、ルイは一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。すぐにうつむき、首を横に振る。

 ルイが一瞬見せた表情が気になり、沙稀イサキは少し考え、ああ、と思う。恐らく、瑠既リュウキが現在使っている香水を気にしている。

 瑠既リュウキ倭穏ワシズと一緒に帰城したときから、ルイとの婚約発表をしても、結婚をしても同じ香水をつけている。

 その香水を気にするのは、誰が選んだかと考えたからだろう。名を浮かべるのは、かんたんで。そもそも瑠既リュウキが自ら香水を手にするとは、沙稀イサキには思えない。沙稀イサキは単に双子ならではの勘だが、瑠既リュウキをずっと異性と認識しているルイからしたら、どうだろうか? ルイ沙稀イサキと同じ考えに辿りついたのなら、どんなに気になるだろう。

「変えてもらわないの?」

 ルイは素早くうなずく。やせ我慢をしているように見えるその姿に、沙稀イサキは率直に問う。

「気になるでしょう?」

「大丈夫です」

「健気だね」

「いいんです。となりに置いてくださっているだけで」

 ルイは何かを思い出したように涙を溜めていく。

「何か、あった?」

「いいえ……」

 絞り出すようにルイは答え──沙稀イサキはそれではかえって『何もない』と言っているようなものだと思ってしまう。

 瑠既リュウキは、帰城した直後と比べるとずい分落ち着いてきた。それは、沙稀イサキにはいい傾向だと思っていたことで。ただ、ルイがこんなにも悩んでいるなら、果たしていい傾向だったのかとも考えてしまう。

 帰城したばかりときの瑠既リュウキは、目につくほど倭穏ワシズに触れていた。沙稀イサキにはその言動が下品だと感じて、余計に苛々としたものだ。

 一方のルイに対してはどうかと言えば、真逆と言っていいほど。それこそ、瑠既リュウキからルイに触れたのを見たのは、結婚式のときくらいなもので。──そういえばそれ以降、瑠既リュウキからルイに触れるそぶりを見ていない。倭穏ワシズと一緒にいたときと比較すれば、不自然にも思えてくる。

 ただ、それ以外は相変わらずの態度だ。どこか馴れ馴れしく、それでいて無理をして明るく振る舞っているように感じている。だが、成長過程による影響なのかもしれない。沙稀イサキは仕方ないと思い、指摘しない。

 とは言え、ルイとふたりでいる瑠既リュウキはどこかぎこちなく見え、ただ、沙稀イサキにはその瑠既リュウキの方が自然な態度だと感じていた。幼いころから、瑠既リュウキルイに不用意に触れず、どこか緊張していたものだ。そうでなくとも、何かあれば沙稀イサキの背中に隠れるような小心者だった。

 そう考えれば、沙稀イサキには瑠既リュウキルイをきちんと大事にしているように思え、

瑠既リュウキはそんなに器用な奴じゃないよ」

 と言ってみたが、ルイの顔は晴れない。

「はい」

 ルイはちいさく返事をして、また大丈夫と無理をしているかのように微笑む。

 そんなルイの様子に、何と声をかけようかと沙稀イサキは視線を前方へ向けた。周囲の風景は木々から草原へと変わり、絢朱シンジュが見え始めている。

「着いたね。手続き、一緒に行くよ」

 あくまでも沙稀イサキは、ルイを外から支えることしかできない。


 沙稀イサキルイとともに手続きを行ったが、心配は消えない。こんなときに限って、船内で近くの部屋がとれなかった。船に乗ってしまえば、ルイと落ち合うのはなかなか難しい。

「本当にひとりで平気? 俺、ルイ姫を克主ナリス研究所に送ったあとでも、羅暁ラトキ城に行けるよ」

 元々、船を乗るまでの案内だったが、心配のあまりに出た過保護な沙稀イサキの発言。楓珠フウジュ大陸から船を乗り換え、梓維シンイ大陸へは数時間。ルイ克主ナリス研究所に見送ってから羅暁ラトキ城に連絡を入れても、時間調節は可能だ。

 けれど、ルイはそれは悪いと遠慮しつつ、克主ナリス研究にはひとりで行けると言う。

「ここまででも充分です。本当に、ありがとうございました」

「そう? じゃ……明後日の早朝に、またここで」

「はい」

 ルイは笑顔で別れを告げ、頭を下げる。沙稀イサキに見守られながら楓珠フウジュ大陸行きの船に乗ると、再び微笑み手を振る。


 沙稀イサキも手を振って見送り、姿が見えなくなるとルイが船に乗るのを見届けたと、大臣に連絡を入れる。

恭良ユキヅキ様と変わりますか?」

 受話器から響く大臣の声。

 沙稀イサキは断ったが、大臣はもう一度聞いてきた。

「いい。声を聞けば……会いたくなる」

 沙稀イサキは言い終わると、大臣の返答を待たずに受話器を置く。

 鴻嫗トキウ城を出てから、まだ二時間弱。それにも関わらず、恭良ユキヅキを思い出すと、沙稀イサキにはとてつもなく長いように感じられた。


 梓維シンイ大陸までは一日以上かかる。一先ず、楓珠フウジュ大陸まではおよそ二十二時間。長旅だが、仕方ない。船に乗ったら一先ずすぐに寝てしまえばいいと、沙稀イサキはさっさと船へと乗り込む。

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