第二章

第1話 試験勉強


「ねえねえ、ゆのぽん。また数学、教えてくれない?」

 この時期になると、決まってしのりんがそう言いだす。

「しょうがないなあ。また分からなくなっちゃってるの」

 僕は笑って、すぐに「いいよ」と答えてあげる。


 しのりんは、数学がかなり苦手だ。

 もちろん一般的な話に過ぎないけれど、やっぱりあの科目はどうしても、男子のほうが女子より得意な人が多いように思われる。

 しのりんは、身体のほうはともかく心はちゃんと女の子だからなのか、とても数学が苦手なのだった。対する僕だって、めちゃくちゃに得意かと言われるとそこまででもない。でもまあ、しのりんに比べればかなりマシかも。


 もともと二人とも部活には入ってなくて、試験期間だからといって帰る時間なんかは変わらないけど、僕らは学校帰り、事前に約束しあって近場の図書館なんかでよく一緒に勉強しているのだ。

 その図書館には学習室があって、とはいえあんまり私語はしちゃいけないんだけど、僕はこそこそとノートの隅に数式を書いたりして、しのりんに勉強の内容を教えてあげる。


「あーもう! 数学なんて、なんで勉強しなくちゃいけないんだろ。あんな公式だとかなんだとか、ほんとに社会に出てから使うひとなんている?」

「いや、だからそうじゃなくて」


 図書館から出て、教科書や参考書の入った鞄を放り出しそうに振り回しながらぶーたれているしのりんを見て、僕はまた苦笑する。


「あの公式をそのまま日常生活や仕事で使うかって言われると、そうじゃない人が圧倒的に多いだろうけど。要は、ああいう数学的、論理的な思考力を鍛えるための勉強なんだって僕は思ってるよ。わかってくれば、ちょっとクイズを解いてるみたいで楽しいし」

「えーっ。わけわかんない。ゆのぽんの脳内はやっぱり意味不明だよ……」


 まさに「げーっ」という顔になって、男子の学生服を着たしのりんがこっちを見上げる。僕は僕で、うちの高校の制服のままだ。


「だからさ。スポーツなんかと同じだよ。ちゃんといいプレーをするためには、鍛えられた筋肉だとか、研ぎ澄まされた感覚なんかが必要になるわけでしょ? そのためにみんな、地道な基礎訓練を毎日つみ重ねてるわけじゃない」

「う〜ん……。それはまあ、確かに……?」

「物事を筋道だてて考えることだって一緒だよ。普段から鍛えておかなきゃ、いざとなったときに使い物にならないじゃない。そのための、脳の訓練なんだと思うんだよね、数学って」

「うわ〜。ダメ。とっても、そんな風に巨視的には考えらんないよ……」


 さらっと「巨視的」だなんてそんじょそこらの高校生が使うはずもない語彙が出てくるあたりが、いかにも物書きさんだなあ、なんて思いながら僕はちょっと半眼になった。

 だけどしのりんはそんな僕の様子には気づかぬ風で、「ボクにはそんなことより、目の前のテストが大問題」と言って肩を落とし、「とりあえず喉かわいた! どっか喫茶店にでも入ろうよ」と、まったく正反対の行動へといつものように僕を誘うのだった。

 だから、そういうことをしてる暇に少しでも問題を解けばいいのに。

 だけど僕もただ苦笑するだけで、彼女に誘われるまま街のハンバーガー屋なんかに入ってしまう。だってしのりんといる時間は、僕にとっても大切なものだから。

 そうは言っても、僕も「教えて」と言われた以上は責任がある。だから席について落ち着いたところで、しのりんに向かってこう言った。


「はいはい。飲み物のんだね? じゃあもう一回、ここでさっきやった参考書の問題やってみて」

「えええ! 鬼! ゆのぽんが鬼ぃ! ボクの脳が、こんなにも休みを欲しているのに!」

「うるっさいよ。いいからやる。ほらほら、ノートも開いて。ここでやるかやらないかで、本番の二点や三点、すぐに変わってくるんだぞ」


 僕はまるめたノートで軽くぽんと彼女の頭をはたいて行動をうながす。

 傍目はためにはちょっと背の高い「女子高生」と、やや背の低い細身の「男子高校生」が仲良くしてるようにしか見えない光景。実際の中味がどうでも、周囲の人たちは僕らが普通につきあってる二人だとしか見ないのに違いない。まあ、それはそれで便利なので、こっちはそのシチュに敢えて乗っからせてもらうばかりだ。

 男子が使うのに不自然には見えない程度のちょっと可愛いデザインのシャーペンで、しのりんがかりかりとノートに数式を並べだすのを見やりながら、ぼくは汗をかいたアイスコーヒーのカップを手にしてストローに口をつけた。





 少し日が傾いたところで、僕はしのりんと別れた。

 二人はここから反対方向の電車に乗るからだ。


 離れてゆく小柄な「男子高校生」の背中をちょっと見送って、自分も反対側のホームへあがろうとしたところで、不意に僕は誰かに肩をたたかれた。


「やっぱ、ゆのだよね? 久しぶり」


 聞き覚えのある女の子の声が耳に届く。

 振り向いて、僕は「ああ」と声をあげた。

 そこには、中学で一緒だった元クラスメートの女の子が立っていた。


「あやっち……? だよね。見違えちゃったよ」

「そ? 別に変わってないと思うんだけど〜」


 いや、それは口だけのことだとすぐに分かった。

 高杉あやは、僕と同い年の高校生だ。以前はもう少し地味ないでたちだったはずなんだけど、どうやら彼女はいわゆる「高校デビュー」とかいうのをしてしまったらしい。今では髪は茶色になってるし、やぼったかった眼鏡もなくなり、うっすら化粧なんかもしているようだった。

 僕よりは小柄で凹凸もしっかりとある体つき。

 いきなりの旧友の登場にちょっと面食らったのは本当だったけど、僕は本当はそんなことより、ずっと驚いたことがあった。


「あやっち、その制服って――」


 そうなのだ。

 彼女は間違いなく、しのりんの着ていた制服の、女子用のほうを身にまとっていた。

 ブラウスとベストにリボンタイ、短めのチェックのスカートにニーハイを合わせている。髪の毛はゆるやかにウェーブして、非常に女の子らしい様子だ。

 そう。

 もしそれが許されるなら、きっとしのりんがこういう格好がしたいに違いないという、まさにそんな感じのいでたちだった。

 つまり、今の高杉あやはしのりんと同じ学校に通っているということだ。

 僕はちょっと、胸がはねるのを自覚した。


(見られてた……のかな)


 いや、それだけのことなら、別にどうということもないけれど。

 でももし、しのりんが僕に対して使っている言葉づかいだとか仕草だとか、変なことに感づかれてしまったら話がひどくややこしくなる。僕は無意識に身構えて、様々な可能性を考え、それに対して返す言葉を何パターンか、一瞬にして脳裏にえがいた。

 しかし、あやはあっさりこう聞いたのだ。


「んねっ。さっきの、うちの篠原じゃない? なあに? ゆの、あいつと付き合ってんの?」


 にやにやと、彼女の口の端や頬が我慢できずにゆるんでくるのを、僕は「ああ」と、あることを思い出しながら見つめていた。


 そういえばこの子、僕は昔から苦手だったんだよなあと。


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