第3話 兄


 茅野からしぶしぶ指定された待ち合わせ場所は、いつもしのりんと会う約束をするあの駅だった。このすぐ近くから、海上にある飛行場への直行バスが出ているのだ。


 僕も茅野も比較的軽装だ。

 僕は地味めのTシャツとジーンズ、その上にパーカー姿。もちろん足もとは山道を歩くことを想定してスニーカーだ。対する茅野はTシャツの上に赤系の開襟シャツとウインドブレーカー、下はゆったりめのカーゴパンツに登山用のミリタリーブーツ。

 茅野はアメカジ風のくたびれた黒いキャップをかぶっていたけれど、僕も似たような紺の帽子姿だ。ちょっと見ただけならなんとなく、一緒に旅行にでも来ている兄弟のように見えなくもないような感じだった。

 茅野はさすがに男子らしく、荷物も本当に少なくて、小さめの黒革風のワンショルダーバッグを無造作に背負っているだけだ。対する僕は、一応は着替えなんかも入れてきたので小さいとはいえナップサックを担いできている。


 僕は出がけに、家に簡単な置き手紙をしてきた。

 いま帰省している友達に問題があって――具体的には、まあ嘘なんだけど「大怪我をして入院したらしいから」ということにして――そちらの見舞いに行ってくるとごく簡単に書いたものだ。

 こちらはスマホも持っているのだから、いざとなれば連絡が取れないわけではないし、あの両親がいまさら僕のことなんか大して心配するはずもないので、それでいいやと思ったのだ。

 どっちみち、家族の誰かがあの手紙に気づくのは今日の夕方以降のことだろう。引き止められる心配はなかった。


 飛行機っていうのは、飛んでしまえばあっという間なんだけど、飛行場まで行くにはちょっと遠い上に待ち時間がやたらに長い。空港のロビーで予定した便が来るのを待ちながら、茅野は電話ではできなかった話をもう少し詳しくしてくれた。

 しのりんたちの田舎へは、あっちの空港からまた電車を乗り継がなくてはならない。そこから本数の少ないバスを使う必要もあって、うまくいってもどうにか日没までにあちらに着くぐらいのことだろうと茅野は言った。

 ともかくも、僕らはそこから飛行機を使ってしのりんの帰省先へ飛んだ。





「ったく、むかつくわ。シノがそいつに何したってんだ」


 道みち、茅野は時折ぼそっとそんなことを言っては眉間に皺をつくり、窓の外を睨むようにしていた。

 空港から少しバスに乗り、そこからさらに電車に乗って、小一時間が過ぎていた。

 すでに周囲には午後の強い日差しがふりそそいでいる。窓の外ではみかん畑のみかんの木があおあおと繁り、つやつやした葉っぱが目にしみるようだった。

 いっぱいの木の葉たちが風にさわさわと揺すられながら目の前を駆け抜けてゆく。それがなんだか、窓から手を伸ばせば触れられそうなほどに近くに見えた。このあたりはそう言えばみかんの産地だったんだなあと、僕はぼんやりと中学で習った地理の内容を思い出したりしていた。


「なんでほっといてやれねえんだ。見たくなきゃあ、見なきゃいいだけじゃねえかよ」


 茅野のそれは、僕に言っているというよりは自分自身に向かって呟いているように聞こえた。

 古ぼけた車両のボックスシートにはす向かいになるように座った僕は、窓際に座り込んだ茅野の横顔をそっと盗み見た。彼は窓枠に肘をつき、口元を覆い隠すようにしている。

 一般的な帰省のシーズンも終わり、地方に向かう電車ということもあって、周囲に乗客は多くない。僕らの座ったボックスシートの周りには人はだれも座っておらず、少々話をしたところで、人に聞こえる恐れはなかった。

 僕はちょっとため息をついて、それでも小さな声で茅野に言った。


「……ごめんね。全部、僕のせいだよ」

 ん、と茅野は目を上げると、変な顔になった。

「お、わりい。そういうつもりで言ったんじゃねえ」

「わかってる。でもやっぱり、今回のこれは僕が招いたとしか思えないから」

 茅野の目が帽子の下でぎろりと光ったようだった。

「やめろ。……違うって言ってんだろが」


 そこからしばらく、なんとなく居心地の悪い沈黙があった。

 まあそうは言っても、ここに来るまでずっと、僕らは大した話をしたわけじゃなかったし、互いの空気はずっとこんなもので、気安くなるような隙はひとつもなかった。

 かたん、ことんと電車の揺れる音のほかは、しばらく何も聞こえなかった。

 やがて。

 非常に不機嫌そうな声が、再び茅野の口から流れ出た。


「……すぐに、俺に言えって言ったのによ。なんかあったら、すぐに言えって。なのに、あのやろ――」

「…………」


 僕は黙って、厳しい表情になった茅野の顔をじっと見返した。





 茅野はそこから、ぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。

 それはつまり、茅野本人と彼の家族、つまり、例のお兄さんのことをということだ。それは先日、彼がみずからしのりんにも話してあげたことなんだということだった。



 先日も聞いた通り、茅野のお兄さんはしのりんと同様に、心と身体の性別が異なって生まれた人だった。

 とは言え、しのりんがそうだったように、茅野の家族がそのことを理解したのは、随分とあとになってからのことらしい。


「シノはまだ、いいんだよ」


 控えめな言い方だったが、茅野は何度かそう言った。

 茅野のお兄さんは、彼の体格を見れば予想のつく通り、しのりんとは違ってずっと背も高くて男らしい体つきをしていたらしい。顔立ちだってどこにも女性らしいものはなく、むしろ精悍と言ったほうがぴったり来るぐらいの、本当に「男らしい」ものだったのだそうだ。

 決して不細工ではなかった――と、弟である茅野はそう言った――けれど、それでも到底、女性の心をもった人にとっては我慢ならないものだったというのは想像に難くない。


 もともとは心優しく、人の気持ちに敏感なところはあったが明るい少年にすぎなかった茅野のお兄さんが、成長するにつれてだんだんと人付き合いを避けるようになり、次第に家に閉じこもりがちになってゆくのを、茅野もご両親も、心配しながらもどうすることもできなかった。

 そもそも、何が彼の――いや、「彼女の」と言うべきなのかもしれないけれど――心をそんなに傷つけているのか、その頃は家族の誰にもわからなかった。お兄さんはそれぐらい、慎重に自分自身のその「秘密」を隠しつづけていたからだ。

 茅野はそのお兄さんからは八つも年下の弟で、当初は家の中になにかわけのわからない暗い空気が漂っているのを、ただ不満に思っていただけだった。その頃の茅野は、まだ小学生になったばかりの、ほんの子どもだったから。


 活発で、男の子の友達と毎日暗くなるまで外で遊びまくっている自分と比べ、大きな図体をしていながらも精神的に繊細で傷つきやすく、優しいけれどもどこかか弱い自分の兄を、茅野はどこかでうとんじていた。

 親が兄の心配ばかりして、弟の自分のことをあまりかえりみてくれないという不満も、多分にあったのだろうと思われる。それはまあ、きょうだいを持つ人なら誰でも、多かれ少なかれ感じることには違いない。

 茅野の兄にしてみれば、「長男なのだから」という親からの期待や重圧も、当然あったのだろうと思う。それについては両親も理解していないわけではなく、兄に何かを言う場合にはある程度、言葉を選んだり一定の気遣いはしていたはずだった。

 でも、兄が中学にあがり、やがて高校に行くようになってから、問題はどんどん肥大化してゆくように思われた。


 もともと学校を休みがちで――それはとりわけ、体育や水泳の授業のある日に集中していたらしかったけれど――やがて兄は、ある日を境にぱったりと学校には行かなくなった。その前後に学校で何があったのか、どんなに訊いても決して兄は答えなかったのだと言う。

 当然ながら、茅野の両親の心配は頂点に達した。彼の家はごく普通のサラリーマン家庭で、母親はパートタイムで働く主婦らしい。そうして残念なことには、息子が不登校になったからといってすぐに辞めてしまえるほど、家計はさほど楽ではなかった。


 兄の不登校が始まって、家の中の空気はさらに重くなった。

 母親は兄を心療内科に連れていき、一応は「うつ病」との診断をもらったらしいけれども、それで問題が解決するはずもなかった。このまま学校を休み続けていれば、高校を卒業するのは難しくなる。ましてや、その先の進路をいったいどうするのか。

 両親はそのことで、しょっちゅう口げんかなどもしていたようだったが、さすがに小さな穂積少年の前でそんなことはしなかった。しかし、それで単純に子どもにはばれていないと思うのはあまりの浅慮というものだろう。

 子どもは大人が思っている以上に、家の中で起こっている多くのことに気づいているものなのだから。


 茅野はもともと、決して兄のことが嫌いではなかった。

 でも、こういうことになってからは、ただもうどんどん、兄のことを嫌いになってゆくばかりなのだった。そして、そういう自分をもっともっと嫌いになった。

 ことあるごとに口げんかをする両親。家の中の重苦しい空気。なんの突破口も見えない生活。自分の前でだけとってつけたように浮かべられる、両親の仮面のような笑顔。

 そんなものが、小さな小学生の少年だった茅野の心にどんどん重たい荷物を押し付けては、ひっかき傷をつくり続けた。

 そうしていつしか、少年茅野は、実の兄を憎むようにすらなっていった。


「あいつさえいなければ良かったんだ。あいつさえいなけりゃあ、父さんも母さんもケンカなんかしないのに。オレだって、こんなイヤな気持ちにならないで済んだのに――」


 兄に向かっては一言もそんなことは言わなかったけれど、茅野は自分の部屋にある大きなクマのぬいぐるみか何かを相手に、日々、きついパンチやキックを繰り出してはその憂さを晴らすようになっていた。

 そのぬいぐるみの顔にはいつしか、あのうっそりと大きな図体の、青白い兄の顔が重なるようになっていた。ぬいぐるみの腕はもげ、尻尾はちぎれ、中綿ははみ出して、それは日を追うごとに悲惨な状態になっていった。


 結局、そんな少年の煮え立つような気持ちが爆発してしまうのに、そう時間は掛からなかったのである。


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