第4話 A君
「そっちはどう? 大丈夫?」
その日、帰宅してすぐ、僕はしのりんに電話をかけた。
「こっちで噂になっちゃってるけど、そっちはどんな感じなの?」
『あ、うん……』
しのりんの声には明らかに元気がなくて、僕は「やっぱり」と思うと共に、あらためて自分の勘が正しかったのだという確信を深めた。
「何かあった? 大丈夫なの、しのりん」
『うん……。あ、ええと……ゆのぽんにも迷惑かけちゃったよね。ごめんね……?』
「そんなのはいいから。こっちは大したことないんだし。それで、そっちはどんな風なの?」
『あ、うん……』
そこから、長い長い沈黙があった。
そのじりじりするような時間のすべてが、起こったことの全部をもう物語っているような気さえした。
僕はスマホを耳にあてたまま、もう自分のベッドから立ち上がっていた。
「しのりん! 会おう!」
『えっ……』
「電話でなんか話してられないよ。会おう。悪いんだけどしのりん、女の子の格好になれるように準備して来て? 僕も私服で行くし」
『あ、あの、ゆのぽん……』
まごまごしているらしいしのりんに、場所と時間だけを伝えてから、僕は一方的に電話を切った。
また例によって部活から帰ってきた欠食児童の弟どもがうるさいに決まっているので、温めればいいだけの状態にしたカレーやなんかを適当にテーブルに準備して、僕は家を飛び出した。
◇
北側に迫る山々の稜線が、次第に黒ずんで太陽を遮りかける時間だった。
海と山が迫った地形になっている僕らの街は、夕刻になると急にすうっと気温が下がるときがある。それは、山裾にほどちかい場所ほど顕著に感じられるのだ。
町のそこここの街路樹が、まるでその山を恋しがるようにしてざわざわと夕刻の風にざわめいていた。
そんな時間からでは例のハーブ園へ行くことは難しいので、僕は待ち合わせ場所の駅でしのりんに会ったあと、彼女を近くのカラオケ屋へ誘った。
歌を歌うわけではなくても、そこなら誰にも話を聞かれずに個室で話ができる。厳密なことを言えば店員が店内監視用のカメラで部屋の様子を見てはいるんだろうけど、まあそのぐらいは許容範囲だ。
これが公園やなんかだと、通りすがりの変な野郎どもに声を掛けられたりすることも多くて、はるかに面倒なことになる。僕はともかく、女の子の格好をしたしのりんはほぼ百発百中でそういう男どもの目を引いてしまうんだから。
それやこれやで、ちょっとお金は掛かるけど、このさい背に腹はかえられない。
しのりんは大きな鞄を抱え、いつものジーパンとシャツの姿で現れてから、駅の化粧室で女の子の姿に変わり、黙って僕についてきた。
その顔はひどく青ざめているように見えた。目の端が赤くにじんでいるようで、それはきっと、彼女がここに至るまでに何度か泣いてしまったからだとすぐに分かった。
そう思ったら、僕の胸のあたりがきゅうっと痛んだ。
しのりんは今、僕が思っていた以上に大変なことになっているんだと、その顔を見ただけですぐに分かった。
駅近くのカラオケボックスで小さな個室に入り、店員がドリンクを運んで去ってから、ようやく僕らは落ち着いて話をすることができるようになった。
でも、どんなに待ってもしのりんから何かを話そうという風ではないので、僕は仕方なくこっちから口火を切ることにした。
「で、どうなってるの……? そっちの学校は」
「…………」
しのりんはうつむいたまま、悲しそうに白いスカートの膝の上で握り合わせている自分の拳を見下ろしていた。上着はターコイズブルーのサマーニットだ。
次に彼女が口を開くのを待つあいだ、ひどく長い時間が過ぎた気がした。
しのりんはあれやこれやと、僕に何を言うべきか、そうでないかを考えあぐね、迷いまくっているようだった。
「あの……ね、ゆのぽん。えっとね――」
そういいながら、もうしのりんの語尾は震えて、あっという間に声がひびわれた。
次にはもう、しのりんは両手でぱっと自分の顔を覆ってしまった。
ひいいいっ、と悲鳴みたいな声が聞こえたのと、僕がソファから立ち上がって彼女のそばに行ったのとは同時だった。
今にも崩れ落ちそうな彼女の肩を、僕はすんでのところで抱きとめた。
そうして、ぶるぶる震えてるほそっこい肩を、思いきりだきしめた。
その時にはしのりんはもう、僕の肩に顔をうずめて、大声をあげて泣きじゃくっていた。
◇
しのりんが落ち着くまで、しばらく掛かった。
でもやっと、めちゃくちゃになった顔を上げて、しゃくりあげながらもしのりんはやっと僕にそちらの事情を話して聞かせてくれたのだった。
しのりんには、友達がいる。
もちろん、相手は男の子だ。
そのことは、僕も以前から聞いていた。
別に一人ではなくて、何人かいるわけだけど、ここではその中の一人を仮にA君ということで話をしよう。
A君は、しのりんのクラスメートだ。
しのりんとは違って相当なアウトドア派で、いつも暗くなるまで校庭でサッカーボールを追いかけているような、背が高くて日焼けした高校生男子。そんな話を聞いただけでも、僕は「ああ」と腑に落ちることがあった。
なぜならしのりんが好きになるキャラの特徴と、その彼はよく似通っているように思えたから。
ともかくも。
しのりんは普通の男子高校生として、おなじクラスになったそのA君とは友達としてつきあってきた。他にも数名、よく一緒につるんでいる男子がいるらしいけど、まあこの際、話からは除外しておく。どう考えたってややこしいからね。
A君は普段から、しょっちゅう「ひょろひょろしてんな」だとか「すげえ女顔」だとか「実は男が好きなんじゃね?」だとか、口さがないことを言ってしのりんをからかう男子たちから、しのりんを庇うような立場にいたらしい。
いや、僕だってその場にいたらそいつの顔面にグーパンぐらいはかますかもしれないな、そんな台詞を聞いちゃったら。
要は彼も、普通に正義感の強いタイプ、無駄な争いや弱いものいじめなんかを好まないタイプだということか。
ともかく彼は、しのりんがそうやって周囲の男子から軽い気持ちでいじられていると、「お前ら、やめろ。かっこ
口調からも察せられるとおり、品行方正な優等生キャラと言うよりは、ちょっとばかりワルぶってるけど根は優しい、寡黙でワイルドな男子高校生といったところか。
ああもう、しのりんの好みにどストライクだ、ああ。
聞いてるだけでもう、僕は本気で頭が痛くなってきた。
だから、彼女が落ちるのなんて時間の問題だったのだ。
あ、これは僕が言ったんじゃなく、しのりんが自分でそう言ったんだからね?
とにかくしのりんは、ぽつぽつと教えてくれたのだ。
彼女は高校生活が始まってからものの数ヶ月もしないうちに、心の底でその秘密の気持ちを芽生えさせ、今に至るまで育ててしまっていたのだと。
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