譲れないもの

【12】疑心(1)

 凍てつくような寒さがとけたものの、まだ春は遠い。温暖な気候で知られる楓珠フウジュ大陸も未だ肌寒い。

 克主ナリス研究所は西部に位置し、人里から離れ、木々に囲まれている。


 研究者たちは今日も君主、忒畝トクセのもとで、おだやかで静かな一日を過ごして──は、いなかった。

充忠ミナル忒畝トクセがいないの!」

 慌ただしく廊下を走ってきたのは、ひとりの少女。青紫に近い長い髪が乱れ、走り回っていた様子。

忒畝トクセが?」

 怪訝な声がもれ、充忠ミナルの眉間にはぐっとしわがよる。

 これから大事な来客がある。君主が直々に出迎えなくてはならないほど、大事な来客が。

「あんのバカヤロウ、一体どこに……」

 言葉は途切れ、突如歩き始める。その足ははやく、少女は戸惑いながらも慌てて充忠ミナルの後をついて行く。


 図書室近くの廊下から、窓辺を足早に通過していく。ふたりは所定の研究服を着ているが、一部のデザインや配色が異なっている。職位を示しているようだ。


 時刻は昼過ぎ。来客を迎える予定の時間が近づく。




 約束の時間に肝心の君主が不在など、あってはならない──充忠ミナルは焦り始めていた。あろうことか、来客は梛懦乙ナジュト大陸の鴻嫗トキウ城から来るのだ。

 充忠ミナルは研究所内を探そうとはせず、一階へと歩いてきていた。その行動に少女の口が開く。

「どうするのよ、君主代理」

「どーもこーもねぇよ。見つけ出すまでだ!」

 君主の行動はさておき、彼には立場がのしかかる。あんのバカヤロウと言っておきながらも、君主の面子を潰すわけにはいかない。

 見つけなくてはという思いが更に足を加速させ、充忠ミナルは正門へと急ぐ。


 ふと、速度がゆるんだ。

 そこは正門の手前。壁から飛び出た、半立体の彫刻が見える広い通路だ。見覚えのある人物が機嫌よさそうに歩いているのが見え、自然と力が抜けていた。

 その人物は、浅葱色よりも薄く見えるツンツン頭と、黒にも見える深緑色の縁の眼鏡が特徴的。眼鏡の奥には、父譲りの薄荷色の瞳がある。薄い色のストールで首元を整え、眼鏡と同色の品の良いジャケットを身につけている小柄な青年。

「バカヤロウ、どこに行ってたんだよ」

 充忠ミナルの怒りは、言葉となって放り出される。

「あ、見つかっちゃった」

 受け止める方は、苦笑いを浮かべる。──この青年が忒畝トクセだ。男性としては並の身長である充忠ミナルと比べても、十センチ近い差がある。もちろん、忒畝トクセの方が低い。

 充忠ミナルは頭を抱える。

「よりによって、正門から……」

「ほら、日ごろ白衣しか着ない充忠ミナルが珍しく正装しているのよ」

 声を遮ったのは、少女の明るい声だ。先ほどまで焦っていたのも、探し回っていたのも、少女の頭には残っていないかのような、明るい声。

「ああ、本当だね」

 少女につられるように忒畝トクセも弾む声を出す。

 忒畝トクセの苦笑いが微笑みに変わり、

「まったく」

 と、声をもらした充忠ミナルの怒りゲージは急激に低下していく。このほんわりした雰囲気を漂わす忒畝トクセを前にして、怒りは継続しない。

「珍しく所定の服装をしているのは、馨民カミン。お前もだろ」

 決してやさしい口調ではない充忠ミナルの発言に、なぜかほがらかな視線が集中した。充忠ミナルは目を見開く。

 ほんわりしたふたりの雰囲気は、充忠ミナルを覆いそうになる。だが、そのほんわり感に包まれず、払いのけようとする。要は、照れ臭い。

「そろそろ時間」

 棒読みするような声で場を終息させる。──さすがは年上と言ったところか。

 一瞬流れた静寂は、微かに異なる空気を運んできた。充忠ミナルはなんとなく入口に視線を投げる。ぼんやりと視界に入る忒畝トクセの背後にみっつの人影──来客が来たようだ。

 充忠ミナルが頭をサッと下げると、続いて馨民カミンも同様の動作をする。それに気づいた忒畝トクセは振り返り、やさしい笑顔を浮かべ口を開く。

「いらっしゃい、久しぶり」

 徐々に光を浴びた人影は、その姿を現す。恭良ユキヅキ沙稀イサキ凪裟ナギサの三人だ。

 恭良ユキヅキ凪裟ナギサは白を基調とした、異なるデザインの洋服を着ている。肩と膝が出ている凪裟ナギサよりも、恭良ユキヅキの方が落ち着いた雰囲気だ。沙稀イサキは城にいるときのような軽装備ではなく、同行者になじむような同色を基調とした洋装。ただし、長剣は腰に凛と携えている。

忒畝トクセ様、お久しぶりです!」

 頬に手を添え、恭良ユキヅキは嬉々とした声を出す。沙稀イサキはスッと、凪裟ナギサは慌てて深く頭を下げる。

「緊張しているんだ」

「当たり前でしょ、恭良ユキヅキ様の尊敬している方だし、研究者としてはすごく憧れる方なんだから」

 無感情な沙稀イサキに、凪裟ナギサは騒ぐ。もっとも、小声でだが。

「頭は上げて。さぁ、どうぞ」

 忒畝トクセの言葉で、頭を下げていた四人はゆっくりと頭を上げる。案内するように歩き始める忒畝トクセの背中を、恭良ユキヅキは弾むようについて行く。そのうしろを、沙稀イサキ凪裟ナギサはついていく。

 一方、充忠ミナル馨民カミンは再び頭を下げ、来客を見送った。




 恭良ユキヅキたちが通された客間は、会議室のような部屋だった。ローテーブルを挟んで、ひとり掛けのソファーとふたり掛けのソファーが向かい合っている。

 恭良ユキヅキ忒畝トクセがそれぞれひとり掛けのソファーに座り、沙稀イサキ凪裟ナギサは、恭良ユキヅキの左手側のふたり掛けのソファーに座る。

 テーブルの上に置かれているカップからは湯気がのぼり、かすかに部屋の空気をやわらかくしている。カップに注がれているのは、アップルティー。

 その湯気を空気と混ぜたのは、恭良ユキヅキだ。

忒畝トクセ様。楓珠フウジュ大陸に伝わる伝説について、詳しくお聞かせ願いたいのです」

 まるでおとぎ話をねだっているかのように胸をときめかせる。となりに座る沙稀イサキも、続いて忒畝トクセに呼びかける。

楓珠フウジュ大陸に残る伝説、女悪神ジョアクシン伝説についてです。伝説には克主ナリス君主、つまり克主研究所ココの初代君主の名も出てきます。あの伝説は、実際にあった出来事なのでしょうか」

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