【4】姫

「その伝説はね、楓珠フウジュ大陸の伝説なんだって。忒畝トクセ君主のいらっしゃる、克主ナリス研究所の付近に残る伝説みたい。絵本童話は、あくまで童話でしょ? それに、すべての研究者に於いて克主ナリス研究所は憧れの場所だし……聞いてみたくて」

 腑に落ちない表情が沙稀イサキに浮かび、慌てて凪裟ナギサは言う。

恭良ユキヅキ様に話したわよ。いいって言ってくれたわ」

 それはそうだろう。姉妹のように育った凪裟ナギサの頼みを、恭良ユキヅキが断るとは思えない。

「わかった。ありがとう」

 軽く手を上げ、凪裟ナギサに背を向ける。恭良ユキヅキが了承している以上、沙稀イサキはその意向に従うしかない。

「もう行っちゃうの?」

「長居して悪かったね」

 素っ気なく沙稀イサキは退室していく。パタリと閉まった扉に、

「長居だなんて……思ってないわ」

 と、凪裟ナギサは呟いた。


 宮城研究施設を後にした沙稀イサキは、地上に出ていた。だが、その足取りは城内に戻ろうとはしていない。

 L字の渡り廊下を曲がらずに、まっすぐ進む。この先にあるのは、緊急時用の塔だ。正門に近い宮城研究施設に対し、緊急時用の塔は鴻嫗トキウ城を右手側にしながら歩き続けなくてはならない。右手側に城がなくなってから左に進むと、高々にそびえる塔が見える。高さからして、最上階へ上がるのは気が遠くなりそうだ。

 塔の入り口をくぐると、壁に添って螺旋階段が見上げる限り続いている。それを視界に映しても沙稀イサキは止まることなく進み、螺旋階段を一歩、また一歩と登っていく。

 均等に設置された蝋燭は炎を灯し、揺らめくそれは塔の内部、氷のような水色の煉瓦を照らし続ける。影となっても炎は揺らめき、黒くもやもやした沙稀イサキの気持ちと重なっていく。

 恭良ユキヅキのことだ。捷羅ショウラたちが来ることを、きちんと大臣に話したはず。だが、沙稀イサキにその話しは大臣からされていない。凪裟ナギサに会う前、大臣に会っているにも関わらず。

 羅凍ラトウから兄と鴻嫗トキウ城に来ると聞いたのは、数日前だった。その後、予定変更の連絡はない。

 つまり、大臣もふたりの訪問を了承しているということだ。

 大臣は恭良ユキヅキに甘いところがある。だからこそ、沙稀イサキ羅凍ラトウはともかく、捷羅ショウラが来る真意を知りたかった。捷羅ショウラ羅暁ラトキ城を滅多なことでは不在にしない。その人物がわざわざ来るというのだから、何かがあると思っていた。

 ──実に身勝手な話だ。

 恭良ユキヅキの婚約を大臣に催促しながら、相手が捷羅ショウラだったらと思うと気が気ではなかった。社交場で捷羅ショウラの言動は、目に余るものがある。他にも、いくつものまことしやかな噂話は、耳に入ってくる。

 凪裟ナギサの相手として不安はまったくないと言えば嘘になるが、様々なことを考えれば、悪くないと思えた。何より、凪裟ナギサはクロッカスの色彩を持っているのだから。捷羅ショウラとの話がまとまれば、その色彩に恥じない立場に戻れる。

 最悪な想定をしていた。捷羅ショウラ凪裟ナギサソソノカし、恭良ユキヅキに近づこうとしているのではないかと。しかし、そうではなさそうだと胸をなで下ろす。捷羅ショウラは、ただ凪裟ナギサを想って、会いに来る口実を手に入れただけだ。

 大臣が沙稀イサキに言わなかったのは、凪裟ナギサからにせよ、恭良ユキヅキからにせよ、訪問の理由を聞くと思ってのことだったのだろう。その方が捷羅ショウラへの疑いを晴らすことができると判断して。

 うつむいていた沙稀イサキは炎を見上げる。疑った想いを、その炎で焼き尽くす。

 淡々と一定の速度で登り続けても、沙稀イサキの息は上がらない。かえって最上部が見えると速度を上げ、駆け上がり待ち望むように扉を開ける。

 差し込む陽ざし。輝く光に包まれる、ひとりの人物がいた。目が慣れてくると、光は徐々に視界を妨げなくなる。

 最上部にいたのは、肩ほどの長さのクロッカスの髪を持ち、華奢な体を白いドレスで包む少女。

ユキ姫、やはりここにいらしたのですか」

 ドレスと言っても、他の姫が着るような肩の見えるドレスではない。肩や胸元の露出はなく、足は膝さえ見えない。

 幼い印象がありながらも、上品で且つ、華やかな印象を残す姫──それが恭良ユキヅキだ。

 恭良ユキヅキの視線は声の方向へと動き、嬉々とした声が飛ぶ。

沙稀イサキ!」

 体の正面には、大きなキャンパスがある。

 この塔は緊急用途のため、人の出入りがない。人がいない分集中できると、恭良ユキヅキは絵画を描く場として好んでいる──のだが、それは恭良ユキヅキ沙稀イサキのふたりだけの秘密。大臣にばれようものなら、何を言われるか。

 沙稀イサキは一礼すると歩き始め、恭良ユキヅキの視線はキャンパスへと戻る。

「もうそろそろ完成しそうなの」

 クロッカスの瞳を大きく開け、ジッと見上げる。

 キャンパスには未完成と聞いても、とても一般人には理解できないようなものが描かれている。全体に白く、一部はぼやけていて、とても抽象的なものだ。

 誇らしそうにキャンパスを見上げる恭良ユキヅキを前に、沙稀イサキは息を飲む。そして、出た言葉は──。

「今回もまた……素晴らしい絵画ができそうですね」

 まさかの絶賛だった。

「どこまでも儚げで、残虐で、切ない部分もある。……この表現はユキ姫にしかできません」

 どうやら、この美的感覚を沙稀イサキは理解できるようだ。──いや、城内では沙稀イサキにしか理解できないと言ってもいい。沙稀イサキは美的感覚が優れていると絶大な評価を受けているが、以前に『物質の内面を捉え、別のものに変化させて表現をできる方』と恭良ユキヅキを言い表し、『真似はできない』とまで言って退けた。

 恭良ユキヅキは満足げに微笑む。

「また沙稀イサキにわかってもらえて、うれしい」

 恭良ユキヅキにとって、沙稀イサキは美的感覚も含めたよき理解者といったところだろうか。

 満面の笑みの恭良ユキヅキに、沙稀イサキの頬は自然とやわらかくなる。微笑むふたりは、とても姫と護衛には見えない。心の距離も、物理的距離も、関係以上に近くて。

 微笑み合って意思疎通のできるそれは、まるで──笑い声なくあたたまった空間は、春のようにおだやかな雰囲気を醸す。

「そういえば、今度。捷羅ショウラ様が凪裟ナギサに会いにくるんだって」

「吉報は耳にしております。ちょうど先ほど凪裟ナギサに会い、詳細は聞きました。楓珠フウジュ大陸の伝説を聞くのだとか。……ユキ姫もご一緒に聞かれるのですか? 捷羅ショウラ様と同じ空間にいらっしゃると思うと、俺は心配です」

 発言と同調した沙稀イサキの表情に、恭良ユキヅキは声を出して笑った。

「何がおかしいのですか?」

 不満そうな沙稀イサキに対し、恭良ユキヅキはにっこりと笑う。

「だって。私は心配なことなんて、何もないもの。沙稀イサキはいつだって私をきちんと守ってくれるでしょ」

「それは当然のことです」

「ほら。心配なんて、ないじゃない」

 ゆらりと揺れるクロッカスの頼りない長さの髪。その色彩と長さに負けず、しっかりとした笑顔がそこにはある。

 沙稀イサキは発言の矛盾を恥じるように笑う。

「そうですね」

 恭良ユキヅキは脆そうに見えて、そうではない。何度もこの笑顔で沙稀イサキを救ってきた。

 逆に、恭良ユキヅキの脆さをそうさせないのは、沙稀イサキだ。恭良ユキヅキの自信のなさは、髪の毛の長さを見れば一目瞭然。わずかに肩にかかっているが、肩より下の長さになったことはない。常に容認される範囲のぎりぎりを保っている。これでは本来、世界に君臨する城の姫として、示しがつかない。

「それに、捷羅ショウラ様は凪裟ナギサを完全に射止めるためにいらっしゃると思うの。だからね、そんな心配はしなくていいんじゃないかなって思うんだけど」

「俺もそうであればいいと願っております」

沙稀イサキの警戒心は強いのね」

「お褒めいただき、恐縮です」

 沙稀イサキが微笑めば、恭良ユキヅキはクスクスと笑う。照れ隠しのように、恭良ユキヅキ沙稀イサキの左腕を軽く叩く。じゃれた手は、そのまま腕を蔦っていき、手へと辿り着く。絡んだ手と、そっと腕に添えられるもう片方の手。

「ねぇ、沙稀イサキは絵本童話のお話もできるでしょ? 私、お母様から聞いたのかもしれないけど、あまりよく知らないの。捷羅ショウラ様たちがいらっしゃる前に、聞かせてくれない?」

 ふたりはどちらから言うでもなく、扉へと歩き始める。

ユキ姫がまだ一歳になられる前ですから、おぼろげなことでしょう。かしこまりました。では、夕食の前にいかがですか」

「うん! 楽しみにしてるね」

 朝食も夕食もともにする。昼食はケースバイケースだ。やはり、姫と護衛にしては距離が近すぎる。

 沙稀イサキにその自覚はある。だが、恭良ユキヅキにはないのかもしれない。

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