第4話 暴発
それは、茅野が小学三年生になったころのことだった。
父も母も働きにでている茅野の家では、給食が終わればほどなく帰ってくる茅野が一番早く帰宅する人間だった。
兄はといえば、もちろん自室にこもっているため、そもそも外へ出ることがない。
その日、茅野はたまたま、その場面を目撃したのだ。
一戸建てである茅野の家の玄関から、宅配便の配達員が「ありがとうございました」と家の中へ声を掛けて出てくるところを。
いま家にいるのは兄ひとりのはずだから、なにか荷物が届いたのであれば兄が受け取ったのに違いなかった。
茅野は普段どおり、持っていた家の鍵でドアを開けて家に入った。兄はすでに、二階の自分の部屋に戻ってしまっているらしかった。一通り見渡してみても、そのあたりに届いた荷物は見当たらなかったので、それはどうやら兄が持ってあがったということのようだった。
なるほど、兄はこんな風にして、ネットで何かを購入するということがあるらしい。
その時はそれまでのことで、ほかには特に茅野も疑問に思うことはなかった。
しかし。
やがて、それがいったいなんであったのかが分かったとき、茅野の怒りは頂点に達したのだ。
それが、年頃の男の子が隠れてこそこそ読みたくなるようないかがわしい雑誌か何かであったなら、どんなに良かったかと思う。でも、それはまったくそんなものとは違っていたのだ。
後日、茅野がまた両親のいないとき、二階の自分の部屋へ戻ろうとしたときのことだった。なんとなく見ると、兄の部屋のドアがほんのわずかに開いていた。
茅野は自分の部屋のドアを大きめの音をたててしめ、そこに入ったふりをしてから、足音をしのばせて兄の部屋に近づいた。
なんでその時、そんなことをしようと思ってしまったのか。
今となっては、茅野本人にとってもよく分からないのだという。
ともかくも、茅野少年は足音をひそめ、息を殺してそっとそのドアの隙間から部屋の中を覗いてしまったというのだ。
そう、まさにあの昔話、「鶴の恩返し」のような感じで。
カーテンの引かれた薄暗い部屋の中には、なんだか見慣れない人が立っていた。
母親の化粧台からよくするような、花の香りを凝縮したみたいな、濃厚で変なにおいがぷんとした。
ひらひらしたオレンジ色のワンピースに、長い髪。大柄なその人物は、こちらに背を向けてじっと鏡を覗きこんでいるように見えた。
それがだれのうしろ姿であるかがようやくわかって、茅野は身体が硬直した。
ただただ、気持ちが悪かった。
吐き気とともに襲ってきたのは、凶暴な怒りと、嫌悪感だった。
なにやってるんだ。
学校にも行かないで、親や自分に心配ばかりかけてる奴が。
言葉にすれば、そんなことだったのかと思う。
でももちろん、子どもの彼にはそこまでの認識はなかった。
ただぞわぞわと背筋を駆け抜ける不快感と、むらむらと
それで身じろぎをした途端、ぎしっと足許の板張りの床が音をたててしまったのだ。
振り返った兄は、ひきつったような顔で弟を見た。
その顔には明らかに、母がするような化粧をほどこしたあとがあった。
そして次の瞬間には、驚くような素早さで自分のベッドに突進し、頭から布団にもぐりこんだ。
茅野はそれらをしばらくじっと見て、その場に呆然と立ち尽くしていたけれど、やがて喉をしぼるようにして、ひと言だけ叫んでしまった。
「……きもっ……!」
そうしてもう、あとも見ないで家を飛び出した。
なんなんだ。
あれはいったい、なんなんだ……!
子どもだったから、多分、そんな言葉を考えにのぼせたのではなかっただろうと思う。ただただ、意味がわからず、どう解釈していいのかもわからなくて、穂積少年はひたすら走った。そして、日が落ちて周囲が真っ暗になるまで、近くの公園の中の遊具の陰にかくれてうずくまっていた。
周囲で遊んでいた子どもたちが次第しだいに帰ってゆき、やがて誰ひとりいなくなっても、ひもじい腹を抱えながら、茅野はそれでも家には帰らなかった。
そのうち、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。
それは遠くからやってきて、茅野のいた公園のすぐ脇を通り抜け、走り去っていった。
それが何を意味していたのか、その時の彼に知るよしもなかったけれど。
やがて、とうとう空腹に耐えかねて帰宅した茅野を迎えたのは、騒然とした家だった。家の前には、パトカーや他の警察車両が停まっていた。
母と兄はおらず、父親だけが茅野を迎えて「遅かったな、お前。どこに行ってた」と困惑した顔をしただけだった。
家の中には、警察の人らしい大人が何人もやってきていた。
兄があのあと間もなく、自宅の浴室で自殺をはかったのだということを茅野が知ったのは、そこから随分たってからのことだった。
……だから。
それから茅野の見る悪夢は、かならず真っ赤な浴室の夢になった。
自分の家の浴室、そのバスタブに、女の格好をした兄が浸かっている。
張られた水も、床も壁も、そこはなにもかもが真っ赤で。
兄の半分開いた死んだような目が、こちらを恨みがましく見つめている――。
茅野は毎回、滝のような汗をかいて飛び起きる。
何度見ても、どうしても慣れることはない。
そうして。
最近ではときどきそれが、
あの兄の顔でなく、
クラスメートの篠原という、小柄な少年の顔になることもある……。
◇
「……だから、俺がバカでガキだったんだ。俺があのとき、あんなアホな真似をしてなきゃあ、兄貴だってあそこまでのこたあしなかった」
すべてを淡々と語った茅野の声は、ただ静かだった。それは不思議に、とてもかつての自分のことを語っている人の声には聞こえなかった。
「結局、あれから俺は兄貴にはほとんど会ってねえ。退院してからもずっと引きこもってたし、なんとか通信で高校は卒業できて遠くの大学には行けたけど。それだって、どうやらいつの間にか中退しちまったみてえだし。住んでたアパートも引きはらって、あとはもう連絡もしてこねえで……それっきりだ」
僕はだまって、そんな茅野を見返した。
「親はそれでも、なんだかんだで少しは会ってたみたいだけどな。でも、俺はまったく会わせてもらえなかった。……多分、兄貴のほうで『穂積には会いたくない』とか言ったんだろう。だから、俺は――」
そこで言いよどむと、茅野はふと、かぶっていた帽子のつばをぐいと下げて口を閉ざした。
茅野の言葉のその先が、僕にはなんとなくわかるような気がした。
茅野は、本当はお兄さんにちゃんと謝りたかったのではないだろうか。
あまりにも素直で、子どもで、だからこそ愚かだった自分のことを。
その素直さが、思わず飛び出てしまったたったひと言が、そのまま鋭いナイフになってお兄さんの心を切り刻み、ばらばらにしてしまったことを。
でもお兄さんはお兄さんで、きっと茅野に、家族に、どんなに謝っても許してもらえないとまで思いつめていたのかも。だって、たかだか小学三年生の少年に、そんな咄嗟の場面で「相手の気持ちを考えて言葉を選べ」っていうのは、さすがに酷な話だろうから。
もしいま僕が彼に向かってそう言ったとしても、それでも茅野の後悔も罪の意識も、すこしも減ったりはしないだろう。僕がいま適当に言うひと言、ふた言で、彼の気持ちが楽になるなんてことはない。
だから僕は、やっぱり、なにも言えなかった。
どんなに許してもらいたくても、もう相手に会うことも叶わない。
ただひと言、謝ることすら許してもらえなくて、茅野はそんな、どこにも行き場のない思いを抱いたまま高校に入学し、そうしてあのしのりんに出会った――。
電車の窓から外を見ていた茅野の口もとが、自嘲するようにほんの少しゆがんだのが見えた。
「……シノ、ちょっと変な顔はしてたけどな。これ、話したとき」
「ああ。……うん」
さもありなん、という気持ちになって、僕も視線を窓外へと逃がした。
「あ。けど、今は俺、別にシノのこと気持ち
「あ……そうなんだ」
それを聞いて、僕はちょっとほっとした。
それにしても、しのりんだって友達からこんなきつい告白を聞いちゃって、きっとどうしたらいいかわかんなくなっただろうなと思った。
「シノ、『そうだったんだ』って、『話してくれて嬉しい』って、ちょっとだけ笑ってた。……ま、ほんとのとこはよくわかんねえけど」
「……うん」
それ以上のことは、なにも答えられはしなかった。
かたたん、かたたんと、田舎道を走ってゆく電車の音が車両をゆらす。
「無事かな……しのりん」
ぽつりと言ったら、茅野がぐいとこちらを見た。
はっとするほど強い視線がこちらを睨み据えていた。
「ったりめえだろ。……そうでなきゃ、困るんだよ」
「うん。……そうだね」
怒ったみたいなその声に、僕はちょっと救われた気になって少し笑った。
茅野はまた妙な顔になり、再び眉間に皺をたてると、もとどおり窓外を見る姿勢にもどった。
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