第5話 噂


 その噂が囁かれはじめてから、教室や廊下では、もちろん男女を問わず、いろんな好奇の視線がしのりんの細い身体に突き刺さっていた。

 しのりんが赤い顔をしてそんな生徒たちの間を小走りにすりぬけるさまが、僕の脳裏にはありありと浮かんでいた。そしてその背後でこそこそと楽しげにささやかれる無責任な言葉の数々も。


 そしてしのりんは当然、周囲の野郎どもからあれやこれやとからかわれることになった。


「なんっだよシノ〜。おまえそんなつらしてて、案外やるもんよのう!」

「いや、そのつらだから女子も安心するのかね?」

「けど、やることはやってたのね〜。びっくりだわ」

オスを感じさせねえっつうの? 得だよなあそういう奴」


 気安い態度でしのりんの肩にひっかかるみたいにして、教室でそんな揶揄めいた言葉を吐きちらかすサルどもの様子が目に浮かぶようだった。

 サルどもはそれでも、一応はしのりんを自分と同類の「オス仲間」として認識しているので気安く身体に触れてくるのだろうけれど、それはしのりんにとっては普段からかなり我慢を強いられる時間なのに違いない。普段ですらそうなのに、今回のことでさらにそういうボディタッチが増えてしまって、けっこうしんどかったに違いなかった。

 ちょっと考えてみればわかることだ。

 女の子が、別に好きなわけでもない男子に囲まれていじられて、やたらに身体に触られるなんて、そりゃ僕らが普通に考えてる以上に嫌なことに決まってるじゃないか。

 しのりんはそこまでは言わなかったけど、あいつら平気で相手の股間にまで手をのばしたりするんだしさ。


「紹介しろ、紹介しろ〜。そんで、その子のお友達に会わせろお!」

「そうだ、そうだ〜。そんで俺らにもステキな春、カモ〜ン!」

「お前だけいい思いするって、それはねえべ〜?」


 しのりんは笑って「そんなんじゃない、ただの友達なんだよ」って説明したんだそうだけど、野郎どもは当然、彼女のそんな台詞は無視した。

 まあ、その程度の言葉のたわむれそのものは、「彼女」のできた友達にむかって普通の高校生男子がごく当然のように言うようなことだと思う。別に彼らだって、そんなにたいした悪気があって言ってることじゃないというのも分かってる。

 でも、しのりんはそういう「普通の」男子高校生じゃないんだ。

 彼らのぶつけてくる羨望まじりのそんな台詞が、どんなにしのりんの心に刺さるものだったか。それは僕も想像するしかないけれど、相当きついものだったんじゃないのかなと思う。


 しのりんは、「女の子」なんだ。

 別に彼女なんて、少しも欲しいとは思ってないのに。

 ましてや多分、その場には例のA君だっていたはずなのだ。

 しのりんは何も言わないけれど、きっと彼女はそのとき、A君の顔を見ることもできずにひきつった笑いを浮かべていたんじゃないかと思う。


 で、問題のA君はと言えば。

 彼はわいわい騒がしい男どもの中、そこまではただ一人、眠そうに机につっぷしていたらしい。だけど、やがてふと顔を上げてこう言った。


「てめえら、うるせえ。ほっといてやれ」

 それは至極、めんどうくさそうな言い方だった。

「どっちでもいいじゃねえかよ、そんなもん――」



 そこまでやっとの事で話してくれて、しのりんはまた我慢できなくなったように、カラオケボックスのシートに座ったまま、わっと泣き出してしまったのだった。

 僕は彼女の背中に手をまわし、まるで子どもにするみたいにそこをとんとん叩いてあげた。そうしてちょっと、ため息をついた。


 ――「どっちでもいい」。


 それは、なかなか難しい言葉だ。

 しのりんは多分それを、「自分のことなんて彼のなかではどうでもいいんだ」と解釈してしまったんだろう。

 しのりんだって、彼に対しては友達として、ある一定以上の好意なんて求めるつもりもないはずだけど、それでも彼はしのりんにとって心ひそかに想う人だ。そんな人から正面きって「誰と付き合おうがどうでもいい」なんて言われた日には。

 そりゃ泣くでしょ。少なくとも、女の子だったらさ。

 僕はちょっと、顔も知らないその野郎にグーで殴りかかる自分を思わず妄想してしまった。相手に非がないのは百も承知だけど、それと感情的なこととは別問題だ。


(でもなあ……)


 でも僕には、そこには彼の、ある種の優しさもあるような気がした。

 だって実際、彼がぶっきらぼうにそう言い放ったことで、周囲の男子の「しのりんいじり」はすぐに下火になったということだったから。

 そしてさらに、彼はしのりんが何かの用で職員室に行かなきゃならないとかいうようなとき、ぼりぼり頭なんか掻きながら、うっそりと彼女と一緒にそこまで歩いてくれたりさえしたというのだ。それは間違いなく、廊下なんかで奇異の視線にさらされているしのりんを気遣ってなんだろうと思う。

 もちろん、ほかに用があってついでだから――はっきり言えば「便所だ、便所」――と、面倒くさそうに言ったらしいけど。


(それってさ……)


 つまり、彼は少なくとも、その場で困った立場になっていたしのりんを救おうとはしたわけだ。言い方ややり方にはなんていうか、ちょっとデリカシーがないって言うか「難あり」だけど、そこは普通の高校生の男子のこと。

 そもそも普段からサッカーボールと戯れることに忙しくて、繊細な言葉選びなんて高度なスキルが身についているはずもない。

 だから僕は以上のようなことを少しずつ、かみくだいてしのりんに話して聞かせた。僕の話を聞くうちに、しのりんもだんだんと落ち着きを取り戻してきたように見えた。


「だからね、しのりん。そんな深い意味じゃなかったんだと思うんだよね。彼はきっと、しのりんのこと友達としては大事にしてるよ。……まあそんなこと、大した慰めにもなんないってのは分かってるけど……」

「…………」

 鼻の頭を真っ赤にして、しのりんはやっと涙のとまってきた大きな目をあげ、僕を見返した。

「ほんと……? ほんとにそう思う、ゆのぽん……?」

 その瞳が、さっきよりは随分と明るいものに戻ったのを見て、僕は心底ほっとした。

「うん。だから、もっとちゃんと話してみたら? そりゃ、しのりんのこと本当に理解してもらうまでのことは無理でも、友達としてならこれからも、ちゃんとやっていけるんじゃないかと思うし。……まあそれも、しのりんにとってつらいのはつらいんだろうな、とは……思うんだけど」

 ちょっと申し訳ないような気持ちになってきて、僕の言葉はどんどん尻すぼみになった。

「ごめんね……? なんか、勝手なことばかり言ってるね、僕」

 でも、しのりんはふるふると首を横にふった。

「……ううん。そんなことない。謝らないでよ、ゆのぽん」

 そうして初めて、ちょっとだけ笑ってくれた。


「ありがと、ゆのぽん……。やっぱりゆのぽんは、ボクの最高の友達だよ……」


 やっといつもの可愛い笑顔を取り戻してくれた友達を見て、僕は心底、ほっとしていた。

 これで問題が解決したなんてわけじゃないけど、とにかく、しのりんが少しでも気持ちが明るくなることに役に立てたのなら、それだけでもとんでもなく嬉しかった。


 やがてしのりんは、少し落ち着くためだろう、ちょっとだけ目の前のアイスティーに口をつけてから、小さな声でこう言った。


「ゆのぽん。……いままで、あんまり話したことなかったけど。……聞いてくれる?」


 しのりんは目を伏せて、スカートの上の両の拳をまたにぎっていた。

 そんな濃い化粧をしてるわけでもないのに、そこらへんの女の子よりずっと綺麗で、長く見える睫が震えていた。

 今から何の話が始まるのか、僕にはそれだけで明瞭にわかった。


「聞いてもいいの? ……しのりん」

「うん。……いい機会だと思うんだ。ゆのぽんにだったらボク、聞いて欲しい。いいかな……?」


 真摯な瞳がじっとこちらを見上げてきて、僕はしっかりとそれを見返した。

 もちろん、否やを言うつもりなんてなかった。


「もちろん。……僕でよかったら」


 そうして、しのりんの話が始まった。


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