第6話 夜闇

 母、則子の仕事は看護師だ。

 看護師というのは、ある程度の年齢になるまでは三交代、二十四時間体制での勤務になるのが普通だ。

 日勤、準夜勤、そして夜勤。


 日勤と準夜勤の日はよかった。

 問題だったのは、母が夜の九時ごろから出て行く夜勤の日、その夜のことだった。

 当時、まだ三十と少しの年齢にすぎなかったあいつは、そういう夜になると決まって、僕の寝ている寝室に忍んでくるようになったのだ。


 とは言っても、さすがに犯されるところまでいったわけじゃない。

 逆に言えば、そこまでの度胸もないような、ちんけなゴミみたいな男だった。

 あいつは寝ている「娘」の下着の中に手をいれて、しばらくごそごそを繰り返す。子どもが寝ているものと信じきっているようだった。

 僕は不快な感覚に目が覚めてはいたけれど、起こっていることがすぐには理解できなくて戸惑い、声を出すことができなかった。寝返りをうつふりをしてその不埒な手から逃げたけど、その手はほんとうにしつこかった。


 僕は次こそあいつがまたやってきたら、その手を刺してやろうとまで思いつめて、木工の工作用のナイフをお守りがわりに枕の下に入れて寝るようになったほどだった。

 でも、いざとなったらそれを取り出す勇気がなかった。


 ある日、僕はとうとう母に言った。

 そんな事がつづいて、一年以上たってからのことだった。

 「お母さん、夜勤、やめてほしいんだけど」と。

 理由についてはきちんと言うことができなかったので、母はそれを、単に僕が寂しがって言っていることだと勘違いしたらしかった。だから当然、夜勤はやめてくれなかった。

 その後も、母が夜勤になる夜には、何度も何度も、そのことは繰り返された。


 夏休みなどの長期休暇のときには、共働きの両親では面倒が見きれないというので、僕らはきょうだい三人して田舎の祖父と祖母の家に何十日も預けられた。その時はほんとうにほっとした。

 実はそこでロリコンの痴漢に遭遇したこともあるんだけど、家の中にいて自由に寝室に入ってくる奴よりも、そういうあかの他人の痴漢のほうがよっぽどマシだと思ったぐらいだ。


 何度もこのことを母に言おうとは思ったけれど、やっぱり僕は言えなかった。

 今の僕なら、なんのためらいもなく言えると思う。でも、当時の小学生だった僕には、とてもそんな勇気はなかった。

 機嫌のいいときにはごくいい父親でもあるあの男と、弟たちと母のいるこの家庭を、僕がめちゃくちゃにしてしまうのがどうしても怖かった。

 今の僕なら、そんな僕を張り倒してでも「本当のことをぶちまけてやれ」と言えるけど、当時の僕にはどうしたって無理だったのだ。

 きっと、そんな子はこの国の中に、世界中に、まだまだ沢山いるはずだと思う。

 いや、僕なんかよりももっとずっときつくて酷い目にあいながら、それでも悲鳴すらあげられず、黙っているしかない子どもたちがたくさん、たくさんいるだろう。

 そういう子のことを考えるとき、僕の胸は火山の奥底みたいにぐらぐらとわきたって、そんな卑怯な男ども、いや大人どもをみんな、すり潰してこなごなにしてやりたくなるのだ。



 その後、僕はあれこれ考えて、子どもなりになんだかんだと理由をつけ、その頃いっしょに住むようになっていた父方の祖母の部屋で一緒に寝させてもらうことにした。そのため、あいつが夜中に僕のベッドにやってくることはなくなった。

 それでやっと、僕は安心して眠れる家を自分の手に取り戻したのだ。

 とは言え、それもほんの二年ぐらいのことだった。その後、祖母は別の親戚の家に行くことになってしまったからだ。


 祖母が家からいなくなったあとしばらくして、またそのことは始まった。

 夜、仕事から帰ってきて食事をし、ビールなど飲んで酔っているときの父の目が、寝巻きに着替えた僕の体の上を卑猥な意図をもって撫で回していることに、僕はとうに気づいていた。

 そういう日に、母が夜勤だったりしたら最悪だった。


 それでもやっぱり、僕はしばらく我慢していた。

 気づいていても寝たふりをして、寝返りをうっては何度かその手を振り払い、あいつが満足して寝室からいなくなるのを待っていた。

 ただの馬鹿じゃないのかと思うけど、あいつはそれでもまだ、その行為について僕には気づかれていないと思っているらしかった。なぜならその後も以前と同様、家族に向かってえらそうにオヤジ風をふかして「勉強しろよ」「いい学校へ行け」と、まるで教育熱心な父親のような顔でそれらしい説教をしていたからだ。

 僕は反吐へどの出そうな思いと、大笑いしそうな思いの両方で心を引き裂かれながらそんなあいつの説教をだまっておとなしく聞いていた。


 その頃から僕は、髪を長くのばすことも、自分を「私」と呼ぶことも、スカートを履くこともしなくなった。

 あんなクズみたいな奴を引き寄せる、自分の身体がうとましくて仕方がなかった。


 本当のことを言えば、そこからまたしばらくして、僕はあるときとうとう、そのことを母親に言ったことがある。

 夜中に父親が自分の寝室に忍んでくること。

 そして、下着の中に手を入れてくることを。


 そのときの母の反応は、とても奇妙なものだった。

 確か、一緒に上の弟の太一もその場にいたと思う。太一はまだ、小学校の高学年だった。あいつはまだ、そこで何が語られているのかもよく理解していないような顔だった。

 母はなんだか、非常に不機嫌そうだった。困っているというよりは、なんとなく僕に対する怒りというか、不満を覚えているような表情だった。

 そして「まあ、そんなこと……」とひとこと言ったあとは、ただもう黙って、僕が必死に涙をこらえながら出している、震える声を聞いていた。

 でも、終始ずっとうつむいて、こっちを見ようともしなかった。



 ……そして、どうなったか。

 結論から言って、父のその行為は止まらなかった。



 僕は、すべてに絶望した。

 母はきっと、このことを父には言わなかったのだろう。

 ただ黙って、「そういう事実があったのね」と認識したに過ぎないのだ。

 いや、それも違うのか。

 母の中では、そんな事実があったこと、そんな話を僕から聞かされたことそのものが、夢の中であったことであるかのように綺麗に隠蔽されてしまったのかもしれなかった。

 母はそういう、「自分の聞きたくないこと」は何でも聞かなかったこと、なかったことにできるという、とても便利な体質の人だったから。


 あるいはもしかしたら、この一見平和で幸せな家庭を壊されるぐらいなら、僕の一人や二人、あの男に供物として捧げておけばいいだとか、そんなことまで考えていたのかもしれない。

 なにしろ僕は、彼女にとっては鬼子みたいなものなんだ。

 僕さえ生まれていなければ、母はあんな男と家族にならなくても済んでいたのかもしれない。そう、僕なんて母にとっては生まれてこなければよかっただけの存在に過ぎないんだから。

 彼女にとっては、自分の手元に可愛い息子たちだけがいれば十分なのだ。だからこの家庭の問題のすべては僕という一人の「娘」に背負わせてしまえばいい。

 今までの仕打ちを思えば、母がそんな風に考えたからといって僕にはなんの疑問もなかった。

 中学生の子どもとしてはもの凄い勇気をふりしぼって告白したつもりだった僕は、拍子抜けし、ただしばらくは呆然としていた。

 それでもまだ、一応は自分の母親だと思っていたその女のことを、僕はそこで親だと思うことはやめたんだと思う。


 ……僕はあのとき、はっきりわかったんだ。

 自分が、あの人に捨てられたんだということを。


 母が父にそのことを言ったのかどうかさえ、そのときの僕にはもう確かめる気力も勇気もなかった。

 何度かは死にたくなったし、実際、死ねる方法をあれこれと模索もした。

 投身自殺も入水自殺も、とても死後が醜いし、周囲の人に迷惑もかける。

 だったらどんな死にかたがいいかななんて、真剣に考えていた時期もあった。


 でもまあ、結局は死ななかったけどね。

 実際、本当に死のうってなったら、足が震えてなかなか思い切れなかったっていう、ただそれだけのことだったけど。


 だから、僕のこれはしのりんのそれとは違う。

 彼女の悩みは、また全然ちがうものなんだってこともある程度は理解できるつもりだ。

 しのりんはこの事について、はっきりは知らなくてもうすうすは気づいているんじゃないかと思う。

 それでも何もきいてこないでいてくれるしのりんを、僕は大好きだし、これからもずっと大事にしたいと思ってる。

 話せばきっと、ちゃんと聞いてくれるだろうってわかってるし。


 だから僕も、いざとなれば必ずしのりんの味方になる。

 彼女が話したいって思えばちゃんと話だって聞くつもりだし、きっと役に立とうと思ってる。

 そういう意味で、僕らは同志だ。

 この世の中に生きていて、簡単には理解してもらいにくい立場にいる人間として、という意味での同志なんだ。



「……あ。いけない」


 と、キーボードを叩く手が止まっていたことに気づいて、僕は苦笑した。

 早期割引の締め切りが迫っているのに、まだまだ僕のイベント用の新刊の原稿は半ばにさしかかったばかり。そうこうするうち、期末考査だって迫ってきている。

 自分がいずれこの家を早めに出て行くためにも、勉強をおろそかにするわけにはいかない。この異なる道を両立させるためには、自分の時間をきちんと区切って優先順位をつけ、やるべきことをするときにはとにかく、それに集中できるスキルが必要だ。

 僕は椅子に座ったままで一度ぐっと伸びをすると、ふたたび自分の物語のほうへと頭の中をシフトさせた。


 外は、すでに深夜。

 夜中にもけっこう起きていることの増えた僕のところに、あの男はなかなかやって来にくくなった。

 僕のほうでも、その後なんだかんだ理由をつけて部屋に内鍵をつけてもらったというのも大きい。

 もう二度と、この身体をあの男のいいようにはさせない。


 母があいつと離婚はしてくれない以上、自分の身は自分で守るしかないのだ。

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