第2話 エプロン
うちに帰ると、もう外はすっかり暗くなっていた。
でも、中学生の弟たちは部活でまだ帰っていなかった。
僕には弟がふたりいる。
上の弟の太一は中学三年生。下の弟、純也はそれとほとんど年子みたいにして生まれたけど、四月生まれのためにまだ中学一年生だ。
ふたりとも運動部なので帰るのは遅い。
母さんも仕事をしていて、早くても七時にしか戻らない。だから食事の準備なんかはかなりのところ「女の」僕がしなくてはならないことになる。
うちの母親、
だから奴らはなにもできない。
それはたとえ僕が高校受験のことでいっぱいいっぱいになっているような時期であっても変わらなかった。僕は、中間テスト、実力テスト、そしてまたすぐに期末テストだなんていう過密スケジュールの中にあっても、ずっとこの家の家事のかなりの部分を担当させられていた。
そりゃあまあ、「あんたはお姉ちゃんなんだから」と言われてしまえばそうするのも仕方がないかとは思ってた。弟たちが幼いうちは、それでも仕方ないかなって。そして実際、かなり頑張ってきたと思ってる。
でも、中学にあがる頃になってからはだんだんと、そうじゃないことがわかってきたのだ。
母は僕がどんなに忙しいときでも、リビングでテレビなんか見てごろごろしている父や弟たちには何もさせる風がなく、僕にだけ料理そのほかの手伝いをさせていた。どう考えてもフェアじゃないと思って、それに少しでも文句を言うと、すかさずとんでくるのはこんな辛らつな台詞だった。
「なに言ってるの。あんたは本当に思いやりのない子ね」
「あんたがちょっと気がついて、なんでもささっとやっておいてくれたら、お母さんはもっとずっと楽なのに。本当に気がきかないんだから」
「本っ当に、心の冷たい子よね。誰に似たのかしら」
そうして、「絵なんて描くくせに、なんて下手な盛り付けなのかしらね。才能ないんじゃないの」とひどく嬉しそうに僕のやることなすことをけなすのだった。
母がそうやって「娘」にあの手この手であてこすりを言い、やることをくさしては心の憂さを晴らし、腹のなかでほくそ笑んでいることを、僕は肌で感じていた。でも、それでも何も言わずにただ手伝ってきた。
外で仕事をして帰ってきた母は当然疲れていて、いつもいらいらしているようだった。そしてそのイライラの矛先はつねに横で彼女を手伝っている僕に向くことになっていた。
それがどんなに理不尽なことなのか、母にはまったく理解できないらしかったけど。
父や弟たちはと言えば、キッチンで展開されているそんなうっとうしいやりとりのことなど気づきもしないで、のんべんだらりと過ごしていた。テレビからながれてくるお笑い芸人と、その観客の笑い声が僕の耳に虚しく届くだけだった。
父は父で、「男子厨房に入らず」と教育されて――というより、甘やかされてと言ったほうが正しいだろうけど――育ってしまった人で、なにひとつ母の家事を手伝おうとはしなかった。そうしてそれを、ひとつも疑問には思っていないようだった。
当然、弟たちはそんな父を見て育ったがために、このままそれとまるきり同じ種類の男になってゆこうとしているわけだった。
母は、彼らに文句を言うことはまったくなかった。
というよりも、やっぱりそれを当然と思っているらしかった。
女は家庭のことをやり、男は外で仕事をする。そういう古い日本の考え方というか性別による役割分担について、母はなんの疑問も感じていないようだった。
でも、だからといって弟たちに「勉強しろ」とうるさいかというとそうでもないというところが、かなり理解に苦しむ人なのだった。要するに、弟どものことはかなり甘やかしているということだろう。
このまま放っておけば、あの父みたいな男が二人、確実に出来上がって社会に放逐されるばかりだろう。
なんだかぞっとするような未来だと思った。
女親が、娘よりも息子のほうをずっと可愛いと思う生き物であるらしいということに、僕はようやくこのごろになって気がついてきた。
まあ、母の場合はそればかりでもない気もするけど。
母は一応、看護師なんてやっていて決して頭が悪いわけではないと思うんだけど、僕から見るとなんでも非常に感情的にしか考えられない人だ。とりわけ論理性であるとか合理性であるとかいったことからは対極に位置する部分で生きているような人種である。
対する僕はこんな風で、色んなことをわりと客観的に、論理的に考えたいと思うタイプ。要するに、母から見ればとんでもなく可愛げのない「娘」だということになる。
だからこそ、日々のあんな嫌味やあてこすりにも磨きが掛かってしまうのだ。
母の中では、「冷めた目で物事を見られる女の子」は簡単に「可愛げのない、心の冷たい娘」というカテゴリーに分類されてしまうことになる。
そうして余計に、可愛い「アホ息子」たちを溺愛するほうへ走るというわけだ。
これはもう、負のスパイラルそのものだ。
今更、だれにもどうにもできないほどに。
でも、それやこれやが僕が「女でいたくない」理由かというと、そうじゃない。
そんなことは、あのことにくらべればずっと些細なことに過ぎない。
正直、あのことさえないのなら、別にこのままずっとこの家を出るまで母の手伝いをひとりでさせられるとしても構わないと思っていた。
こんなにまで、「女でいたくない」と思うこともなかったはずだと思う。
そう。
あのことさえ、ないのなら――。
「あれっ。ねえちゃん、帰ってたの? なに暗いとこでぼーっとしてんだよ」
と、背後のドアを無造作に開けて入ってきたのは、下の弟の純也だった。日焼けした顔に、ちょっと長めの髪がはりついている。
弟が入ってくると、玄関が急に汗臭くなった気がした。
「おかえり。僕もいま帰ったとこだよ」
「あっそ。あ〜、もう腹へったあ!」
陸上部に入っている純也は、洗濯物の山ほどはいったバッグを玄関の上がり
上の弟の太一も、すぐに帰ってくるだろう。
純也は父親がするのとまったく同じで、着ているものをあちらこちらに脱ぎちらかし、それがいつの間に風呂場の洗濯かごのほうへ移動しているのかも気づかない様子だ。
こんなサルに何を言ってももう無駄だと思っているので、僕ももう何も言わないけど。
こんな奴はいずれ結婚もできなくなってから、せいぜい泣きを見ればいいんだと思ってる。
こんな男が三人も家にいて、「男になりたい」なんて思うわけもない。
だから僕のは、しのりんのとは違うのだ。
女ではいたくないけど、だからといって男になりたいわけでもない。特にこんなアホなサルになるぐらいなら、この世から消えたほうがマシなぐらいだと思う。
「ねえちゃ〜ん、とりあえず何でもいいから、なんか食えるもんない?」
サルが早速リビングから餌をねだる発言をよこしてくる。
甘ったれた声。虫唾が走る。
母猿に甘やかされまくった欠食児童の子猿に向かって、適当にそこにあったバナナを投げつけておいてから、僕は荷物を部屋に置き、エプロンをつけてキッチンに入っていった。
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