第5話 観戦
僕は、プロ野球が大嫌いだ。
別にスポーツは嫌いじゃないし、野球がとりわけ嫌いだなんてこともなかったはずなんだけど、とにかくテレビでやるプロ野球の試合が嫌いだった。
理由ははっきりしている。
父親の勇治が、とあるプロ野球の球団の大ファンだったからだ。
勇治は、学歴こそ高いものの、高校生の僕なんかから見ても相当に精神的に幼いところのある男だ。
ちょっとしたことですぐにかっとなって、それがそのまま家族への暴言や暴力になって現れる。
女こどもに平気で手をあげたり、蹴りを入れたりするような男は、結局肝の小さいダメな奴に過ぎないんだって、僕にだってそろそろわかってきている。家の中ではあんな風でいるくせに、外へ出て本当にいかつい、それこそその筋の男に怒声を浴びせられたりしたらこそこそ物陰に隠れるような、そんな男に過ぎないのだ。
小さなころから、勇治は本当につまらないことで妻である母やら僕や、弟たちに手を上げてきた。
いつも、ただ単にその時のあいつの気分次第だった。
時には床に転がった弟を足で蹴りまくったこともある。
母は僕のことはあまりまじめに守る気がないようだったけど、弟のことになるとすごい形相になって自分の身を挺して弟を守っていた。ごく小さなころの記憶だけど、それはよく覚えている。
子どもから見れば小山のように大きく見えるあの男は、本当に黒山になった鬼みたいにしか見えなかったものだった。その恐怖のために身体がすくんで、弟や母が蹴り上げられているあいだ、僕は部屋の隅に棒立ちになっているしかできなかった。
今だったら、椅子でもなんでも振り上げてあいつの頭に叩き落してやれるだろうと思うけど。力の差は武器の差で補わせてもらう。そのぐらいさせてもらったって
そんなあいつも、ひいきのチームが勝っているときは異常なぐらいに機嫌がいい。どんどんビールの缶を空けて、チームが気持ちのいい勝ち方をしている間は子どもたちに小遣いをくれたり、ちょっとしたおねだりにも「うんうん、買ってやるぞ」と調子のいいことを言ったりさえする。
でも、負けているときは最悪だった。
本来なら楽しい場であるはずの一家そろっての夕食の席が、それだけのことでまるで通夜のようになる。
ほんのちょっと、おかずをテーブルの上にこぼしたぐらいのことで、殺気のこもった視線でにらまれ、逆手に持った箸で頭を殴られる。ときには拳骨を落とされ、テーブルの上の食事をぶちまけられる。
僕ら兄弟は、みんな屠殺場につれていかれる家畜みたいな気持ちになって、ただじっと静かにその恐ろしい時間をやりすごすことだけを考え、一刻も早く食事を終えようと口を動かす。それだけだ。
父は自分のひいきチームが負けているときには実況アナウンサーの声さえ聞きたくないというので、テレビの音量をゼロにしていた。だからリビングに漂うのは息の詰まるような沈黙だけ。
もちろん、食事の味なんてわかるわけがない。
なんで母の則子がこんな男と結婚しようなんて気になったのか、僕にはずっと疑問だった。
母は母で、きょうだいのなかで末っ子だったこともあってかなり甘ったれな性格なのに、どうしてこんな暴力的でわがままで幼稚な精神しか持たず、包容力のかけらもない男を好きになんてなったんだろうと。
でもその疑問は、あるとき突然はっきりわかった。
確か、中学に入ったころのことだ。
僕はなんの気なしに、本当になんの気なしに母に訊いたのだ。
「そういえば、お父さんとお母さんの結婚記念日っていつなの?」と。
母は何も考えずに、思わず本当の日をぽろっと答えた。
そしてすぐ、一瞬だけ「しまった」という顔になった。
あの顔は忘れられない。
その日はどう考えても、僕の誕生日より八ヶ月も前ではなかったのだ。
つまり、そういうことだ。
「でき婚」なんて、今では別に珍しくもなんともないし、むしろ「赤ん坊ができたってことは、私たちにはご縁があったんだね」って結婚して、そのまま幸せな家庭を築いてる人はたくさんいるだろう。
だから別に、それが悪いだなんて子どもじみたこと、僕も思っていやしない。
でも、少なくともうちの両親についてはそうじゃなかったんだと思う。
どういうわけだか、甘ったれの男と女がそういう関係になってしまい、無責任にも子どもが――つまりは僕が――できてしまって、かれらは仕方なく結婚した。
過程はどうあれ、事実はそういうことなんだろうと思う。
もしもそこで僕という「問題」が生じていなければ、この二人はその後、いずれは別れる選択ができていたかもしれないのだ。
甘ったれの母は、甘えたいのに夫に甘やかしてもらえない。
甘ったれの父も、やっぱり甘えたいのに妻に甘やかしてもらえない。
母のそのはけ口が僕だということは話したけれど、実は父の方もそうだった。
僕にとって「女でいたくない」ことの最大の理由は、そこにある。
父、勇治の中にある歪んだ甘え、満たされない思いのはけ口として、未成年の長女が選ばれるなんて、それは考えてみればごく自然のなりゆきだった。
僕はあの母に比べればずっと甘えた性格じゃなかった。
下に弟たちもいるし、面倒見は悪くないほうだと思う。
そういう部分に、あの男は次第しだいに精神的に擦り寄ってきていたのだろうと思われる。
だけど、小学生の僕に、その時、そんなことがわかっただろうか。
誰がそんなこと、僕に教えてくれただろう。
そして。
そのことは、僕が小学校の高学年になったころから始まったのだ。
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