*一粒の砂糖
──数日後
「ブルー教官!」
ベリルとの訓練のあと、廊下を歩いていたとき後ろから女性の声で呼び止められる。振り返るとピアノの講師で呼ばれたアリシアが少し緊張した面持ちで立っていた。
ブルーは元兵士ということで他の専門家たちからも敬遠されがちだ。体格の良さや鋭い存在感からか親しく話しかける者もほとんどいない。
「アリシア先生」
「あの……。ベリルの様子はいかがですか?」
「別段、何もありませんよ。何か変わったことでも?」
「いいえ。そういうんじゃないんです。ただ、ちょっと気になっただけで」
「気になった?」
彼女の言葉にブルーはやや眉を寄せる。他の人間と違い自分は遅れて入ってきた。ベリルの事については訓練時以外、よくは知らない。
加えて、軍での生活が長かった事で日常に対する感情や動作などの変化には気付きにくい。
険しい顔をしたブルーにアリシアは、そんな深刻なことではないと前置きした。
「あの子……。あなたに一番、懐いている気がして」
十五歳になったベリルは子供の頃の態度はすっかり消え、十も歳が離れているのに見つめられるとこちらが目をそらしてしまうほど魅力的に育っていた。
ブルーは何を言い出すのかと目を丸くする。
「あっはっはっ、ベリルが俺に?」
武器を扱う手前、厳しく接している自分に懐いているとは思えないブルーはつい声を出して笑った。
「だって、あなたと会話しているとき、あの子とても楽しそうにしていますよ」
アリシアの言葉にブルーは少し関心を示した。ベリルを嫌っている者はいないようだが、彼女のように気に掛けている者もいないだろう。
施設には女性の専門家はアリシア以外にも数人いるが、彼女ほど若くはないせいかそれぞれの仕事をこなす事を重視している。
本来なればアリシアが一般的かもしれないのだが、この中にあってブルーは彼女を珍しく感じた。
「それは、あれだ。戦場にいる仲間みたいなもんだよ」
「そうなんですか?」
全てを知っているブルーに、ベリルが心を開くのは当然のことなのかもしれない。だが、それを他の人間に話す事は出来ない。
心苦しいがそれが約束なのだ。ベリル自身も、彼らのために自分の正体を明かす事はしない。
知るべきでないもの──己の存在をそう認識しなくてはならない現実に、ブルーは眉をひそめた。
ならば、せめて俺だけでもあの子の理解者でい続けてやりたい。いや、もう一人いたか。
マークを思い出し口元を緩める。
「何か?」
「いいや、なんでもない」
半ば震えながら声をかけ、ベリルのことで互いに協力しあおうと話した青年は徐々に熱く語り始め、最後には硬くブルーの手を握った。
それほどにベリルの事を考えているのだろう。ある意味、視察員であるマークは外の人間だ。
一人でもベリルの理解者が外にいることは、ブルーにとっても安心できることだった。
「大丈夫ですよ。好戦的にはなっていません」
「あっ、いえ。そんな風に考えていたんじゃないんです」
「ええ、解っています」
「お引き留めしてすいません」
「いや。これからもベリルをよろしくお願いします」
「はい」
アリシアは、まるで自分の子供のように発したブルーの背中にいぶかしげな表情を浮かべた。
──ブルーと別れたあと、アリシアは施設の厨房を訪れた。全てのスタッフを含め三百人の腹を満たすための厨房には、広さだけでなくあらゆる調理機材が設置されている。
「さーて、と」
アリシアはきりりと目を吊り上げ、腕まくりをする。明るい栗色の髪を後ろで束ね、淡い黄色がかった瞳で食材を目の前にレシピを睨み付けた。
誰もいない厨房の片隅、オーブンの近くにどっかりと腰を据えレシピの写真に笑みを浮かべる。
「明日はケーキでも作ってあげよう」
間違いのないようにしっかり計らなきゃと鼻息荒く計量器を睨みつけた。しかし、アリシアは一向にケーキ作りを始める気配がない。
「はあ~……。わかんない」
そうなのよね。私、ピアノばっかり弾いてて、料理なんかしたことが無かったのよ。こないだのクッキーだって、ベリルの優しさからだわ。「美味しい」って言ってはくれたけど、あれはとてもじゃないけれど美味しいなんて代物じゃなかったわ。
アリシアは、少しでもベリルと仲良くなるために試行錯誤を繰り返していた。自分に出来ることは何だろうと考えた結果、お菓子作りだと決めたものの、何度もチャレンジし何度も失敗してばかりいる。
本当にお菓子作りのセンスが皆無なんだわと情けなくなってくる。
「そういえば……」
ベリルは料理も勉強しているんだわ。栄養学の権威が施設にいるんだった。世界に名を馳せたシェフにも教わっているんだ。
アリシアは深い溜息を漏らし肩を落とした。裁縫も、編み物も、私はてんでだめで、ベリルはそれすらも専門家に教えを受けている。
彼にとっては「専門家の教え」が政府からの仕事なのだけれど、それを全て受けてなおかつ、しっかりと吸収しているのは驚きだ。
「私のお菓子なんかより、彼が作った方が美味しいに決まってる」
もうこんなこと止めようかな。すっかりしょげて、冷たいステンレスにつっぷした。
「そうか。だったら──」
いいことを思いついた。
──次の日
「私がですか?」
「うん、そう。私にケーキの作り方を教えてくれないかな」
アリシアはベリルにお菓子作りを持ちかけた。仲良くなるなら作るのもいいけど、教えてもらうのもいい方法だと考えたからだ。
ベリルはアリシアの言葉に当惑する。ずっと教えられる立場にあった自分が誰かを教えるなど、今までになかったことだ。
「先生は」
「何?」
「お幾つでしたか」
「……」
その問いかけにアリシアはこめかみの血管を若干、浮かせた。
それはあれかな、三十五歳にもなってケーキも作れない私を笑っているのかな。それとも、いい大人が十も下の子供に教わることがおかしいのかしら。
そんなアリシアを見つめてベリルは少し口角を吊り上げた。
「いいですよ」
「あ、本当?」
「明日は予習時間が多く取れます」
携帯しているタブレットを見ずに応えた。渡される一週間分のスケジュールをベリルは全て記憶していた。
──約束の日、ベリルが調理実習を行う厨房でアリシアと二人、ケーキ作りを始めた。
アリシアはフリルの白いエプロンを付け、ベリルは胸から膝ほどのシンプルな黒のビブエプロンを身につける。
初めて見るベリルの姿に思わず顔が緩むのが解った。
「どのようなケーキを作りますか?」
「えと、普通の」
アリシアはハッとして、眉を寄せるベリルに半笑いを返した。
普通のって何よ私……。いくら緊張してるからって普通のは無いでしょ。なんで年下の子に緊張しなきゃなんないのよ。
どうやら心の中で葛藤を繰り返しているであろうアリシアを、ベリルは見つめて小さく笑う。
「それでは、まずスポンジケーキから作りましょうか。飾り付けは焼いている時にでも考えればいいでしょう」
冷蔵庫に入っている材料はすでに確認してある。ひと通りのものは揃っていた。
「あ、そ、そうね。そうするわ」
「基本的なスポンジケーキで進めていきます。基本を覚えれば応用が利くようになります」
「うん」
レシピ本を見てベリルの指示を受けながら進めていくが、ベリルは本も見ずに本の通りの分量をきっちり計っていた。
ベリルの手際の良さに唖然とし、こんなものまで記憶しているんだとアリシアは改めて彼の凄さを実感した。
「先生?」
「あ、ごめんなさい」
あまりの手際につい見とれてしまった。
十五歳は見た目だけならほぼ成人と変わりない、ベリルの身長はすでにアリシアを越えるまでになっている。
いつも私が見下ろしていたのに、いつの間にか見下ろされるようになっていたんだなと妙な感慨にふけった。
そしてふと、この子は確かに天才だと思い起こし、今までそれを鼻に掛けたことが一度もないことに気がつく。
私なんてピアノ以外、これといった事は出来ないし何も知らないと若干、自信を無くした。
「卵、湯せんするの?」
「泡立ちには温めが重要です」
心配そうに見つめるアリシアにそう答え、続きを促す。アリシアはそれを受け取り、充分に暖まったボウルを湯せんから外して泡立てを再開した。
「しっかり泡立ててください」
「うん」
返事をしたアリシアに笑いかけると、彼女はドキリとして視線をボウルに移した。
整った顔立ちによく通る声。まだ子供なのに、十も離れているのに、見つめられると心臓が高鳴る。
その瞳はどこか神秘的で美しいと思えた。けれども、こんなにも強い存在感なのにどうしてだろう、とても儚くも感じられる。
手を伸ばせばふっと消えてしまうんじゃないだろうかと不安になる。いま、この瞬間が幸せだと感じれば感じるほど不安は増していく。
「先生」
「なに?」
「泡が潰れています」
「え? ああああ!? うそ!?」
アリシアはかさの減った生地を見て呆然とした。さっきまであんなにふんわりしていたのに、小麦粉を入れてしばらく混ぜていたらいつの間にかかさが減っている。
「なんで?」
「卵の泡立てが不十分だったのでしょう」
「混ぜ方の問題じゃなくて?」
「泡立てがしっかり出来ていればあまり潰れる事はありませんから」
ちゃんと泡立てたと思ったのに、どうして彼に見せずに自分判断でやってしまったんだろうと手が震える。
「もう泡立ては無理?」
「この段階では無理ですね」
「そんなあ……」
今にも泣きそうな顔でベリルを見上げた。すると、ベリルはそれにこらえきれずアリシアに背を向けて肩を震わせる。
「ク、ククク」
「ベリル!」
アリシアは恥ずかしさで顔が赤くなった。もちろん、それだけではない事も心に秘めている。
笑われた恥ずかしさより、こんな風に笑うこともあるのだと、初めて見たベリルの様子に喜びを感じた。
しかし、しぼんだ生地は元には戻らない。このまま焼けばぺったんこなスポンジが完成すると思うとアリシアはまた泣きたくなった。
「どうしよう」
「では、ケーキは止めましょうか」
「え?」
ベリルは生地の入ったボウルを受け取り、フライパンに油を引き始めた。
──アリシアは、メープルシロップとバターの乗せられたホットケーキにフォークを立てる。不満そうにひと切れ口に運ぶが、味は最高だった。
「ケーキのはずだったのに」
フォークを噛み、悔しげにホットケーキを見下ろす。
「どちらでも構わないでしょう。良い出来です」
「美味しいけど」
ケーキ、作りたかったな。悲しげなアリシアの表情に、ベリルは小さく笑って立ち上がる。
「まだ時間はあります。作りますか?」
その言葉にアリシアは満面の笑みを浮かべた。
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